JBMの意味

WikiJBMも参加者が徐々に増えて頂き、ボツボツと興味深いJBMの登録が増えています。JBMの言葉が出た発端は福島事件の時の2chであるとされ、あくまでもブラックジョークでした。今やっているWikiJBM計画もそういう意味では壮大なブラックジョークであるともいえます。ところが登録例を読めば既にジョークの範疇を越えているような気がしています。

JBMの"J"はJudgement(用法に問題がある議論は置いておきます)で、判例とか司法判断の言葉に訳されるものです。何が怖ろしいといっても基準が裁判所の司法判断に置かれている事です。司法判断ですから判決文として具体的にどこに違反があり、どこに責任があるか明記してあり、さらにその責任を民事なら○○○○万円と明記してある事です。

司法は言うまでもなく国権の最高機関のひとつであり、法治国家のあらゆるもめ事の最終判定機関です。ここの判定が最高にして最終の判断なんです。もちろん日本に住む限りこの最終判断はある意味絶対です。法曹家の解釈は専門家だけに法曹の素人とは違う解釈があるようですが、素人の感覚では絶対の判定基準と感じざるを得ません。

法曹の専門家は別として一般に判例があれば以後それを守ろうとするのが常識です。法治の考え方の一つに「一罰百戒」があります。一つの行為を違法と判断したら類似の行為も「罰するぞ」との警告として秩序を守ろうとするものです。別におかしな考え方ではなく、類似の行為をある時は「有罪」、ある時は「無罪」と激しく判断が揺れ動いたら秩序が守れないからです。だからある判決が行われれば、その影響範囲は時に広大と言う事がしばしばあります。

ところで法律といえどもこの世の中のすべての物事に規定が及んでいるわけではありません。また時代の変化に伴って設定されていた規定が陳腐化することもあります。どうしてもある行為がなされたときの是非判定にグレーゾーンが生じます。最近の風潮はこのグレーゾーンをできるだけシロクロに分けてしまおうとする考えが強いようです。

分けようとしてももともとはグレーゾーンですから、当事者の間ではそれぞれの考え方、解釈があり、話がまとまらない時には訴訟の場で決着という事になります。訴訟の場の最終判定者は言うまでもなく裁判官です。裁判官が優秀な人材であるのは言うまでもありませんが、裁判官とは言え世の中のすべての事象に通じているわけではありません。

とくに高度な専門分野になれば知識も経験も薄弱であるのは致し方ないことです。医療もそういう分野の一つです。専門知識のない素人が専門家でも解釈の別れるような事象を判断する事になります。さらには法廷というところは、弁証主義、自由心証主義で運用されており、そこでの法廷戦術により議論がトンデモナイ方向に流れることがしばしばあります。

「木を見て森を見ず」なる言葉がありますが、JBMの対象になる判例は、森全体が枯れつつあるのに、その中の1本の木の1枚の葉の枯れ方に責任問題の焦点の攻防が繰り広げられたりします。なぜ裁判官が森が見えないかといえば、森を見るようなトレーニングがなされていないからです。

おそらくですがJBMの対象になるような判例を下した裁判官は何故にJBMになるのかさえ理解できていないような気がします。自分が下した判決がどれほどの影響力を及ぼし、医療を防衛や萎縮に向かわせているかもほとんど理解できていないと考えています。もう一つ言えば、これも法曹家の方々に何回も指摘されるのですが、訴訟は当事者のもめ事の解決のためにだけにあり、他の類似の案件に必ずしも影響を及ぼさないというのがあります。

法曹家の指摘に嘘は無いと思います。かつては司法判断が社会的に重要なものだけをマスコミが報道し、マスコミが周知したものだけがある意味「判例」として先例になっていたとも考えます。その他の判例について問題を含むようなものは訴訟の当事者だけのものであったかもしれません。ところが情報社会が進むとそうはいかなくなります。法曹家の重要基準とは別に様々な判例情報を手にする事が出来ます。基準の是非が理解できない素人はすべてを基準に考える事になります。

医療に関して言えば伝わった判例は速やかにネット経由で伝達されます。医師もバカではありませんからその判例から分かるJBMを分析できます。分析できればそれを守ろうとします。ところがJBMとなると守ればまともな医療は出来なくなります。まともどころか医療そのものを出来なくなると言っても良いかと思います、

医療が出来ないとは、ある事象について二つの診療手段があるとして、どちらを選んでも司法的に違反し責任を問われる可能性があるとすれば、やがて誰も手を出さなくなります。そういう事例が生み出され広範囲に確実に影響を及ぼしているという事です。そういう閉塞され追い詰められた状態はとくにここ数年で著明となっています。考えようによっては既に医師は手も足も縛られた状態で医療を行なっているといっても良いかと思います。

この状況を変える必要があります。司法が医療を滅ぼすの声はネット医師の中でも高くなっています。私も去年泥縄でしたが司法が変えられないか考えて見ました。結論は残念ながら司法は司法自身では変わることは出来ないというものです。司法とは決められたルールの厳密な適用とルールの解釈に裁量権を与えられていますが、自分でルールを変える権限を基本的に与えられてい無いと言う事です。これが三権分立の基本でもあります。

ここでは医療となりますが、医療を裁くのに現在の司法のルールが不適切であり、医療者はもとより患者にも大きな被害が出ていると判断されたら、司法のルールを変えられる権限を持つところは一義的に立法府であり、日本では立法府に大きな影響力を持つ行政府となります。立法府や行政府は国民の生活に支障をきたす行為があればこれを是正する権限が与えられています。司法ルールでさえ変えられる権限を立法府は有しているのです。さらに言えば立法府しか司法ルールを変更できないといっても良いと考えます。

医療を統括管理している官庁は言うまでもなく厚生労働省です。医療が司法判断により活動が著しく制限され、国民の健康にまで影響を及ぼすことが分かれば、監督官庁たる厚生労働省はこれを是正する働きかけを立法府に行なう責務があると考えます。

JBMを編集する意味はまともな医療を行なおうとすれば、司法が下した判断がそれをいかに阻害しているかを実証する運動と考えています。医学的に矛盾に満ち、これまで常識とされた実績のある医療が否定され、その結果が患者の治療にどれほどの影響を及ぼしているかを明らかにし、それを是正しないと国民がまともに医療を受けられなくなる事を明らかにする運動です。

現在知られているJBMだけでもまともに医師が実行すれば明日から医療は止まります。それほどの影響力をJBMは既にある事がWikiJBM計画を行なう意義と考えています。