エホバ問題

キリスト教の一派にエホバの証人というグループがいます。この教団についての詳細な知識は持ち合わせていませんが、医療関係者なら誰でも知っている教団です。別に変人奇人の集団で社会的に軋轢を引き起こしている訳ではありませんが、医療的には輸血を拒否すると言う事でしばしば問題を起こします。輸血をしなくとも99%以上の医療はごく普通に行なえますが、残り1%以下、とくに生死に関わる事態で大問題になります。

もちろん昨日今日から問題になったわけではなく、20年以上前から問題になっているのである程度ルールが出来上がっています。教団側も無用な軋轢を引き起こすのを避けるために輸血をしない事で治療を引き受けてくれる病院を探し、また輸血を行わない事により生命が危機に曝され、たとえ死亡と言う結果になろうとも、一切の抗議を行わないと言う事で医療側との合意を形成していると言えばよいでしょうか。

エホバも大きくなってその中で細かい分派はあるようで、輸血は駄目としても血液製剤ならこの程度OKとかあるようですが、私は実際にエホバ信者の輸血を必要とする治療を行った事が無いので実情には疎いところです。また私が研修医時代には子供への輸血問題がしばしば問題となりましたが、子供に関しては緊急避難的な輸血が認められるとかも聞いた事ぐらいあります。

そんなエホバ関連の問題が久しぶりにありました。6/19付毎日新聞より

 信仰上の理由で輸血を拒否している宗教団体「エホバの証人」信者の妊婦が5月、大阪医科大病院(大阪府高槻市)で帝王切開の手術中に大量出血し、輸血を受けなかったため死亡したことが19日、分かった。病院は、死亡の可能性も説明したうえ、本人と同意書を交わしていた。エホバの証人信者への輸血を巡っては、緊急時に無断で輸血して救命した医師と病院が患者に訴えられ、意思決定権を侵害したとして最高裁で敗訴が確定している。一方、同病院の医師や看護師からは「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑問の声も上がっている。
 同病院によると、女性は5月初旬、予定日を約1週間過ぎた妊娠41週で他の病院から移ってきた。42週で帝王切開手術が行われ、子供は無事に取り上げられたが、分娩(ぶんべん)後に子宮の収縮が十分でないため起こる弛緩(しかん)性出血などで大量出血。止血できたが輸血はせず、数日後に死亡した。
 同病院は、信仰上の理由で輸血を拒否する患者に対するマニュアルを策定済みで、女性本人から「輸血しない場合に起きた事態については免責する」との同意書を得ていたという。容体が急変し家族にも輸血の許可を求めたが、家族も女性の意思を尊重したらしい。
 病院は事故後、院内に事故調査委員会を設置。関係者らから聞き取り調査し、5月末に「医療行為に問題はなかった」と判断した。病院は、警察に届け出る義務がある異状死とは判断しておらず、家族の希望で警察には届けていない。
 エホバの証人の患者の輸血については、東京大医科学研究所付属病院で92年、他に救命手段がない場合には輸血するとの方針を女性信者に説明せずに手術が行われ、無断で輸血した病院と医師に損害賠償の支払いを命じる最高裁判決が00年に出ている。最高裁は「説明を怠り、輸血を伴う可能性のあった手術を受けるか否かについて意思決定する権利を奪った」としていた。【根本毅】

こういう記事は15〜20年前にしばしばあったのですが、上述したように辛い経験を積み重ねてルールが出来ています。簡単にまとめると、

    とくに成人の場合は患者の意思を尊重し、死に至る結果になろうとも輸血はしない。
普通の日本人の感覚では信仰のために自らの生命を代償にすることに違和感が拭いきれませんが、信仰とはかくも重いものであると理解せざるを得ません。宗教観という事になるのでしょうが、キリスト教系やイスラム教などの一神教では神との契約の重さは、多神教がベースとなっている日本人では最後の最後のところが多分理解できないかと思っています。

エホバ信者に対する輸血ルールも一朝一夕のもとに出来上がったわけではなく、日本人にとってある種異文化接触の上で、それこそ数知れぬ犠牲を払って形成されてます。医療関係者以外にとっては切実な問題ではないでしょうが、医療関係者にとってはようやく手に入れたルールです。このルールについては今でも日本人の感性、医者の倫理観に大きく反するものがあり強い違和感があるのは間違いありませんが、それでも患者の意思を尊重するという基本に則って遵守しています。

