厚労官僚は50年前がお好き

10/7にupした10/5付神戸新聞7面の「争論」の分析です。たくさんのコメントを頂いてもう書くことがあんまりないのですが、ネタ切れと転記の手間が大変だったのでリサイクルです。屋上屋を架す感じがしないでもないのですが、今日は雨ですから個人的に許します。

まず記事を再掲しておきます。

−治療と療養を目的とする療養病床を大幅に減らす理由は何か?

「三点ある。一つは病院ではなく、自宅などで療養したり、亡くなったりする環境を整える必要があること。約50年前までは自宅で亡くなる人が全死亡者の約八割を占めていたが、今は逆に約八割が病院や診療所でなくなっている。できるだけ終末期は自宅で療養したいという人が約六割いるという調査結果もある。二つ目は医療提供体制の変換が迫られていることだ。老人医療無料化の『副作用』として、本来、福祉で対応すべき高齢者を病院で対応してきた歴史的経緯がある。高齢者の長期療養を自宅で対応できるようにすれば、長すぎる平均入院日数を短くし、医師や看護師を人材不足が深刻な小児科や産婦人科に回すことができる。」

−三点目は?

「調査の結果、療養病床にはほとんど医療の必要性のない患者が約8割もいることが分かった。介護施設や在宅に向かわせるべきだ。」

−増え続ける医療費の伸びを抑えることが大きな狙いでは?

「目的のすべてではないが、保険財政上の問題もあることは確かだ。療養病床では月に四十九万円くらいの医療費がかかるが、老人保健施設なら三十四万円、在宅サービスならもっと少なくすむ。入院が長期化して亡くなる人が増えれば、(医療保険制度は)やっていけなくなる」

−病院を追い出される患者も出る?

「計画では、介護保険の療養病床約十三万床と医療保険の療養病床約二十五万床を六年かけて再編し、医療保険の十五万床に集約する。その際、療養病床は老人保健施設などに転換するので、患者が追い出されることは考えられない」

−それでは受け皿が足りないのでは?

「現在、一年間に亡くなる人は百万人程度だが、団塊の世代(一九四七−四九年生まれ)が二十年後に亡くなると推定すると、死亡者は約170万人になる見通しだ。この人たち全員を療養病床で対応する事は不可能だ。受け皿として、老人保健施設などの介護施設だけではなく、有料老人ホームやケアハウス、安い高齢者賃貸住宅などに入ってもらい、外から在宅医療や介護サービスを利用できるようにする」

−ことし四月から「在宅療養支援診療所」(支援診療所)の整備を始めたが、どんな診療所か?

「二十四時間体制で往診や訪問看護ができる診療所のことだ。必要な医師や看護師がいることや、他の医療機関と連携して緊急入院に対応できること、介護計画を立てるケアマネージャーと連携していることなどの条件をクリアした診療所になってもらっている。既に全国で八千五百九十五の診療所が名乗りを上げている」

−患者が安心して在宅医療を受ける上での課題は何か?

「二〇〇〇年度に始まった介護保険制度で、在宅介護サービスは充実している一方、病気の治療など在宅医療の取り組みが遅れている。在宅介護サービスを利用していても、体が心配というのでは在宅療養はうまくない。入院・治療、リハビリ、在宅という流れに沿って医療に取り組むためには、在宅における支援診療所の果たす役割がとても重要だ。今後、患者が安心して在宅療養できるよう、都道府県が中心となり、在宅療養と介護に総合的に取り組む地域ケアの整備を進める必要がある」

この記事で厚労官僚が語っているのは療養病床大幅削減の理由です。療養病床大幅削減の最大の理由は、団塊の世代が死亡時期に入る事を懸念してのものである事がわかります。厚労省の試算では、現在100万人程度の年間死亡者が170万人に跳ね上がるとなっています。この試算の根拠まで調べませんでしたが、これはおおよそそんなものじゃないかと思います。死亡者が増えると何が困るかはこう主張しています。

    全員を療養病床で対応する事は不可能だ。
これ自体は算数ですからわかります。死亡者が1.7倍になれば療養病床のキャパは不足するだろう事です。不足するのならこれを補おうとするのが普通の発想ですが、厚労官僚はまったく違う発想をします。何と言っても厚労省には怖い怖い財務省から医療費削減を至上命題として突きつけられています。医療費が増えるような対策を考えてはならないのです。医療費を増大させずに170万人の死亡者に対処するために、不足する療養病床ごと無くしてしまおうと考え決定しています。

170万人に死亡者が増大すれば、療養病床の不足から死期を迎えても療養病床に入院できる人と入院できない人が出てきます。そうなれば入院できない人から厚労省に不満が押し寄せます。何と言っても生死に関わる事ですから、強烈な厚労省バッシングになる可能性があります。そこで中途半端に入院できる人がいるから不満からのバッシングが巻き起こるので、誰も基本的に死期を迎えても入院できないようにすれば不満もでないであろうし、医療費の増大も抑制できるだろうし、厚労省バッシングも防げるだろうとの一石三鳥の名案というわけです。

