荒川静香の金メダル余話

医者だから医療ネタを続けるのが本筋でしょうが、どうにもこうにも書けば殺伐たる現実と暗澹たる先行きばかりが目に付いてペシミストの嘆きになってしまうので、今日はトリノ五輪で数少ない素晴らしい話の女子フィギュアのお話です。

終わったばかりなので展開はよくご存知かと思いますが、フィギュアでは2つの課題で競技が争われます。与えられた課題の難易度を競うショートプログラムとフリーです。荒川は前半のSPで3位の好位置につける事になります。3位と言っても首位のコーエンに0.71しかない大接戦です。コーエンがSP終了後に「これからヨーイドンでメダル争いだ」のコメント通りの展開です。

運命のフリーとなるのですが、フィギュアの採点法はソルトレークの大騒ぎの後、大幅に変わっているようです。従来の採点法は審判員がずらっと並んで、技術点と芸術点をひとり6点満点で出したもので争われていました。例えればものまね芸人の大会の採点や、新春隠し芸大会の採点のようなものです。そういう採点法では審判の主観が大きく入り込む事になり、実績とかネームバリューだけでも選手の間には大きな点差がつけられていました。

ところが現在の採点法は全く違うものであり、夏の五輪の体操に近い採点法に変わっています。つまりジャンプとかスピンなどのすべての技に難易度に応じて得点が与えられ、その技のひとつひとつの評価の足し算が得点となる方式だそうです。また演技時間中にどの技をどの順番で盛り込むかは事前申請制になっており、もっと言えば演技をする前にその選手の得点の上限が分かるシステムになっているのです。

サーシャ・コーエン、イリーナ・スルツスカヤ、荒川静香は前半のSPでは0.71以内の差にいます。フリーに対して3選手が出した得点の上限が分かっています。

コーエン61.5
スルツスカヤ60.0
荒川静香64.6
この持ち点で3人が普通に滑れば、優勝は荒川になってしまいます。滑走順はコーエン、荒川、村主、スルツスカヤの順です。SPの時と打って変わってコーエンが極度に緊張をしたのはすべてこの得点を事前に知っていたためです。コーエンはフリーでたとえ満点演技をしても、荒川が普通に滑れば逆転されます。コーエンが勝つためにはまず自分が完璧な演技をして荒川にプレッシャーをかけ、荒川のミスを期待するしかない状況だったのです。

この重圧にコーエンは耐え切れず2度の転倒をして55.22なってしまいます。楽になったのは荒川でノビノビと演技を行い62.32を叩き出します。実はこの時点で荒川の優勝は決定していたのです。観客もテレビの前の視聴者も女王スルツスカヤの演技を固唾を呑んで見守っていましたが、スルツスカヤの演技の上限は60点しかなく、どんなに完璧な演技を行なっても絶対に追いつけない状況に既にあったのです。

女王スルツスカヤは決勝前の練習でも伸びが無かったと伝えられます。緊張もあったでしょうが、決勝前の演技発表の時点でコーエン、荒川ともがミスをして自滅してくれない事には勝てない事が分かっていたからです。コーエンは期待通り自滅してくれましたが、荒川が素晴らしい演技をした時点でスルツスカヤの金への執念は消えていたのです。

滑走前にスルツスカヤはかなりのためらいがありました。あの時間は金への重圧というよりも、これまでの努力が報われなかった事を必死で自分に言い聞かせる時間であったと考えます。最後の女王の意地と誇りを見せようとしたのかもしれませんが、金への執念という気力が大きくそがれたスルツスカヤもまた転倒してしまいます。

滑走順という展開の綾は3人の選手に微妙な影を落としています。しかしコーエン、スルツスカヤが荒川並みの出来であったとしてもやはり追いつけなかったのです。荒川の実力は五輪の時点で二人を大きく上回っていたと言う事です。

コーエン、スルツスカヤの自滅で荒川に金が転がり込んだという評価もありますが、実際は荒川が自滅しない限り優勝は確実だったのです。圧倒的な荒川の演技持ち点の前にコーエン、スルツスカヤは自滅したと言い換えても良いかと思います。コーエンやスルツスカヤは荒川を上回る演技構成をする実力が無かったとも言えます。

もちろんフリーの演技申請の時点で荒川が有利だったとはいえ、演技点が高いということはそれだけ難度は高く、それを荒川が出来た、もしくは荒川なら出来るとライバルに重圧がかかったことが勝因だったという事です。荒川に先行したコーエンはプレッシャーから自滅し、荒川の後に滑ったスルツスカヤは失望から自滅したのがトリノ五輪の女子フィギュアの真相という事です。

やはり金メダルを取るという事は容易な事でない事がよくわかりました。