ネットとマスコミ

逮捕されてしまいましたが、堀江前社長の言葉に「報道は事実だけを伝えればよい」と言うのがあります。そこから先はウロ覚えなんですが、「事実に基づいて論評するのは読者であり、ネットでは読者同志がその情報を交換できる時代なっている」だったように思います。

ネット時代になってたくさんの個人が様々な事柄に対し自由に意見を発表できるようになってきています。またその意見に対し自由に賛成したり、反対する事も可能ですし、ある程度までは意見交換をして議論も出来るようになっています。この個人の意見の多様さは目を瞠る時があります。一つの事柄に対しても各人各様の見方、切り方があり、玉石混交はやむを得ませんが、時に非常に鋭い意見もあります。私の拙いブログに寄せていただくコメントにも感心させられるものは多々あります。

当然と言えば当然ですが、情報を得る大元になっているのはマスコミです。私もマスコミ報道からブログの題材をとることは珍しくありません。今ほど時事に関して評論家が増えた時代は空前ではないかと思います。堀江前社長の言葉はこういう時事評論家が増える時代のマスコミのあり方を指摘していると思います。

かつてマスコミは情報提供者であるだけではなく、情報の解釈決定者でありました。解釈決定はすべて報道機関内部でのみなされ、その決定は絶対的なものであり、誰もこれに反論する事はほぼ不可能でした。つまりある事柄をニュースとして提供するだけでなく、そのニュースはこう解釈し、こう考えるべしとまですべて決定する権利を有していました。マスコミがクロと言えばクロですし、シロと言えばシロと盲信させられていたと言う事です。

ところがネット時代になり個人が不特定多数と容易に意見交換をする事が日常的となってきています。この流れはこれから拡大は限りなくするでしょうが、縮小する事は考えられません。そうなるとマスコミがこれまで行なってきた情報の取捨選択の基準、無批判に受け入れられていた解釈の仕方、考え方に疑問符がつけられるようになってきています。本当にマスコミは公平中立にニュースを流しているのか、マスコミのしたり顔の解釈にどれだけの信憑性が置けるのかを。

マスコミはあらゆる社会的事象の専門家では必ずしもありません。とくに専門性の高い分野の解釈にはすぐに馬脚を現します。付け焼刃の生齧りの知識では十分な解釈が出来ないのです。従来はそれでも支障がなかったといえます。浅薄な理解による中途半端な解釈でもこれを批判するものはなく、批判する者があったとしても握りつぶせばそれで終わりだったからです。マスコミが握りつぶす限り批判は無いも同然の世界だからです。

ところがネット世界では特定分野の専門家が結構潜んでいます。専門家はその専門知識で事件をより詳細に分析できます。またその分析結果を誰でも読みに行けます。読みに行くだけではなく質問もできます。質問に対してはいつでもと言うわけでは必ずしもありませんが、多くの場合、そうとう親切な回答を返してくれますし、他の読者からの新しい情報も与えられる事があります。つまりマスコミの紋切り型の解釈ではなく、血の通った実地の専門家の意見や解釈をその気になれば手に出来る時代になっているのです。

ものによりますがネットでは相当詳しい、精度の高い情報を入手できます。下手な専門書よりもよほど分かりやすい情報を手に入れられます。さらにそういうサイトは日々増殖しています。サイトだけではなくそういうサイトをネットの中から探し出すツールも日々進歩しています。

こういう時代での報道機関の情報提供のあり方は、少なくとも速報段階では変なバイアスのかかった解釈は不要であり、判明している事実だけを淡々と伝えれば十分ではないかと考えます。解釈や論評は確報段階に至ってからで十分であり、また問答無用の決定者ではなく、その報道機関はニュースをこう解釈し、こう論評すると言うのを世間に問うものでなければならないと考えます。マスコミと言えども時事評論家の一人に過ぎず、同じ情報ソースの解釈者の一人に過ぎないと言う事です。

今は過渡期であると思います。マスコミは情報の解釈決定者の立場を死守しようとしています。死守しようと言うより今までがそうであったので、これからもそうであるはずだと考えています。マスコミこそが愚民を啓蒙し、世論を正しい方向に導く唯一無二の存在であるとしています。今でもマスコミ情報を鵜呑みにしこれに踊る人々は少なくありません。物事の解釈の根本をマスコミ情報に求め根拠にして論陣を張る人はネット世界でも多数派です。

多数派ですがもはや全員ではありません。少なからずの少数派がマスコミ情報に眉に唾をつけて解釈し始めています。その数は刻々と増えています。ネットの住人は少なくとも自分の専門分野では、マスコミ情報の嘘やいい加減さを詳細に分析して情報発信を続けていますし、それの支持者は静かに増えています。どこかでマスコミ情報のいい加減さを知った人は今度は他のマスコミ情報を懐疑心の目を持って接するように変わってきています。これはまだ大きくはありませんが、さざ波からうねりに変わりつつあるように私は感じます。

マスコミはこれからも情報収集者である立場は変わらないと思います。また情報発信者である立場も変らないと思います。これを網羅的に専属で行なっている機関はマスコミしかないからです。ところが情報を解釈する機関としての価値はこれからその地位を低下させると考えます。少なくともこれまでのような絶対の判定者の地位は保てなくなると考えます。その地位をある程度保とうと考えるのなら従来のような傲慢な姿勢では到底無理です。

そう遠くない将来に堀江前社長が言っていた様な情報を伝えるだけの報道機関がネットに誕生する予感がします。極力余計な論評を控え、事実のみを淡々と伝える報道機関です。事件についての論評や解釈を読みたければ、ネット上のブログやその他の専門サイトを読めば良いと言う事です。また論評するサイトの整理サイトも今より便利な形態で発達する可能性も考えています。そういう時代がもうすぐ来ます。もう人々は与えられたニュースを与えられた解釈でしか考えない事に飽きてきています。自分で考え、解釈し、発信し、それに対する賛否の意見を聞いた上で物事を判断すべしだと考えています。

そういう転換点が訪れてきていると感じます。後10年と言いません、後5年、後3年でも大きく変わっているはずです。世論はマスコミが作り、マスコミが広げる時代の終焉です。世論がネットから起こり、ネットで拡大する時代です。後世から見ればもうそんな時代に既になっているのかもしれません。