続厚労官僚は50年前がお好き

小児科医なもので高齢者医療とか介護保険にお世辞にも詳しくありません。考えてみれば診療科の中で介護保険にほぼ無関係なのは小児科医ぐらいですからね。昨日のエントリーで療養病床削減の事を取り上げましたが、考えてみれば「療養病床とは何をするところ」のごくプリミティブな疑問が出てきましたので、他の診療科の方には申し訳ないのですが今日はそこから入りたいと思います。

介護保険と医療制度を考える部屋療養病床についてとまとめられているものがあり、これを引用します。

平成4年の医療法改正で入院病床に一般病床と区別して「療養型病床群」という制度がスタートました。「療養型病床群」とは「病院または診療所の病床のうち、主として長期にわたり療養を必要とする患者を収容するための一群の病床で、人的・物的に長期療養患者にふさわしい療養環境を有する病床群」であると定義されていました。

その後暫くは病床の区分はこの区分で分類されていましたが、平成13年3月第4次医療法改正の結果、今後病院の入院ベッドは結核病床、精神病床、感染症病床のほかに、主に急性期の疾患を扱う「一般病床」と、主に慢性期の疾患を扱う「療養病床」の二つが新たに定義され、病床の区分を通じて病院の機能の違いが明確にされました。その上で、各病床(病棟)ごとの構造設備基準や人員基準があらためて決められました。「療養型病床群」は「療養病床」に名称変更されました。

一方、保険請求については平成12年4月の介護保険法の施行により、従来からの医療保険の対象となる病棟と、介護保険の対象となる病棟のいずれかに区分されることとなっています。 従って現在「療養病床」とは、医療保険の医療型療養病床と介護保険介護療養型医療施設の2つの施設を指すことになります。

簡潔で分かり安い説明です。病気というものは急激に進行変化し積極的に医療を行なわなければならない時期と、病状がほぼ安定してから長期戦の姿勢で粘り強く治療を継続する時期があり、積極的に治療する時期の病床を「一般病床」、長期戦で粘り強く治療を行なう時期の病床を「療養病床」としているようです。

医療費も一般病床では十分な人手をかけて行なう必要があるので基本的に高めに、療養病床では一般病床に較べて病状の変化が遥かに少ないので基本的に低めに設定されています。療養病床の問題点は実際に従事されている方々が種々に論じられていますが、門外漢になりますのでその点は今日は触れません。

この制度から入院治療の流れが分かります。何か病気になったとします。病状が重いから入院となりますから、まず一般病床で治療が行なわれます。そこで全快治癒となれば目出度く退院となります。ところがとくに高齢者となれば、入院の原因となった病気で命を落とすような状態ではなくなったが、収まりきらない症状や後遺症が残る事は多々あります。そういう症状はある意味不治のものもあり、また不治とまで言わなくとも当面は有効な治療は無く、現状を維持するしか治療法が無いものがあります。そういう人がじっくり入院治療を行なうところが療養病床であるとイメージしても間違い無さそうです。

現実の問題点はともかく、定義だけを見ると入院患者の種類を一般病床で治療する患者と療養病床で治療する患者に分類する事はそんなに不合理で無い様に思います。ここで浮かび上がってくる問題は療養病床で治療が必要な患者と、療養病床で治療が不要になった患者の線引きです。療養病床で治療が不要となれば全快治癒かと言えばそうではありません。なんらかの治療不能で固定した症状が残っている事になります。そういう患者が療養病床では治療不要であるから退院帰宅せよと言われても、患者もその家族も非常に困るケースが多々あると思います。

そういう患者はどこに行くかといえば介護施設という事になります。介護施設の機能分類も詳しくはないのですが、昔で言う特別養護老人ホームみたいなところかと考えます。では療養病床→介護施設がスムーズに移行するかといえばそうではないと言われています。介護施設介護保険運営下にあるのですが、介護保険は施設利用者が増えるほど負担が高くなるため建設は躍起になって抑制され、介護施設も手のかかる患者を受け入れると出費が増えるので歓迎しない構図にあるとの事です。

