奈良事件の「もし」を考える

エエ加減食傷気味なんですが、奈良事件をもう一歩引いて考えてみたいと思います。引ききれるかどうか分かりませんが、そういうつもりで書いてみます。

そもそもあの夜の医師の動きについては確証的な情報は無く、相対的に真相じゃないかと思われる情報しかありません。それをある程度信用するとすれば、まず最初のポイントは午前0時ごろにあった失神様の症状の診断です。私は小児科医ですし、産科は周産期という時期においてある程度関係するとは言え、そんなに詳しいわけではありません。今回問題になっている子癇も教科書的知識のレベルしかありません。

知見が乏しいのでこの事件を追っかけながら、どうしても疑問に思う2つの点が午前0時の時点であります。

  1. 陣痛発作による失神なんてありふれたものなのか。(他に考えるもっと有力な原因はあるのか)
  2. 子癇前症であるとの説もあるが、この時期に子癇を疑ったときのもっとも適切な処置は。(この時点で即搬送判断をするべきものなのか)
当夜の産科医の判断を責めるつもりは現場にいないものとして毛頭ありません。これはどちらかというと研修医の医学カンファレンスでの素朴な疑問レベルですが、とくに産科の方で詳しい方がおられれば少しレクチャー下されば嬉しく思います。一歩引くと言いながらいきなりベッタリ現実の問題を出してしまいましたが、私の医学的興味として許してください。


本題は病院側がこの時に他に取りうる手段はなかったかということです。手段と言っても診断や治療の事、病院の医療体制のことではありません。悲劇的な事故の後にやっておけば良かった事です。ここで言う病院側とは、産科医個人もある程度含みますが、とくに病院としての対応です。

この事件の本質はこれまで例を見ない数の「たらい回し」です。この言葉は私も含めて嫌悪感の強い言葉ですが、一般の方々にはこの方が分かりやすそうなのであえて使います。事情はどうあれ、19ヶ所の病院に搬送要請を断られ、搬送先が見つかるまでの2時間もの間、患者に積極的な治療を行なえない状態を余儀なくされています。これは患者にとっても悲劇ですし、担当した産科医や病院にとっても悲劇です。当夜の他病院の搬送受け入れが出来なかった理由は調査により判明しつつありますし、分かっている範囲では医療者として納得できるものです。この点を今さら蒸し返して問題視するつもりももちろんありません。

私が思うのはこの悲劇を身を持って体験した病院が、この悲劇を受けて、搬送体制の充実を強く訴える(訴訟という意味ではなく)べきであったのではないかと言う事です。医学的にこの患者の救命は難しかったであろう事は私程度でもわかります。ただし十分な治療を受けさせることができなかった事は事実です。結果は同じであっても、医療者として悔やまれることであったことだけは認めなければなりません。

問題の根本は高次救急への搬送システムの不備に尽きます。今回の報道で奈良県もようやく重い腰をあげる(これはこれで批判もありますが)様ですが、病院がこの事件を受けて、速やかにこの悲劇の再現を防ぐような申し入れをしても良かったような気がします。もちろん「した」かもしれません。要望書を出しても握り潰されたのかもしれません。良く言われる役人答弁の「前向きの姿勢で善処します」で終わったのかもしれません。

要望書を出しても返事がナシのツブテ状態であるなら、こういう事こそマスコミを巻き込んでのキャンペインを行なえば効果的であったと考えます。そういう方面からの切り口でもマスコミ的には美味しいネタですし、そういう入り方をマスコミがしたのなら、少なくとも病院まで十把一からげの医療叩きの報道にはならず、方向として行政の医療体制の整備の怠慢を追及するものになったような気がします。

この事件で病院は医療として出来る限りの事はしたとは思っています。その上での「もし」として、この悲劇の教訓を繰り返さないようにする努力をしていれば、患者のためを考える医療者としての満点回答になっていたと考えます。

とは言うものの片田舎の町立病院にそこまで望むのは酷ですかね。