看護師内診問題の立役者

今日も長野問題を書こうと思ったのですが、経緯から先は労働法規の塊みたいなお話になるので、皆様が取り上げていらっしゃる看護協会ならびに厚生労働省看護課に関連する有力者のエピソードに軽く触れたいと思います。

この件に関してはmoto様が積極的に情報収集に当たってくれましたので、適宜引用させて頂きながら話を進めます。まず看護協会と看護課の関係を端的に示す情報です。

 看護協会の現理事長が久常氏で、二回の通知を出した看護課長である田村氏の前の看護課長。田村氏は99年から2006年まで看護課長で、2006年9月から野村氏にかわってます。田村氏は現在国立看護大学長。

 単純に考えると、田村氏が、替ったばかりの野村氏に発破をかけて、久常氏がこれを応援してる、って図式でしょうか?
田村氏の略歴をみると、聖路加から東大に行って、看護婦から看護師に名前改めさせたときの課長でもあり、なかなか積極的な方のように思えますね。

この情報からわかる事は、

  • 最近の看護課長は、久常氏→田村氏→野村氏となっている。
  • 久常氏は看護課長退職後、現在は看護協会理事長である。
  • 田村氏は看護協会退職後、現在は国立看護大学長である。
  • 田村氏が看護師の内診の是非に対する疑義照会で「違反」と回答した当時の看護課長である。
看護課と看護協会の関係は久常氏の例を見る限り、看護課長と看護協会理事長を歴任する事はありえる関係です。ここで2回にわたる内診禁止通達を看護課長名で行なった田村やよひ氏の経歴も情報があります。

    
1948年静岡県生まれ
東京大学医学部保健学科技官、筑波大学附属病院看護婦長、筑波大学医療技術短期大学部講師、助教授を歴任
1990年聖路加看護大学大学院修了(看護学修士
1993年東京大学大学院修了(保健学博士)、厚生省健康政策局看護課課長補佐
1997年厚生省看護研修研究センター所長
1999年厚生労働省医政局看護課長
2006年国立看護大学長

内診禁止通達での経緯はこれもネットで広く出回っていますが、自らの母校である静岡県立榛原高等学校の同窓会HPにコメントを寄せています。

 榛原高校を卒業して四十年が過ぎた。私たちは「団塊の世代」といわれて久しく、まもなく大量退職の時期を迎える。ところが私は今年の9月1日に、7年余りの厚生労働省医政局看護課長の職から国立看護大学長へと異動し、定年が5歳延びてしまった。少子化時代にもかかわらず、看護界では大学が増加し続けているため、60歳以降のんびりと暮らせるのは難しいだろうと感じてはいたものの、とうとう現実になってしまった。

  中学・高校時代に描いていた将来の夢は、看護師、教師、遺伝の研究者などいろいろあったが、結局、看護の道を選んだ。一口に看護といってもその領域は広い。私は2年半の短い臨床看護を振り出しに、その後は筑波大学などで看護学教育・研究に長くかかわった。今後も看護大学での管理運営、教育研究が主な仕事なので、子どもの頃の夢は嶺域こそ違え、ほぼ実現できた。このような道を歩めたのも、担任であった大久保健直先生の 「東大の看護学校を受験したらどうか」 の一言があり、それが契機となって私の世界が拡げられたからだと感謝している。

  ところで、唯一自分の将来像になかったのは、中央省庁での行政官の仕事だった。昭和40年ころの榛原では、このような仕事はイメージしにくいからやむをえない。今その仕事を離れて思うことは、何とやり甲斐のある面白い仕事だったか!ということだ。パワーのある国会議員や関係団体などと協力・調整をしながら、望ましい看護制度や質の高い看護を国民に提供する仕組みづくりに貢献できたと思っている。平成14年春には、驚いた人もいただろうが、一世紀近く使われた 「看護婦」の呼称が「看護師」に代わった。
この仕掛人の一人は私だ。また、平成16年の看護師や准看護師は産婦の内診をしてはいけないという通知は、一部の産科医からは今も恨まれているらしい。

