記者の質

いつも楽しませてもらっているshy1221様の5/28付エントリーの取材側からみる「大淀病院・毎日新聞記事事件」で引用されているリンク先の記者の質がすごく落ちているの分析に感心したので今日はその話を。

ブログ主の惰眠氏は普段はクルマの事を中心に書かれているようで、ユーノス500という懐かしいクルマを御愛用の様子です。その惰眠氏が10年来の友人の在京テレビ局の報道記者と話をしたところからエントリーは始まっています。

 少し前、10年来の交流がある在京テレビ局の報道記者と一緒に食事をする機会があった。ズーッと気になっていたことが僕の主観に過ぎないのか、中堅記者も同じことを感じているのか知りたかったので、直裁に聞くことにした。「なあ、最近、君が一番下っ端で駆け回ってた頃に比べて、記者の質がものっすごく劣化しているような気がするんだけど、俺の考えすぎか?」と。

 友人である報道記者の答えは、とても残念なものだった。彼は顔をしかめ、全面的に僕の問いを肯定したのだ。「取材する、と言うことが判っていない。だから、掘り下げることも考えることも突っ込むこともできないし、何が問題なのかさえわからない。記者として非常に低いレベルに安住している」。しかも、中堅以上の記者がそれじゃ駄目だろと若手記者たちに言っても、何で駄目なのかすら理解できない、しようともしないと愚痴ること愚痴ること。悪い意味でサラリーマン化している、と彼は嘆いた。

 続けて友人は「問題は、記者のレベルが落ちただけじゃない」とも言う。ニュース番組までもが経営上の必然から『数字(=視聴率)』を求められるようになり、結果として例えば主戦場である夕方ニュースなどは『在宅している奥様方の興味を引くような内容』にどんどんシフトして行き、現場として「これを伝えなくちゃ報道機関としてダメじゃねーか!」と言うような重要な事案ですら最悪取り上げられず、取り上げられても番組幹部が考えるところの(とは言っても実際視聴率によって裏づけは取れているそうだが)『主婦受け』するようなワカリヤスイ図式に組み替えられたようなものにされてしまうのだそうだ。友人は硬派の報道記者なので「毎日、デスクと喧嘩だよ」と深い深いため息をついた。

ここまではこの日のエントリーのマクラとされ、以下に奈良事件の論評が詳細に書かれています。奈良事件の論評も実にシャープで一読の価値があるのですが、私はこのマクラの部分が気に入ったのでここを中心に考えたいと思います。

マスコミ報道の質が低下している意見は増えています。私も何回か触れました。キツイ意見となると「良かった時代なんてあったのか」までありますが、そこまで言わなくとも確実に低下している感触はあります。もちろん私もそろそろ「昔は良かった」と言っても不思議の無い年齢に悲しいかな確実に足を踏み入れているので、それを割り引かなければなりませんが、それでも低下していると感じています。

昔との比較は資料が無いのでしませんが、現在のマスコミの姿勢で問題を感じるのは、

  • 報道内容をシロかクロかに単純化する。
  • 純化した上でクロには猛烈なバッシングを行なう。
  • バッシングの内容は、勧善懲悪、お涙頂戴の感情演出の度が過ぎている。
  • 何より地道に事実関係を取材しようとする姿勢が見られない。
もう少し噛み砕いて言えば、
    マスコミは飛びついた話題の犯人を決めつけ、後はセンセーショナルに煽るだけ
とくに医療報道で常にバッシングを受ける医師はそう感じるものが多いと考えています。私ももちろんそう感じています。この事を端的に裏付ける会話が惰眠氏と報道記者の友人の間で交わされています。


惰眠氏「なあ、最近、君が一番下っ端で駆け回ってた頃に比べて、記者の質がものっすごく劣化しているような気がするんだけど、俺の考えすぎか?」
報道記者「取材する、と言うことが判っていない。だから、掘り下げることも考えることも突っ込むこともできないし、何が問題なのかさえわからない。記者として非常に低いレベルに安住している」
報道記者中堅以上の記者がそれじゃ駄目だろと若手記者たちに言っても、何で駄目なのかすら理解できない、しようともしないと愚痴ること愚痴ること。悪い意味でサラリーマン化している


