こんなメディアが欲しい

あくまでも一般論ですし、個々の事象で判断が分かれるのも当然ですし、私の偏見も入っているのも否定しませんが、最近の風潮は「叩きすぎ」のような気がします。他人を批判したり、非難したりするのはやはり重い行為であると考えます。無条件の絶賛もどうかとは思いますが、批判や非難はやはりそれなりに根拠が必要で、結果としてでも批判や非難が的外れであれば責任が生じると考えます。

結果として的外れであっても、批判や非難した時点での根拠がその時点で十分信じる値するものであれば最低限の弁明は出来ます。それでも後味が悪いものであると私は思います。ましてや曖昧な根拠や憶測で構築した根拠が的外れであるならば批判は免れ得ないと思います。また批判や非難をするのが内輪の話、たとえば私が職員相手にある事象を愚痴って、職員が「そうだ、そうだ」程度ならさして問題ではありません。もっと大規模に影響力のあるメディアで大々的に公表したからには、責任は等比級数的に大きくなると考えます。

現在は情報社会です。いろんなニュースが瞬時に伝わります。瞬時に伝わるといっても速報段階では情報の信憑性が曖昧なものであることは多々あります。やがて時間が経てば詳細な情報が入手できるようになり、細かく事態を分析する事が可能となり、事実関係や背景が明瞭となり事態の構造が浮かび上がって確報に至ります。

速報と確報の間にはかつて相当な時間差がありました。ところが情報社会の恩恵で速報から確報に至る時間はドンドン短くなっています。事態が発生して第1報が出てからほんの数日の間に瞬く間に情報量は膨大なものに膨れ上がります。情報も量より質とは言う向きもあるかもしれませんが、どの情報が質が高く、どれが質が低いかを判定するには量が必要です。

かつては情報収集力が現在より低く、またその情報を伝播する能力も低かったので、メディアは限られた情報を吟味してニュースを報道し分析せざるを得ない時代がありました。今でもそうせざるを得ないニュースはあります。たとえば厳重な情報管制のある戦争のニュースや現地が大混乱に陥っている大災害のニュースなどはそうです。そういうニュースではある程度あいまいなニュースであっても伝える事に意義があります。

ところがすべてのニュースがそうであるかどうかとなると正直疑問です。ある段階であれほど断定的な表現を用いて報道するのが必要かと思われるニュースがあまりにも多いと感じます。速報は速報で必要ですが、材料の乏しい段階でその見解をシロかクロか決め付けたかのような論調はやや度が過ぎているような気がします。ほんの数日、長くて一週間もあれば裏づけのある十分な根拠を持って事態を論評できると考えます。

またメディアは速報段階で曖昧な根拠で下した判断を相当引っ張ります。続報でその判断の信憑性が疑われるようになっても基本的に最初の見解を引きずりながら論評を続けます。さらに言えば最終的に判断が間違っていると言う事になれば、記事の扱いを極力縮小し、目立たない記事として処理し、新たな話題を鳴り物入りで打ち出して消し去ろうとします。

こういう報道のやり方をイエロージャーナリズムと呼んだと記憶しています。事態を出来うる限り早い段階でシロクロを明瞭に色分けし、その色分けにしたがってセンセーショナルに書きたて読者の関心を引き寄せると言う手法です。センセーショナルであればあるほど「読み物」としての記事はおもしろく、煽動された読者は判断の簡単なより強い刺激の記事を求める構図です。そういうイエロージャーナリズム的な手法は手法としてあっても構わないとは思います。メディアも商売であり、「売ってなんぼ」ですから、記事の信憑性より読み物としてのおもしろさで勝負すると言うのも認められるとは考えるからです。

ただしイエロージャーナリズムだけでは困ります。もう一方に良識のあるメディアがいなければなりません。イエロージャーナリズムが書き散らかした後に、真実を冷静に分析して報道する機関です。速報段階でヨタ記事や憶測記事を読み物として楽しんだ後に、これこそ真実と信頼できる論評を聞けるメディアです。

日本の報道にはこれがありません。日本の有力メディアはイエロージャーナリズムもやり権威ある最終判定者の役割もやろうとしているように見えます。しかしこの二つは基本的に水と油の関係です。煽情記事は読み物として楽しむ代わりに「うそ」も入っているとの前提で受け取ります。煽情記事を垂れ流した後に「これが真実だ」と主張しても信用性は得られません。

私が欲しいだけかもしれませんが、速報段階での煽情読み物記事に力を入れるのではなく、確報段階での真実の報道に使命を賭ける報道機関が出来ないものかと思っています。この報道機関の報道こそが信頼の置ける報道であり、根拠もその裏づけも綿密に検証、考証されたものであると言うところです。

そういう報道機関の成立を待ち望んでいる人々は少なくないと考えています。既存のイエロージャーナリズムが書きたてる煽情記事を読み物として楽しみながら、本当の真実はどこかであるかを明快な根拠を基に論評してくれる報道機関は、十分存在の場を確保できるんじゃないかと思います。

そんな気骨のある報道機関なんて日本で望むのは贅沢すぎるでしょうか。と言うか、そうしていかなければ少なくとも既存の新聞は先細りになってしまうと思うのですがいかがでしょうか。