ブログを書いてみて

はてな」に書き出して半年、その前に自前のソフトで書いていた時も含めると約1年です。ようよう続いていると自分でも感心しています。日記なんか昔から三日坊主になる見本みたいなものですが、やってみるとある程度続きさえすれば後は「途絶えさすのが惜しい」と思いなんとかなるとは実感した次第です。

ブログのおもしろさは意見が返ってくることがある事です。まだまだ読者も少なく、談論風発、喧々諤々なんてものには程遠いですが、それでも返ってくれば嬉しい物です。最近は少し余裕が出てきたので、他のブログにもお邪魔して私の意見を書かせてもらっていますが、そこにもまた意見が寄せられる事があって「おもしろいな」とまたまた嬉しがっています。

ネットは良くも悪くも匿名世界ですから、すごい意見をエントリーしているところもあります。コメントもまたそうで「そこまで書くか」のものも数多く見ます。日頃は仕事場に籠って限られた人間を相手に話をするだけですから、自分と違う意見、見解を持つ人とネット上とはいえ意見を交わすのは新鮮なものがあります。

ブログという意見発表手段は静かですが、これから徐々に世論形成のひとつの手段として力を持ってくるのではないかと考えています。ネット社会が広がる前は、自分の意見や見解を不特定多数に公表する場と言うのは、ほとんど無かったんじゃないでしょうか。せいぜい新聞の投書欄ぐらいのもので、あそこに採用されようと思えば高い競争率を潜り抜け、編集者にお気に召していただき、時に掲載段階で本来の趣旨を捻じ曲げられるような改変に耐えなければなりません。さらに言えば掲載されればそれで終わりです。

それ以外となるとちょっと思いつきません。あるとすれば市民運動みたいなものに参加するとか、それこそ選挙に出るぐらいの行為が必要であったと思います。ところがネットはもっと手軽に安価に確実に多数の人に意見を公表できる場を提供してくれると思います。

良い事ばかりに見えるネットでの意見公表ですが、デメリットも目に付くように感じます。世の中には様々な意見があり、それを公表するのはもちろん自由なんですが、反対意見を許さない雰囲気が端々に見られることです。ブログであるならエントリーであるとか、寄せたコメントに対しての反論は許さないの論調があまりに目に付きます。自分が信念を持った意見を強く主張するのは大事ですが、世の中に公平無私、清廉潔白、どこから見ても完璧な意見などあるはずもなく、誰しも独善の罠に多かれ少なかれ嵌っている事になかなか気づかないようです。

自分の意見を強く主張すると、反論は許さないとは矛盾するものではありません。自分の意見を大事にしながら、反論に対して耳を傾ける部分はそれを広く取り入れる姿勢がもっとも大事かと考えるのです。時に痛いところを突かれると、自己防衛本能の塊になってしまうのはある程度誰しもあるでしょうが、あまり露骨に出ると議論ではなく感情のぶつけ合いになってしまいます。

それと最近の傾向で気になるのは、シロクロを明らかに線引きしてしまうのを好む傾向が強くなっている事です。ある物事に対しての姿勢を最初からシロ、クロと決めてかかり、反対派の意見を論難し撃破することのみに姿勢を向けることです。この世の中の多くの事は、まだまだ決着をつけられないことが多数あり、現時点と将来では不確定要素があまりにも多く、両論併記でやむを得ない事柄が多数あります。そういう意見でシロかクロかの意見交換は有益な事ですが、相手を説き伏せようとしすぎるのは最終的には感情論に至ってしまいます。

議論は相手の意見をよく聞き、評価するところは評価し、評価できないところは論拠を上げて反論して積み上げていくものです。「そんな事を考える奴はバカだ」式の反論は不毛の対立しか生み出しません。ところがこの不毛の対立に持ち込みそうな意見表明で、ゴリ押しすることこそが議論であると勘違いされている方が多いような気がしてなりません。

私もその弊が全く無いとは言えないのでいつも自戒をしていますが、ブログを意見形成の場として大きく発展させるためには大切な事ではないかと考えています。新聞社は自らを「社会の木鐸」と自認してきました。これはかつて新聞が世論構成に魔王のような力を有していたからです。ところがこれからの世の中は個人が木鐸を大きく鳴らせる時代に変わろうとしています。

ブロガーとしてどんな木鐸を鳴らせるかが問われる時代が来ている気がします。