患家での輸液監視不十分事件

昨日のエントリーのWikiJBMでの呼称です。本当にありがたいのですが、通行人様から判決文の情報の提供がありましたので分析してみたいと思います。ただし前もって言っておきますが、これは高裁判決文でありさらに原文すべてではないようです。そのため相変わらず経過でよく分からないところが残るのですが、これ以上の情報入手は時代的にも困難かと思います。引用元は東京高等裁判所民事第11部、昭和57年4月28日判決、昭和55年(ネ)第2186号、第2805号、損害賠償請求控訴、同附帯控訴事件、一部変更(確定)、判例時報1050号82頁、判例タイムズ476号167頁です。

引用文は「理由」すなわち判決理由から入っています。全部で4項目になっていますので逐次で読んで見たいと思います。

「なお、本件点滴に用いたフルクトンの分量及び点滴の速度については大いに問題のあるところであり、控訴人は原審本人尋問に際し、患者の年令等を考え、往診に出かける前に薬屋から購入した五〇〇ccの輸液壜から二〇〇ccを抜きとって三〇〇ccとし、これを摂氏三〇度前後に暖めたうえで患者方に持参し、患者方でこれにコカルボキシラーゼを混ぜて点滴に供し、速度は一分間五〇滴前後であった旨述べ、B証言、乙第一号証もそれぞれ一部分これに一致する。しかし、被控訴人X2の前出供述中には、点滴に用いた輸液壜は全量であって一部分ではなかった旨の部分があって、右ときびしく対立している。

そこで更に考えてみるのに、B証人はコカルボキシラーゼを患者方で混ぜたのは無駄にならないためであると証言し、その意味は、もしさきに混ぜてしまうと、患者を診察した結果、点滴が不要ということになれば、既に混ぜ合わせたフルクトンとコカルボキシラーゼが無駄になるということであると解され、点滴の実施自体が患者を直接診察したうえでなければ決定しがたいことはまさにそのとおりであるから、フルクトンの二〇〇cc抜き取りも、患者を診察し、点滴実施が確定してからにするのが一番無駄の少い自然なやり方であると考えられる。

また控訴人供述は、フルクトン二〇〇cc抜き取りは、注射器を用いて二回に亘って抜き取ったというのであるが、これも患者方で輸液用ホースを開放状態にして抜き取る方法に比べ、迂遠かつ汚染危険度の高い方法であることは明らかである。これらの点を斟酌するならば、右B証言、控訴人本人の右供述、乙第一号証もすべてにわかに措信しがたく、むしろこれに反する被控訴人X2の供述の方が信用性があり、本件点滴に用いられたフルクトンの量は五〇〇ccであったと認めるべきである。また点滴の開始、終了の時刻は前認定のとおりであるから、点滴の時間はおよそ七五分間であり、液量は五〇〇ccであるから一分あたり約六・六六cc、一ccあたり一六滴とすれば一分間約一〇六滴、一ccあたり二〇滴とすれば同じく約一三三滴となる。従って、本件点滴は控訴人が主張しているよりもかなり早い速度で始められたか、さもなければ何らかの事情で途中から点滴速度が変化し早くなったものと認められる。」

これを読んでいきなり引っかかった記述があります。

    往診に出かける前に薬屋から購入した五〇〇ccの輸液壜
この判決の要旨の中に医師が無罪を主張したものとして、「当日Yの医院に重症患者が入院していたこと」とあります。そうなれば医師が経営もしくは勤務していたのは有床診療所という事になります。有床診療所ですし「重症患者が入院していた」のですから、患者に対して点滴治療は行なっていたと考えるの妥当です。

ところがこの医師は往診に出かける前に薬屋から輸液壜を購入しているのです。たまたま輸液壜の在庫を切らしていたのか、普段から点滴治療が必要な時は薬屋から購入していたかのどちらかになります。「重症患者が入院している」状態で在庫を切らすような事は考え難いところです。たしかに経営上在庫はできるだけ少ない方が良いにしろ、入院患者を抱えながらそこまでキチキチの在庫管理するとは思いにくいところです。それに点滴ベースはそんなに高価なものではありませんからね。

それとなにより薬屋で購入したというのが驚きました。点滴ベースといえども薬屋で誰でも買えるのかという素朴な疑問です。そこで昨日知人の薬局経営者に聞いてみました。これが「買えた」そうです。それもつい一昨年まで購入可能であったそうです。何に使うのかが興味のあるところですが、1980年頃ならコンタクトの保存液に生理食塩水の輸液壜が良く売れたそうで、だから生理食塩水の輸液壜程度ならどこの薬局でも常備していたとの事です。他の点滴ベースは常備はしていなかったそうですが、注文すれば取り寄せで購入するのは可能であったそうです。