そのため一般病床→療養病床→介護施設への患者の流れは、上流から下流に流れ難いものになっているとの事です。小児科医なので伝聞形の表現ばかりで申し訳ありませんがお許しください。医療費は治療の必要性から上流の病床で治療するほど必要な物になっています。そこで厚生労働省は上流から下流に患者を押し流す政策を何度も行っています。押し流すといっても下流を十分整備充実させて流すのなら理解も出来るのですが、下流は不十分なまま医療費節約のためだけに押し流そうとしている感じられてなりません。

10/7の厚生労働省審議官の御高見で明言されている通り、今回の決定として一般病床→療養病床→介護施設の流れのうち、療養病床を約6割削減し、物理的に下流介護施設に流そうとしています。具体的には次の通りの主張です。

    計画では、介護保険の療養病床約十三万床と医療保険の療養病床約二十五万床を六年かけて再編し、医療保険の十五万床に集約する。その際、療養病床は老人保健施設などに転換するので、患者が追い出されることは考えられない。
「ホイホイそうでっか」とこの帳尻合わせに釈然としないものを感じますが、すぐに次に素直な疑問が出てきます。今いる患者は療養病床から介護施設に机上のプランで移行するとして、今後は団塊の世代が高齢者入りする事により、現在よりさらに療養病床は本来必要になるんじゃないかという事です。もちろんさらに受け皿となる介護施設も同様ですし、もっと言えば一般病床もそうだと思います。これに対する主張は、
    現在、一年間に亡くなる人は百万人程度だが、団塊の世代(一九四七−四九年生まれ)が二十年後に亡くなると推定すると、死亡者は約170万人になる見通しだ。この人たち全員を療養病床で対応する事は不可能だ。受け皿として、老人保健施設などの介護施設だけではなく、有料老人ホームやケアハウス、安い高齢者賃貸住宅などに入ってもらい、外から在宅医療や介護サービスを利用できるようにする。
これも良く知られている通り、介護施設の建設は非常に抑制されています。今回の施策により療養病床から介護施設に転換される病床が計画通りに出来たとしても、従来療養病床で治療していた患者が減るはずも無く、介護施設になる分は最初から満員です。さらに厚労官僚も自ら言う通り、今後は鰻上りに需要は増えるはずです。この部分の主張では、介護施設以外の受け皿として「有料老人ホームやケアハウス、安い高齢者賃貸住宅」としていますが、これらの施設は介護施設より格段に患者の治療管理能力が落ちるのは当然です。

有料老人ホームはそれでも介護者が常駐しているかもしれませんが、高齢者賃貸住宅は独居です。有料老人ホームは資産のあるものしか入れず、高齢者賃貸住宅は自活できる患者しか入れません。それ以外はどうなるか、すべて在宅でみるしかありません。患者は確実に急増するのに対して、療養病床を大幅削減し、介護施設のパイも増やす事に消極的であれば物理的必然です。

人間の望みとして最後は自宅で死ぬ事は妙な願いではありません。できればそうありたいと思うのは自然ともいえます。調査をすれば6割の人間がそう望んだのもわかります。しかし望む事と現実は違います。「家で死にたい」望みにはもうひとつ必要条件があります。それは出来るだけ家族に迷惑をかけずにです。寝たきりに近くなり、用便の介助さえ家族に頼らなければならない状態になっても「家で死にたい」が絶対の希望かと言えばそうではないような気がします。

自分の身の回りの事が自分で出来なくなれば、家族でなく施設の介護を望む人間が一般的であるような気がします。家族の生活を犠牲にしてまで「家で死ぬ事」にどれほどの人間が執着するでしょうか。少なくとも私は執着したくありません。厚労官僚が主張する、

