4周年

何が「4周年」かなんですが、当ブログ誕生4周年ではありません。当院開業4周年です。なんとかここまでやってきました。とりあえず自分に拍手、拍手。誰もしてくれなくても自分で拍手します。「つぶれなかったぞ」の4周年です。そういう訳で滅多にしない、自分のところの診療所の開業前の秘話です。

今を遡る4年10ヶ月前になります。当時小さな病院の一人医長をしていましたが、病院が小さいもんで雑用の役職(○○委員会の類)がどんどん増え、そういうのが嫌いな人間ですからウンザリしていました。それぐらいはどこでもある話で、「仕方が無い」とあきらめていましたが、雑用の役職の階級が雑用なりに上がって行き、経営委員会みたいなものまでさせられる羽目になりました。

まあそれも宮仕えですから我慢のうちですが、当時はまだ若かったのでしょうね、自分なりに「これはどうだ」の提案なんてものもしていました。ところが経営委員会の上にさらに会議があり、結局経営委員会で何を決定しても上部会議でひっくり返されるのです。一方で上部会議からの決定は絶対の決定として下りてくるのです。そういうのも良くある話なのですが、組織図上の建前は経営委員会が最高機関で、上部会議は非公式の存在でした。

ところが実質は非公式の上部会議が実権を握り、経営委員会はたんなる承認機関に過ぎないのです。つまり決定権は上部会議、責任は経営委員会の仕組みです。そのうえ非公式の上部会議の存在は院内で周知のことで、ある方針が成功したら上部会議のお手柄、失敗したら承認機関である経営委員会の責任の構図が出来上がっているのです。正直なところ無駄な委員会でした。

それでもなおその程度はよくある話ですが、上部会議からのある方針にどうしても承服できないものがありました。自分の診療に直接影響のあるお話で、これだけは絶対反対と抵抗したのですが、なんと言っても院内システムでは決定事項ですから、問答無用で押し潰される結果となったのです。

本当に若かったと思います。それでも承服できなかったので遂には直談判に赴き「もしその方針を断行するなら、私は辞める」と言い切って抗議したのですが、「決定だから」と一蹴。なおかつその承服できない方針の実行委員長まで押し付けられてしまったのです。私は承認したわけではなく、医局の机に辞令が一枚置いてあっただけなんですけどね。

「私は辞める」の言葉を相手側はブラフと受け取ったみたいですが、こういう時に性分としてブラフは使わない性格です。とは言え開業するのは一大事業です。そうそう右から左に出来るものではありません。それでも憤懣やるかたなく奥様に相談したら、当然の如く「大反対」。安定した勤務医生活を捨てるなんてトンデモナイの真っ当な御意見でした。

夫婦喧嘩寸前まで揉めかけたのですが、うちの夫婦の特徴で最後の一線は踏み込まずに適当に鉾を納めて開業話は頓挫しかけたのです。ところがその直後に奥様が義母に愚痴の電話をしてから事態は急展開します。義母が「開業の話ならTさんにしてみたら」と振ったのです。Tさんは奥様の御親戚で、そういう事業にも関与している人間だったのです。翌日に奥様が電話をしたら「開業してしまえ」の御託宣。勢いに押しきられた奥様が方針を変更し、我が家は開業に大きく舵を切る事になります。

数日後Tさんは担当者のN氏と来宅。その1週間後には開業場所まで決定し、後は開業に向かって驀進する事になります。瓢箪から駒みたいな開業で、結果として良かったのか悪かったのかわかりません。でも最低限、精神衛生上は良かったと思っています。開業するまでには目が回るぐらいの準備作業が必要で、クタクタになるまで走り回らなければなりませんでしたが、憤懣を押さえ込みながら勤務しているよりは遥かに楽しかったと思います。

開業後も完全な落下傘開業で、なおかつ近所は小児科銀座と呼ばれるぐらいライバルも多かったので、受診患者ゼロの閑古鳥外来を耐え忍ぶ時期もありました。閑古鳥外来は元々乏しい運転資金をすり減らし、職員の給料を払ったら底が見えそうになる時期もありました。

それでも4周年です。開業時スタッフ3人のうち2人は今でも健在で、時々1年目の驚くぐらい暇な時期の話題が出てきます。驚くぐらい暇な時期を過ごした経験は、「忙しい」を素直に喜べる感性を私もスタッフも持てるようになったことです。えらそうな事を言っても、つぶクリからふつクリになるかどうか程度で、ウハクリには縁遠い診療所ですが、「つぶれなかった」事は本当に感謝しなければなりません。

平成20年改訂の荒波もなんとか乗り切って、来年も5周年エントリーが書けますように。