療養病床が無くなってどこで170万人が死期を迎えるかといえば自宅にしたいようです。現在の常識からかけ離れているように素直に思うのですが、さすがは厚労官僚、理論武装は怠りありません。そもそも病院で死期を迎える現在の風潮が間違っていると主張します。

    老人医療無料化の『副作用』として、本来、福祉で対応すべき高齢者を病院で対応してきた歴史的経緯がある。
老人医療無料化が病院で死期を迎えるのが当たり前である誤解を植えつけたと言う事です。死期といっても、寝るまでは元気だったのに朝起きたら死んでいたみたいな静かな死はそうはありません。医療の進歩により寿命が延びた事もあり、死期を迎えた人の多くはなんらかの持病に苦しみながら亡くなる人が数多くいます。そう言った現実があると思うのですが、それも軽く一蹴する理論武装が炸裂します。
    約50年前までは自宅で亡くなる人が全死亡者の約八割を占めていたが、今は逆に約八割が病院や診療所でなくなっている。できるだけ終末期は自宅で療養したいという人が約六割いるという調査結果もある。
50年前と言えば昭和30年頃のお話で、戦後の混乱が朝鮮特需の影響でやっと落ち着きかけた時代です。医療事情も当然お寒く、死期を迎えても受け入れられるだけの病院は無く、現在と違い自由診療の時代ですから、当時の多くの庶民は入院させるだけの経済力もない時代です。その時代に自宅での死亡者が8割あるのと現在を単純比較するのはかなり乱暴と感じます。さらに当時と現在では家庭環境、家族環境も違います。当時は二世代、三世代同居の大家族が普通の形態であり、さらに女性の社会進出なんて事はずっと先の時代ですから、専業主婦として介護力が存在していました。また女性がそうやって死期を迎えた老親を介護するのは常識とされた時代です。

現在は核家族化が進み、女性が働くのはごく当たり前の事です。私の子供時代ではまだ、両親が共働きは珍しいものでしたが、現在では逆にこれが多数派で当たり前になり、女性の収入が家計を支える大きな柱になっています。死期を迎えた老親を介護するのも肉親の情としてこれを行なわなければならないという義務感は残っていますが、介護に従事する事により自分の仕事を失う事はそうは簡単に出来ないものになっています。「仕事がしたい」もありますし、仕事をやめる事による収入減は家計に大きな影響を及ぼします。

50年前には無条件に存在した無償の介護力が、現在では綺麗サッパリなくなっているという時代背景を無視した暴論としか取りようがありません。厚労官僚が主張するように老人医療無料化により死期を病院で迎えるようになったかもしれません。死期だけでなく、常に介護が必要になった高齢者を自宅で見なくなったかもしれません。この事を厚労官僚は『副作用』と一刀両断にし、そんな間違った慣習を是正すべしと意気込んでいるようですが、高齢者を施設や病院で安価で見てくれるからこそ女性が社会に進出できた『効用』を無視しすぎているように考えます。

療養病床を無くし厚労省ご推奨の「自宅で死んでもらう」路線の為に、在宅支援診療所を作ったと自画自賛しています。これに介護保険で充実した在宅サービスを組み合わせれば、もはや療養病床は不要であり、現在の療養病床と同じ快適さ、同じ家族の負担で安らかに死期を迎えるとの御高説です。この御高説にどれだけの人間が「その通り」と絶賛するかが私には疑問です。

介護保険による在宅サービスはそれなりに充実しているかもしれませんが、痒いところに手が届くような代物ではありません。また介護保険そのものが今後は医療費削減の対象になるだろう事は容易に予想がつきます。死亡者が1.7倍になると言う事は介護保険対象者も1.7倍になる事であり、それに反比例するように保険料を負担する勤労世代はやせ細るのですから、明るい未来を抱けと言う方が無理があります。考えようによっては今が最高水準で、団塊の世代が死期を迎える頃には削減に次ぐ削減で見るも無残な物になっている可能性が十分危惧されます。

そうなると「自宅で死んでもらう」為には無償の家族の負担を暗黙のうちに要求している事になります。誰かが仕事をやめて介護につかなければならないと言う事です。雑な計算ですが、50歳頃から老親の介護の為に仕事をやめざるを得ない人が急増していくと考えられます。仕事をやめる影響は大です。社会的には労働力の不足をもたらし、家計的には収入の大幅減と介護料の負担が大きく圧し掛かることになります。

はたして厚労省は療養病床をなくして「自宅で死んでもらう」事による経済効果をどのように試算しているのでしょうか。厚労官僚の頭の中の算盤は社会福祉予算の額しかないようです。これさえ帳尻が合えば他の事は野となれ山となれと考えているんじゃないでしょうか。社会福祉予算といっても彼らが気になるのは国庫支出分の額だけであり、個人の負担の増大については関心すら寄せようが無いように思います。

どこか発想の根本が間違っているような気がします。なんと言ってもいきなり50年前の世界が理想的と持ち出すのですから、その物凄さに感心しないではいられません。私も療養病床が無くなって「自宅で死んでもらう」時代に死期を迎える訳ですから、暗澹たる気分になっています。