これは蛇足ですがこの事件の時代よりもっと前である、昭和40年代の前半ぐらいまでならエフェドリンあたりも薬局で購入可能であったそうです。使用用途は大きな声では言えないのですが、興奮剤として使用され、それが必要な業種の方に結構な需要があったそうです。

薬屋で買った輸液壜にこだわっているのは、点滴による死亡事故ですから点滴内容が何であるかを考えて置く必要があるからです。一緒に入れた内容はコカルボキシラーゼ(ビタミンB1誘導体)、フルクトン(フルクトース)であることは判明しているのですが、点滴ベースの内容が不明であるからです。コカルボキシラーゼやフルクトンでは心不全を起す原因とはならず、もしかすかな可能性があるとすれば点滴ベースの内容によっては高K血症による心停止はありえるからです。

患者は流行性感冒となっていますから脱水症状がそれなりにあったと考えてもよいはずです。脱水の程度が強ければK濃度が高い輸液を行う事で高K血症を起こす可能性があるからです。だからこの時使った輸液壜が何であるかを特定する事が重要になります。「重症の入院患者がいる」有床診療所であるにもかかわらず薬屋で輸液壜を購入した事が引っかかっているのはこの点です。

薬屋でも点滴ボトルを常備し販売していた事はわかりました。ただし通常は生理食塩水です。ところが常時必要な分だけ点滴ボトルを薬局で購入していたら、もう少し種類を拡げて常備していた可能性があります。この時代の有床診療所の点滴治療への感覚が問題となるのですが、たまたま在庫が切れたのか、そうでなくいつものように点滴をする時には薬屋で購入したのかで点滴ベースの内容の特定が変わります。

その点については判決では争点になっていないので分かりませんが、争点になっていないぐらいですからやはり生理食塩水と考えるのが妥当なんでしょう。時代感覚が違うのでなんとも言えませんが、輸液壜を薬屋で購入して往診に赴く行為に不思議さを感じています。

この個所での判決文での争点は一体どれほどの輸液を行なったかです。全量であれば500mlです。ところが医師側の主張は200ml減らし300ml輸液したと主張しているようです。医師側の主張は、

  1. 診療所内で注射器により200mlを輸液壜から抜いた。
  2. 往診先で輸液壜にコカルボキシラーゼとフルクトンを加えた。
となっています。この主張が不自然であると判決文は指摘しています。この部分の指摘については私も判決文の方が理がありそうな気がします。往診を要請された時点で九分九厘点滴をするつもりであるなら、診療所内で200mlを抜き取った後に続いてコカルボキシラーゼとフルクトンを混ぜて往診に赴けば良いわけですし、往診に行って診察してから点滴の是非を決めるつもりであるなら、往診先で輸液壜から抜き取り、コカルボキシラーゼとフルクトンを加えれば良いのです。わざわざ輸液壜から抜き取る作業とコカルボキシラーゼとフルクトンを加える作業を診療所と往診先で分ける必然性が乏しいと指摘されても当然でしょう。

輸液量で対立したのは輸液速度の問題が争点になったためと考えますが、14歳の少年であれば500mlの輸液を行なっても過剰とは言えませんから、真相は往診先で500mlの点滴ボトルにコカルボキシラーゼとフルクトンを混ぜて点滴を行なったと考えるのが自然だと考えます。

「《証拠略》によると、医学界においては、点滴(輸液療法)は、大量の水分を血管内に投与する療法であるから、どのような輸液剤を用いるとしても、患者に心不全や肺水腫を起させる危険が内在するものであり、特に小児は、体液調節機構の幅が成人の場合よりも狭いので、水分電解質の異常喪失によってすぐに重篤な症状におちいることがあり、従って医師あるいは看護婦は点滴を行うに際しては、一定時間ごとに患者の状態を観察し、異常がないか、輸液の方法に誤りがないかなどに気を配り、状態によって必要であればいつでも輸液計画を変更することのできる体勢になければならないとされていることが認められる。