報道取材の技術も伝承されるものと考えます。理論は大学で学べても、実戦の具体的なテクニックは現場で手取り足取り伝授されるもののはずです。また技術だけではなく報道記者としての精神もまた連綿と伝承されてきたはずです。それが明らかに断絶している事をこの会話は示しています。

技術と精神の伝承が途絶えれば、これが伝えられない若手は能力不足になって使い物にならなくなりそうなものですが、質が落ちた若手でも報道番組を作る上では十分な戦力になるようです。十分どころか、中堅以上の伝統に則った綿密な記事は歓迎されず、若手が浅薄に記事にまとめたものの方が却って歓迎される傾向があるようです。

惰眠氏の友人は在京テレビ局に勤務のようですが、テレビ番組のすべてを縛り上げる視聴率の魔の手は、ニュース番組も確実に侵し尽くされていると事です。

ニュース番組までもが経営上の必然から『数字(=視聴率)』を求められるようになり、結果として例えば主戦場である夕方ニュースなどは『在宅している奥様方の興味を引くような内容』にどんどんシフト

奥様方の興味を引く内容に構成にするために

  • 「これを伝えなくちゃ報道機関としてダメじゃねーか!」ほどの事でもしばしば取り上げられない
  • 取り上げられても『主婦受け』するようなワカリヤスイ図式に組み替えられる
わかりやすい図式とは、誰がクロなのか、誰が可哀そうなのかを単純に分類し、後は感情に訴えてのお涙頂戴の報道形式ではないかと考えます。つまり視る方が考えなくともすぐ図式がわかる内容であろうかと推測します。そこには複雑な背景や事実関係から、善悪の判断に内容に困るようなものは好まれず、そういう考えなくてはならない記事は『主婦受け』しないとの判断かと考えます。そういう報道が実際に「視聴率を稼げる」のは事実ですし、「視聴率が稼げる」はテレビ局にとっては絶対の大義になります。

こういう姿勢がニュースを含めた報道番組の基本姿勢なら、中堅記者の掘り下げた取材はむしろ邪魔であり、若手記者の浅薄な取材で必要にして十分という事になります。こんな事は前から言われていますが、ニュースや報道も視聴率が最大の指標の単なる番組になってしまい、真実を伝える事よりも視聴率が上がることが最重要課題になっていると言う事です。

テレビで一番ラクに視聴率を稼げる手法は俗悪系のバラエティーです。俗悪系のバラエティーのキーワードはおふざけとイジメです。シナリオの下でいじめられる者を作り上げ、この対象をいかにイジメるかで視聴者の興味を引きます。俗悪系のバラエティーのイジメは人気を呼んで回を重ねるごとにイジメの程度がエスカレートし、最後は余りの陰惨さが視聴者の鼻について終了するパターンがポピュラーです。

俗悪系のバラエティーは究極までの道程がわかっており、行くとこまでいくとその番組は終了し、新たな芸人を引っ張り出して同じ路線を走らせる繰り返しを行なっています。ところがこれをニュースや報道番組に直輸入したらどうなるか。基本的に終わりはありません。もちろん度が過ぎれば批判を浴びて終わるかもしれませんが、俗悪系のバラエティー以上にすぐに同工異曲のニュース番組が途切れなく登場します。

そういうニュース番組の目指すところは、批判を浴びて番組が中止にならないギリギリのイジメ刺激を狙う事になります。この刺激が強いほど視聴率が稼げる方程式は熟知されており、とくに視聴率競争で劣勢になればギリギリを越える刺激を繰り出すことになります。

これは破滅的なチキンレースとしか私には思えません。テレビが視聴率に支配されているのは良く存じていますが、こんなチキンレースを行なっていれば、いつかはテレビ離れと言う大きなしっぺ返しが来るのではないでしょうか。テレビ局の人間は「絶対にテレビ離れはありえない」との確信があり、それはアメリカでも実証されている考えているかもしれませんが、ニュースにさえ信用が置かれなくなったときに、はたしてアメリカの実証がどれだけあてになるか少々疑問です。

ネットの存在はテレビ局が考えるよりはるかに巨大な物だと個人的には思っているんですけどね。