痛みに耐えるという事

小泉首相の御用機関に経済財政諮問会議があります。そんな名前だったと思います。そこの議長の社長は球団を持っています。10年程前には優勝したこともあり、全国区のスター選手がいましたし、人気もそこそこ上がりつつありました。しかし経営は赤字でした。社長は赤字である事を重要視し、経営改善に励む事になります。

手法は経費削減。とくに人件費は削りに削りました。球団にとって人件費削減とは選手の年棒抑制です。しかしいくら抑制するにも最低限の相場があり、また必ずしもではありませんが、年棒と実力はある程度まで相関します。それでも人件費を削りました。その結果、主力選手は相次いで流出し、見る見るうちに誰も知らない選手がレギューラーを占める事になります。名前は知られていなくとも、戦力さえあれば再びスター選手は生まれるのですが、戦力も急降下する事になります。戦力が落ちれば成績も低迷します。成績が低迷すれば観客は来ません。観客の落ち込みは、人件費削減効果さえ無にするほどのものになってしまいます。

ようやくそれを察した球団は戦力増強に躍起となっています。かつてからは考えられない費用を出して補強に努めつつあります。しかし枯渇した戦力を取り戻すのは容易ではありません。地に落ちた人気を回復するのも容易ではありません。あの球団の失われた10年の回復には莫大な費用がかかります。この事をあの社長は経験したはずです。

しかし同じ事を医療にやろうと躍起です。医療費削減こそ正義であると喧伝し、これを断行しつつあります。医療費が減れば病院の収入は減ります。公的病院のほとんどは、良くてトントン、多くは赤字です。収入が減ればトントンは赤字化し、赤字はさらに増大します。赤字は自治体が補填するのですが、自治体もまたほとんどのところが赤字で苦しんでおり、さらなる財政負担で苦しみます。

赤字の経営では勤務条件は良くなりません。そもそも地方病院は給与もあまり良くなく、労働条件はトンデモナイところが多々あります。それが赤字でさらに条件が悪くなりますから、医者は逃散してしまいます。もともと無謀なぐらい少ない人数で維持していた医療で、さらに人員が減れば、残ったスタッフではもはや医療は維持できなくなります。残っていたスタッフも耐え切れなくなってドミノ倒しのように連鎖的に逃散します。

医者に逃げられた病院が医者を呼び戻すためには、労働条件、給与の改善が必要になります。しかし赤字が累積している病院にそんな余裕はありません。結局その診療科はなくなり、病床も小さくなるしかありません。最悪閉院です。そんな話が想像ではなく、現実に起こっています。それも表面化したものだけでも10や20はありますし、水面下のものはそれこそ氷山の一角で100以上は軽くあるんじゃないかと推測しています。

医者の就職状況は医局制度の衰えとともに流動化しています。流動化すれば条件の良いところに集まります。条件の悪いところには近寄りません。大都市部に比べ、地方と言うだけで前提条件が決定的に悪いですから、同等の競争条件で医者を招聘するには、大都市部をしのぐ給与待遇が必要なのは医療だけの話ではありません。しかしそんな余力はありません。

先行きで言えば医療費削減は現在の政治路線が続く限り絶対の正義として続きます。という事は状況はまだ現在の方がずっと良いわけで、「もっと削減」の声に賛同する人が減らない限り、あなたの街の病院は削減に比例するように消えていきます。今でもかなり危うい状況ですが、ある日地すべりのように消え去る事さえ予想されます。

自治体なんて横にらみですから、隣の町が病院維持をあきらめたら「右へならえ」現象は容易に起こります。かえって粘って抱えていたら、潰すに潰せないお荷物になる可能性がありますから、起こり始めたらまさにバタバタの可能性が強いです。

そんな未来図は医療関係者なら容易に頭に描いていますが、それ以外の人には無関心な話題です。ただし流れが決まると、署名をしても、デモをしても確実に消え去ります。一度消えれば容易なことでは再建はされません。これを身を持って知るのは病院がなくなり、通院に1時間も2時間もかかるようになるまでは無理かもしれません。

小泉政治のスローガンに「痛みに耐える」というのがありました。これを人は「一時的」に耐えるものだと考えていました。しかし小泉政治が終わりになる頃にようやくわかりました。耐えるのは決して一時的ではなく「永久」に耐えなければならない事です。医療改革も同様です。首相自ら「格差社会」を容認しているわけですし、医療もまたそうなるように動かされています。厳しい時代に医者をしているものだと痛感します。