  今年6月には、保健師助産師看護師法の一部改正を含む医療制度改革関連法が国会で成立した。行政官としては、これを自分の最後の仕事にすると二年前から決めていた。いつどのように職業生涯を終えるかということは、とても重要な課題だが、また数年後に悩まなくてはならない状況を抱えてしまった今日この頃である。

少し長いですが全文です。ここから田村氏で得られる情報は、

  • 厚生労働省看護課長から国立看護大学校天下りした。
  • 看護婦の実務経験は2年半である。
  • 2年半の実務を基に看護学教育・研究を行なっていた。
  • 40歳頃(1998年頃)から聖路加看護大学大学院、東京大学大学院に進学。おそらく合わせて5年程度と考えられる。
  • 1993年に厚生省健康政策局看護課課長補佐に大学院終了後直ちに採用、6年後には看護課長となる。
  • 看護婦から看護師への名称変更では中心的役割を果たしていたと考えられる。
  • 内診禁止通達でもまた中心的役割を果たしていたと考えられる。
看護師の世界ではありふれた経歴なのかもしれませんが、実務2年半で教育・研究に従事したと言うのは、臨床実務がよほど肌にあっていなかったか、あまりにも能力が低くて現場から見放されたか、本人の教育・研究指向が強かったかのいずれかです。おそらくですが、実務2年半では実習現場の指導はしていなかったように思います。指導される方も実務2年半じゃ可哀そうですからね。

次に40歳頃から急に学歴に目覚め博士号を目指したのは何を意味するのでしょうか。普通に考えれば教育・研究現場でのさらなる出世を目指してのものと考えるのが妥当です。ああいうところは学歴が重視される事が多いからです。ところが博士号を取ると同時に厚生省看護課に入職しています。そうなるとこれは厚生省看護課に入職するためのステップであった可能性が出てきます。つまり40歳頃の田村氏に将来の看護課長としての白羽の矢が立ち、看護課長に相応しい学歴を身につけるために大学院に通ったと。考えすぎですかね。

田村氏の内診禁止通達手柄話に対する批評はネットに渦巻いていますので、ここではこの程度にしておきます。

続いて現看護課長野村陽子氏を見てみます。まず経歴です。

厚生労働省医政局看護課長。1973年聖路加看護大卒,米国エモリー大留学,法政大大学院修了。国立病院医療センター,新宿区保健所,東京都神経科学総合研究所勤務を経て83年から厚生省(現厚労省)。保健指導室,看護課,医療課などを経て現職。訪問看護を創設した老人保健法改正,看護職員人材確保法,健康増進法などに関わる。

野村氏は1973年に聖路加看護大学卒業後、その10年後に厚生省に入職しています。10年の間に米国エモリー大留学,法政大大学院修了とありますから、これもおおよそ5年程度をかけて博士号を取得したと考えるのが妥当かと考えます。残り5年のうち新宿区保健所および東京都神経科学総合研究所は臨床実務に縁が遠そうな職場ですから、実務経験は田村氏同様2〜3年程度と考えるのが妥当そうです。

野村氏と田村氏の久常氏の厚生労働省での経歴を重ねると

野村氏田村氏久常氏
1983厚生省入職
1993 看護課長補佐にて入職
1999 看護課長昇進看護課長退職
2007看護課長昇進厚生労働省退職

書くほどの表ではないのですが、14年は野村氏と田村氏は厚生労働省で同じだった言う事です。ただ田村氏はおそらく看護課一筋で、課長補佐の6年間は、現看護協会理事長である当時の課長の久常氏の薫陶を受けたと考えるのが妥当です。野村氏と田村氏が看護課でどの程度の関係であったかは不明ですが、これも密接な関係であったろう事は容易に推測がつきます。