 点滴の右医療水準と《証拠略》を斟酌すると、小児の域を出た未成年の患者の場合においても、医師が点滴を患家で行うことは医療設備及び監視体勢の両面から難点があるから、原則として避けるべきであるが、やむを得ずこれを行う場合には、施術にあたる医師は起り得る副作用の危険を避けるため注射の量、温度、速度を観察し、注射中重篤な副作用の前兆であるかも知れない患者の身体の微妙な変化をチェックするため、輸液完了までこれに立会い、又は看護婦などこれに準じた医学的知識を有する者をしてこれに立会わしめる義務があるものと解するのが相当である。ところで、Aは当時満一四歳であったから小児とはいえないにしても、成人にはなお数年を要する少年であり、輸液の注入には小児に準じた扱いを要し、患家における点滴の実施には右注意義務が要求されることも当然であるといわなければならない。

 しかるに、控訴人は、すでに説示のとおり、被控訴人ら方においてAに点滴を開始して間もなく、点滴中のAの症状の観察及び点滴方法の適否に対する監視を挙げて同人の母である被控訴人X2(《証拠略》によれば、同被控訴人が看護婦に準ずる医学的知識を有する者でなかったことは明らかである。)に委ねて、B看護婦とともに帰院したものであるから、医師としての前記の注意義務を尽さなかった過失があるものといわなければならない。

 控訴人は、右監視義務に反して帰院した理由として、(一)点滴実施中の容態急変は考えられなかったこと、(二)急変した場合でも、被控訴人ら方とは近距離であって、直ちに往診できること、(三)当日控訴人の医院に重症患者が入院していたこと等を挙げて、過失のないことを強調するが、、右(一)の理由のないことは既に述べたところから明らかであり、右(二)については容態急変をただちに認識しうる方法を講じていてはじめていえることであるが、その方法を講じていなかったこと前認定のとおりであり、右(三)については、少なくとも看護婦を患家に残さなかったことを正当化する理由とはなしがたく、いずれの主張も採用できない。」

ここが判決文のキモになるようです。ここで点滴療法を行なう時の注意事項を明示しています。

  1. 点滴療法を行なう時には常に心不全や肺水腫が起こる可能性があるので、医師あるいは看護婦が一定時間毎に観察し、いつでも輸液計画を変更できる体制で無ければならない。
  2. 医師が点滴を患家で行うことは医療設備及び監視体勢の両面から難点があるから、原則として避けるべきである。
  3. やむを得ず患家で点滴を行なう時は、輸液完了までこれに立会い、又は看護婦などこれに準じた医学的知識を有する者をしてこれに立会わしめる義務がある。
もう少し要約すれば
    点滴は患家で行なうのは原則禁忌である。やむを得ず行なう時は点滴終了まで医師ないし看護婦が立ち会うのが義務である。
医師側も反論していますが、綺麗に却下しています。

医師側司法判断
点滴実施中の容態急変は考えられなかったいかなる点滴でも医師ないし看護婦の常時の観察が必要
急変した場合でも、被控訴人ら方とは近距離であって、直ちに往診できた医師ないし看護婦が観察していないので急変が家族では判断できない
医院に重症患者が入院していた看護婦を残さない理由にならない
要は患家で行なう点滴療法は緊急避難的な例外的な治療行為であり、診療所で行なう時よりもより強い注意義務が発生する。そのためいかなる理由があっても医師ないし看護婦が点滴終了まで直接立ち会って観察しなければならず、それを怠っているので医師側がすべて悪いと断じています。

「そして本件において点滴に用いられたフルクトン及びコカルボキシラーゼについて重篤な副作用の考えられないことは中西鑑定によってこれを認めうるところであるが、如何なる輸液剤を用いるとしても点滴という治療方法自体に危険の内在することは前に認定したとおりであるから、結局Aの容態急変は、右の点滴の危険が顕在化したものと考えざるをえないところ、少くとも点滴実施中控訴人又は看護婦が被控訴人ら方に居残って、Aの症状及び点滴方法の適否を監視し、何らかの異状発見に対応できる体勢をとっていたならば、あるいは途中で点滴速度を変えるなどにより容態急変を未然に防止し、あるいは実際に起った午後四時ころの容態急変についても直ちにこれを発見して適切な応急処置をとりえたであろうことは、否定することができないし、これによってAの死を避止しえたことも容易に推認することができる。