    できるだけ終末期は自宅で療養したいという人が約六割いるという調査結果もある。
これを家族に多大な犠牲を払ってもそうしたいかと質問を変えれば、どういう結果になるかは予想がつきます。さらに言えば今でもできるだけ終末期は家で過ごしています。体調が許す限り家で終末期を過ごし、家で過ごす事が家族の大きな負担になってくれば施設に移動しています。どこまで家で過ごせるかは、家庭環境で変わり、時代の常識としても変わります。

家庭環境で言えば、昨日も書きましたがかつては存在した無償の介護力はとうの昔に失われました。これを回復させるのは時計の針を逆に回すようなもので最早不可能な事です。また病院で死ぬ文化が定着した事により、日本人の死に対する意識は大きく変化し、家で見守りながら死亡させる事に大きな違和感を感じる時代になっています。この意識もそうは簡単に変わる物ではありません。言い方は悪いですが、日本人の死は「医者が手の下しようが無い」のお墨付が必要となっているのです。それも往診に来た医者でなく、病院で検査も治療もした上でないと納得し難いものになっています。それを押しきって家で見るとなると時に親戚から強い非難が出ることがあります。「病院なら何とかなったんじゃないか」という声です。この声は残された家族にとって辛いものになる事があります。

厚生労働省が推進する「家で死んでもらう」路線が介護力不足、日本人の死への意識の下で強行されるとどんな事態が予想されるかですが、NATROM先生が明快に解説しています。

診療報酬を削られ療養病床が減る。老健施設は現在以上に予約待ち。在宅で診ろと言われても家族は限界。ちょっと熱でも出たらこれ幸いと救急車で急性期病院へ受診し、入院させろとごねる。医師は入院の必要がないと思っても、帰宅させて万が一結果が悪ければ責任を問われるのでしょうがなく入院させる。もしかしたら、「診断の遅れにより死亡。家族は入院を希望するも主治医は帰宅させた」などと新聞沙汰になり、真面目だが運の悪い医師が犠牲になるかもしれない。かくして、急性期病院は、現在以上に、急性期医療の必要のない患者さんでいっぱいになるであろう。

老年期になり健康を害し、さらには終末期を迎えたときにどうするかをもう一度真剣に考え直す必要があると思います。考えなければならない視点は2つに絞られると思います。

  1. 患者本人の希望
  2. 患者本人を介護する家族の希望
この二つを満たすように設計すべきかと考えます。本人も家族も在宅を希望し、それが可能であるものにはそれを支援する体制を構築し、それが出来ないものには施設でも十分対応するシステムを考えるのが正論ではないかと思います。人間の尊厳に関わる事ですから、まず当事者の希望を最大限に尊重して考え、それを実現するように努めるべきではないかと言う事です。

これを医療費削減という観点のみから、厚労官僚が机上の算数で決めてしまうことに違和感を感じざるを得ません。もういちど厚労官僚の主張を出しておきます。

−治療と療養を目的とする療養病床を大幅に減らす理由は何か?

「三点ある。一つは病院ではなく、自宅などで療養したり、亡くなったりする環境を整える必要があること。約50年前までは自宅で亡くなる人が全死亡者の約八割を占めていたが、今は逆に約八割が病院や診療所でなくなっている。できるだけ終末期は自宅で療養したいという人が約六割いるという調査結果もある。二つ目は医療提供体制の変換が迫られていることだ。老人医療無料化の『副作用』として、本来、福祉で対応すべき高齢者を病院で対応してきた歴史的経緯がある。高齢者の長期療養を自宅で対応できるようにすれば、長すぎる平均入院日数を短くし、医師や看護師を人材不足が深刻な小児科や産婦人科に回すことができる。」

現在の人間の死生観を唐突に50年前に戻そうとしたり、高齢者を病院から追い出すことにより小児科や産婦人科の不足解消に結びつけたりする理論展開を容認するのですか。たった6年で療養病床の削減は完了させる計画のようですから、今生きている人のほとんどの人間の終末期に関わる大問題なのです。それをこんな厚生官僚のトンデモ理論のもとに粛々と進行する医療、社会にひたすら慄然とします。