五輪の芸術種目

中国の新体操の選手が採点に不正があったと爆弾発言し、波紋を投げかけているとのニュースがありました。背景は中国らしく複雑な様子ですが、これを読んで新体操をはじめとするシンクロ、フィギュアスケート、さらにはフリースタイルスキーなんかも入るかもしれませんが、いわゆる芸術種目の今後がふと気になりました。

陸上や競泳などが力とスピードを競い合い、残酷なまでに時計が公平な審判を下し、勝負のコントラストを描き出すのに較べ、芸術種目はその優美さを競い合う五輪の華と言えます。しかし五輪は勝負の場ですから、優美さに点数をつけて順位をつける必要があり、そこのところに究極的に無理が出てくることがあります。

芸術種目でも下位選手と上位選手の差は歴然としています。この辺は絵画や書道と同様で達人と凡人の差は素人でもはっきりわかります。ただし優勝を争うトップ10、いやトップ3ぐらいになると判定は微妙なものになります。トップクラスとなると技術的な差は無くなり、勝敗の鍵を握るのは表現力、芸術性と言った「美」への採点となります。

美の基準は人間であればある程度一定の嗜好はあります。花を見れば綺麗と思ったり、晴れ渡った秋空に爽快感を感じたり、美しい風景に見とれるとかです。しかし花を見て美しいと感じても、どの花が一番美しいと感じるかは個人差が歴然とあります。満開の桜が最高と思う人もいれば、牡丹に勝るものはないと断言する人もいるでしょう、花束にそえられるカスミ草に限りない愛着を覚える人間もいると思います。それをどれが一番か国際的に決定するのはどこかで無理が生じます。

美の基準は民族によってもかわります。民族が置かれた環境、歴史、またそれによって育まれた文化により「最高の美」の概念は微妙にずれます。さらには同じ民族でも美の基準は時代により変わります。日本でも平安時代の美、鎌倉時代の美、安土桃山時代の美、江戸時代の美は日本人として共通の基盤を抱えながらも好まれる傾向は変化します。

五輪はワールドワイドの大会ですが、競技のほとんどは欧米発祥の種目です。芸術種目もそうで、美の基準は欧米人が感じる美が採点の根底にどうしてもなります。もちろん欧米人とひとくくりに出来ず、アメリカとヨーロッパでも違いがあります。かつてロス五輪の時に体操の鉄棒で金メダルを獲得した森末慎二が難度の高い三回宙返りより、伸身の2回宙返り(スワンダブル)の方が観客受け審判員受けが良いのを見て、決勝で作戦を変えた話は有名です。

体操も広い意味で芸術種目の傾向があり、過去にも採点で何度ももめた事がありましたが、一方で技術的向上が目覚しい種目で、たび重なる採点法の改正で技術重視の採点となり、まだ競技種目の体面を保っています。ところが純粋の芸術種目は意図的に技術開発を制限している側面があります。新体操なんてその典型で、もしこの種目に技術進歩を許したら、月面宙返りをしながらリボンを操ったり、連続宙返りをしながらボールやバトンをする選手が出現し、体操の床運動との境界が限りなく薄くなるからです。

技術開発が制限されると勝敗は芸術度になります。芸術度の差は最終的に好みになります。オペラと京劇とミュージカルでどれが一番優れているかを競うようなものです。社交ダンスと能で優劣を競うとも言えます。中華料理とフランス料理でどちらが美味しいかを決めると言い換えても良いかもしれません。

20世紀は欧米の時代であったと言えます。世界中に進出し、植民地を獲得し、欧米文化を世界基準としてひろげました。ところが20世紀も終わり21世紀になると欧米文化に押さえつけられていた各地の文化がしっかり自己主張するようになってきています。自信と実力を身につけた中国もそうですし、インドもこれから中国の後を追って伸びてくるでしょう。この二つの国をあわせると世界人口の1/3を上回りかねませんから、五輪での美の基準は欧米基準しかないという世界がどうなるかわかりません。

話にまとまりがなくなりましたが、美への評価が採点の鍵となり、勝者に名誉だけではなく巨大な富が与えられる現在の商業五輪での芸術種目は近い将来大紛争の種になり、種目から消滅するんじゃないかと懸念しています。個人的には冬季五輪でフィギュアスケートが見られなくなるのは寂しいのですが。