その上で今回の事件を見直して見ます。事件の構造は、

  1. 妊婦に帝王切開が必要となった。
  2. 分娩後弛緩出血が起こった。
  3. 大量の出血があったが輸血は拒否され患者は死亡した。
記事を読んでもわかるように、術前に病院は帝王切開時に発生する弛緩出血を含めた大量出血時の同意書を患者と交わしています。患者の意思は、
    女性本人から「輸血しない場合に起きた事態については免責する」との同意書を得ていたという。
さらに弛緩出血発生後、輸血が必要と判断した時に病院側は家族に対し輸血の許可を求めています。それに対し家族は、
    容体が急変し家族にも輸血の許可を求めたが、家族も女性の意思を尊重したらしい。
記事はどちらも伝聞系であり、まるで「してなかったかもしれない」の憶測を招きそうな書き方ですが、エホバ信者に対する輸血ルールの再確認は、医療関係者にとって非常に重要な事であり、通常以上に詳細な説明と同意を行なうのは常識です。最悪の場合、この事件のように「見殺し」をせざるを得ない事さえ起こるのですから、当然以前のお話です。

医療側はエホバ信者への輸血ルールの手順をしっかり踏み、弛緩出血と言う突発自体に対し涙を飲んで輸血を控えています。これが医師にとってどれだけ辛く、どれだけ悲しい事かは想像に難くありません。医師ならそんな現場に絶対に立ち会いたくないものです。救命する手段が目の前にぶら下がっているのに、それを禁じ手として使えない辛さです。医師にとって救える命を見殺しにするほど辛い事はありません。

エホバ信者への輸血ルールの重さは最高裁判例にも示されています。これも記事から引用しますが、

    東京大医科学研究所付属病院で92年、他に救命手段がない場合には輸血するとの方針を女性信者に説明せずに手術が行われ、無断で輸血した病院と医師に損害賠償の支払いを命じる最高裁判決が00年に出ている。最高裁は「説明を怠り、輸血を伴う可能性のあった手術を受けるか否かについて意思決定する権利を奪った」としていた。
この最高裁判例の解釈も微妙ですが、この判決では突発的な緊急事態の時に救命のために輸血が必要である事を患者に説明する事を怠った事例と解釈する向きもあります。今回は緊急事態に輸血が必要である事を患者に事前に説明し、これを明快に拒否しているのですから、状況はこれに準じて考えても良いかと思います。また弛緩出血後、医師側は家族にもう一度輸血の許可を求め、これも明快に拒否されているのであれば、医療側はこれを押して輸血を行う事は出来ないとしか考えられません。

正直なところエホバ輸血問題はある意味決着のついている問題です。医療側は確立されたエホバ信者への輸血ルールを粛々と守り、涙を飲んで患者の救命をあきらめたのです。患者の死は悲しい事ですが、これはエホバ信者との契約と言っても良いと考えますし、言っては悪いですが、エホバ信者への治療では常識化している事です。エホバ輸血問題の詳しいルールまで知らなくとも、医療関係者なら輸血拒否でこういう事態が起こることは常識です。

この記事で問題なのは、

一方、同病院の医師や看護師からは「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑問の声も上がっている。

15〜20年前にあった声です。またこの病院にはエホバ信者への輸血マニュアルを策定するぐらいであり、エホバ信者への輸血に関しては、他の医療施設より知識と経験があるはずです。そんな病院の関係者が、「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」の声が上がるはずがありません。冷たいと思われるかもしれませんが、それぐらいエホバ信者の輸血問題は日本の医療界が長年取り組みルール化したものなのです。

この記者にとってはエホバ問題を発掘したつもりなんでしょうが、理解が根底からトンチンカンです。患者の生命と、患者の宗教観からの信仰の重さの天秤の問題は、エホバ教団と医療側で既に決着しているのです。天秤は信仰に重くなっています。この事に記者が理解できないのであれば、まず記者はエホバ問題についての経緯を一から勉強すべしです。勤務している新聞社には立派なデータベースがあるのですから、まずそれから読み直すべきです。

エホバ問題を勉強しなおした上で、もう一度この問題を蒸し返したいと思うのは自由です。これは信仰と生命のどちらかが重くて優先されるかの問題であり、この記者及び勤務する新聞社がエホバ教団に公開論争を挑むのが筋ではないでしょうか。そんな気はサラサラなくて、すべてを伝聞系の記事に仕立てて責任を回避した上で、患者が輸血を拒否したから、救命できる命を見殺しにしたと、すべてを医療側の責任に転嫁する、この記者及び新聞社の浅薄な知識、態度を批判しておいても良いでしょう。

もしエホバ問題に触れることは、信仰と生命の天秤問題になるのを承知でこの記事を掲載したのであれば、尻切れトンボの一発記事で終わることなく、じっくりシリーズで触れなくてはなりません。それをする気が無いのであれば、この記事はたんなるお涙頂戴の煽情記事に過ぎません。