ちなみに野村氏の考え方について2007年9月時に看護課長就任の時のインタビューが残されています。

9月1日付で着任した厚生労働省医政局の野村陽子看護課長は取材に応じ、「医療や看護に求められるものは、すごく高度になり、ニーズも高くなっている。そういう中で看護職がきちんと役割を果たしていけるような基盤整備をしたい」と抱負を語った。カリキュラムの見直しを含んだ看護基礎教育の在り方については、「看護職がもっと自律的に仕事をしていけるような方向で看護職員の質を上げていきたい」と述べた。

神奈川県の産婦人科病院で助産師資格がない看護師らが内診を行っている実態が表面化したことについては、「助産行為は助産師、医師がするとの整理で国会答弁や関係通知も出している。一連の考え方にぶれはない」と述べた。

日本とフィリピンの間で経済連携協定(EPA)が締結されフィリピン人看護師受け入れが決まったことについては、「あまり今の(看護師の)需給関係に影響が及ぶとは思っていない」との見方を示した。

ここで明言している通り、野村氏は田村氏が断行した看護師内診禁止路線を受け継ぐと宣言しています。ここでここ三代の看護課長の関係を考えて見ます。1999年までは久常氏が看護課長であり、野村氏は16年、田村氏は6年、厚生労働省で一緒に働いています。関係は次期看護課長として招かれていた、田村氏と、次々期を期待されていた野村氏と考えて良いかと思います。久常氏は看護課長退職後も現看護協会理事長であり公私共に田村氏、野村氏に影響力を及ぼせる立場です。そうなるとこの3人は看護師内診問題においてトリオを組める関係であると言えます。

看護師内診禁止は看護協会の悲願であったとされます。この悲願を背景に考えるとこの3人が今回の内診問題で果たした役割が浮かび上がります。

  1. 柳沢大臣の国会答弁から内診見直し論が浮上した
  2. 医政局と産婦人科医会が中心となって内診内測分離論で落としどころとする密室協議が行われた。
  3. 同じ省内の事であり、この問題に無関与とは考えられない看護課長の野村氏に情報が集まった。
  4. これは憶測だが内診問題の協議に加わった野村氏は「それでも原則は内診は禁止」であることの言質を取った。
  5. 野村氏から久常氏へは密接な連絡が取られていた。
  6. 省内の内診容認論を覆すためドラスティックな戦術が看護協会及び看護課で話し合われた。
後はこれまでの重複になりますが、3/30に内診内測分離論の意図を込めた通達が出されるや否や、看護協会は打ち合わせ通り疑義照会の問合せを直ちに発します。これを受けた看護課はこれも直ちに「内診は禁止」の回答を返します。この公式回答を握った看護協会はこれもまた準備通り、マスコミに意図的に操作した回答情報を流し、自らのHPで本来の通達の趣旨とは曲解した見解を大々的に発表します。

思わぬ展開に慌てた産婦人科医会は反撃に出ますが、マスコミへの根回しに後れを取っており、マスコミ論調は内診禁止再確認に流れ、この流れに元々内診容認に消極的であった厚生労働省内部は覆り、産婦人科医会は厚生労働省の必殺技である梯子を外された事になります。感嘆するほどのチームワークです。

看護協会と厚生労働省看護課がここまでツーカーであれば、今回の内診問題は最初から勝ち目が無かったのかもしれません。もっとも産婦人科医会では密室協議段階の約束が再び再浮上すると確信しているようですが、個人的にはまた揚げ足を取られて撃沈させられる懸念を抱いています。

なんと言っても厚生労働省の大元のスタンスは、自らが出した内診禁止通達をどんな形であっても変更したくないが大原則です。大臣答弁で渋々動いただけですから、ちょっとでも逆風が吹けばすぐに態度は変わります。逆風はやる気満々でいつでも吹かすと看護課と看護協会は待ち構えています。情報は看護師にも関わる問題なので看護課から看護協会に即座に流れ、なおかつこの二つは密接に連動し、歴代看護課3課長によるトライアングルが蠢動します。

勝ち目は柳沢大臣の強力な指導力ぐらいしか期待できませんが、大臣の指導力となると・・・