注意義務違反

いつも読ませてもらっているブログのコメントに「医療行為そのものが犯罪行為である」との意見を見ました。現在の医療訴訟から考えると「そうだ」とうなづかざるを得ません。まずもってすべては結果論から始まります。すなわち死亡した、重大な後遺症が残ったなどです。その次の段階は重大な結果であるから犯人はいるはずだに進みます。医療現場では犯人と目されるのは医師です。なんと言っても直接手を下しているわけですから容疑濃厚と見なされるわけです。

そこから犯罪立証となります。これも数々の証拠が残されています。後から検証するのですからどこかにアラはこぼれてきます。「ればたら」論はいくらでも湧いてきます。「もしこの時点で・・・」的な話で後から事態を設定しなおせば回避できた可能性があるぐらいの話は容易に創作できます。新たにリセットしなおした状況でシミュレートすればどうだの質問されれば、重大事故が回避できたから、その設定を事故発生前に医師が思いつかなかったのが悪いの結論が導き出されます。

その結論を検証するのは医学には素人の裁判官です。回避できる処置を準備しなかった、もしくはその現場で思いつかなかった医師は注意義務違反として断罪されます。最近では期待権という言葉も頻用されるようです。かくして医療ミスは量産され、言語道断の医師は法律的にも社会的にも抹殺され、マスコミは不良医師の放逐に凱歌を上げます。

医療は専門科学です。最先端に行けば行くほど危険性が増します。また相手は人間です。人間は十人十色、百人百様の違いがあり、同じ病気にまったく同じ治療を施しても、物理法則や化学反応のように同じ結果が得られるわけではありません。非常に有効な成果が得られるものが多数派としても、思わしくない結果になるものは少なくありません。不測の事態はいつでも起こりうるのです。

不測の事態についての研究もやっています。不測の事態にも頻度の差はあり、それなりに確率の高いものには準備は行ないます。医師の常識として、予想はしておいたほうが良い不測の事態に対する対応を怠ったものに、医師は弁護の手を差し伸べません。一般の方が信じている常識と反するかもしれませんが、医師は他人のミスには相当厳しいものです。

また無茶苦茶稀な不測の事態に対する対応も研究しています。研究と言うよりその事態が起こったのが、あらゆる事態に対応できるぐらいの器材とマンパワーを備えた医療施設であり、そこであらゆる手を尽くしてようやく救命できたような事例の報告です。「こうやったらなんとか切り抜けられた」のお話です。患者にとっても医師にとってもまさに僥倖としか言いようの無い、奇跡に近いようなケースです。

ところがそういう奇跡的な僥倖に恵まれた事例が司法では常識レベルに変化します。そういう治療をすれば助かる可能性があるのなら、それをしなかった医師が悪い、もしくはそれが出来るような準備をしなかったのが悪い、さらには非常に稀な不測の事態を予見して、そういう治療が出来る施設に治療を委ねなかったのが悪いと。しなかった医師は注意義務違反に厳しく問われます。

そもそも予見できないから「不測の事態」と言うと思うのですが、現在では不測の事態を予見できない事も罪に十分問われます。それは1万人に1人でも、10万に1人でも起こりうるのですから「予見可能」とされます。もちろん非常に稀な不測の事態に対する対応には、莫大なマンパワーと器材、医療用品が必要とされます。それが常に備わっている医療施設は日本に幾つあるのでしょうか。日本で日々行なわれている医療行為に対し、すべての不測の事態に対応して治療に当たれば、どれだけの費用と医師の数が必要かは試算すらも出来ません。

結局運悪く「不測の事態」に遭遇した医師は社会的に抹殺されます。例えれば目隠しで地雷原を日々歩いているようなものです。これは冒頭に引用した「医療行為そのものが犯罪行為である」そのままの世界です。どんなに誠意に溢れ、医療にすべてを捧げる熱情を持った医師でも、地雷を踏んだら悪徳医師、不良医師でいとも簡単に抹殺されます。

過剰な表現と思われるかもしれませんが、医師の中の少なからずの人数がこの恐怖に震えています。これまで他人事と思っていたこの恐怖を深刻に実感しはじめています。訴訟で巨額な賠償金とともに敗訴した事例は、自分の日常診療でも十分起こり得る可能性があり、もし遭遇したらこれも回避できる可能性は非常に乏しい事にです。

神レベルまで拡大解釈されていく注意義務違反。地雷を運悪く踏んでしまった医師をマスコミも世間も司法も嬉々として断罪してなんら良心の咎めはありません。不良医師を一人放逐できた事を誠に喜ばしいと小躍りしています。しかし医師はこの恐怖にいつまでも耐えられるものではありません。危険地帯から静かに撤退しています。少しでも地雷の少ない地帯に逃散しつつあります。

もたらす結果は?やがてリスクの高い治療を行なう医師が日本から消滅します。医師は変人ですからそれでもやるという者はいくらかは残るでしょうが、少なくとも全国どこでもなく、非常に限られた施設のみで怖ろしい高額な実験的な医療としてのみしか行なわれなくなります。そして医療ミスは激減します。「医療ミスは医療をするから起こる」の意見を読んだ事がありますが、まさしくそれが実現する事になります。

そうなるように国中で運動している矛盾を、どれだけの人が理解しているかを思います。