 そうすると、前項において判示した控訴人の過失とAの死亡との間には、いわゆる相当因果関係があるものといわなければならない。

 なお、控訴人が本件点滴を行ったことは、中西鑑定によれば必ずしもAの治療上必要な方法ではなかったことが認められるのであるが、点滴に危険が内在するといっても、爾後の観察を含め適切な方法を用いる限り、その危険を最少限度に抑えうることはもちろんであるから、仮りにAに対する治療の方法として点滴を選択したこと自体を控訴人の過失と評価するとしても、右過失とAの死との間に相当因果関係を認める訳にはいかないのである。」

まず点滴の内容は中西鑑定とかで心不全を起す可能性を全否定しています。点滴の内容による心不全を否定した上で、点滴の内容が心不全を起していないのなら、点滴治療に内包される心不全が発生したと断定しています。またもし医師ないし看護婦が立ち会っていたのなら心不全の徴候を素早く発見し救命できたはずにつながっています。

ついでのようですが、患者の状態は治療上不必要であったとも付け加えられています。

控訴人は、仮に控訴人又は看護婦が点滴終了まで居残ったとしても、Aの容態急変は点滴終了後の午後五時ころであり、従って控訴人又は看護婦は容態急変時には患者に立会っていなかったことになるから、本件事故の発生と控訴人の過失との間に因果関係がない旨主張するが、前認定の事実関係と前出鑑定及び証人尋問の各結果を総合すると、Aの容態急変は午後四時ころ起ったものと認められ、医師又は看護婦ならばこれに気づいたであろうことが推認せられるので、右主張は採用できない。」

心不全徴候が現れた時間帯の判断でも医師側は主張を認められなかったことが分かります。

今日解説したのは高裁判決の「理由」部分だけですから、正直なところ医学的判断をするには情報が全く足りません。判決では明快に死因は点滴による心不全であるとしていますが、とくに基礎疾患のない14歳の流行性感冒で、500mlの点滴を75分で行なって心不全を起すとは通常想定し難いものです。

この辺は司法判断とは違い「絶対に」と言えないのが医学的判断の特徴ですが、この事件で点滴が心不全を起こす可能性については「ゼロではない」ぐらいの見解となってしまいます。起こったとすればまさしくレアケースで通常では考えられないぐらい不幸な出来事といえます。

もちろん心不全は現実に起こっているのですから、原因を考察しなければなりませんが、患者の情報としてあるのは

  1. 14歳の少年
  2. 流行性感冒であった
この2つしかありません。またこの流行性感冒の診断もおそらくあくまでも臨床診断で、検査で裏付けられたものでない可能性が時代的にも高いと考えるのが妥当です。医学的に心不全を起した原因を強いて考えると、インフルエンザであっても構わないのですが、ウイルス性の急性心筋炎のさらに劇症型が起こったと考える方がまだ説得力があります。ウイルス性の急性心筋炎の起こる頻度も非常に低いですが、点滴で14歳の少年が心不全を起すよりかは遥かに可能性が高いと考えます。

いずれにしても相当なJBMが明示されています。もう一度書くと、

    点滴は患家で行なうのは原則禁忌である。やむを得ず行なう時は点滴終了まで医師ないし看護婦が立ち会うのが義務である。
この判決がなされたのは1980年と古いのですが、この判決が指摘した点滴治療による危険性の内包という点に関しては、現在でも十分通用します。現在でもインフルエンザで脱水傾向が強くなった患者に対し点滴療法を選択します。点滴内容は1980年当時と較べて大同小異です。つまり現在でもこのJBMは十分に生きていると考えて良いかと思います。

この判決で示されたJBMは点滴治療によるものだけですが、少し考えれば適用範囲がすこぶる広い事に気づきます。厚生労働省鳴り物入りで「在宅、在宅」と突き進んでいます。ところがこの判決が指摘するとおり点滴療法さえ在宅では原則禁忌となります。そうなればどう考えてもそれ以上の医療行為と考えられる在宅酸素、在宅人工呼吸器、透析、中心静脈栄養、胃瘻などの扱いはどうなるかに関心を寄せざるを得なくなります。

今後在宅治療はイヤでも拡がっていきます。厚生労働省および政府の考えが変わらない限り、後5年もしないうちに在宅治療患者が10万人単位で増えるのは確実です。増えれば必然的に治療上のトラブル、とくに生死に関わるようなトラブルが激増するのもまた間違いありません。そのうえそんなトラブルを食い物にする不心得な弁護士も量産されていきます。

在宅治療の意義そのものを否定する気は毛頭ありませんが、増大する在宅患者とのトラブルを耐え抜ける医師がどれほどいるかを非常に憂慮します。