リンドウ先輩:女将さん

 合宿費用もロック研からの百万円はあったけど実は結構厳しかった。とにかく急だったもんで父兄からそんなに取れなかったのよね。実費全部取るなんて言ったら、払えないから行けないって言われてもしかたないもの。その辺は駿介監督もわかってて、ロック研の百万で出来るだけ補助しろって言われてた。そりゃ、突然決まって翌朝出発だもん。あれこれは言われたけど、なんとか二万は払ってもらうことにした。

 練習場は駿介監督の強い希望で球場を借りたんだけど、これも結構高くて父兄からの合宿費用が全部飛んで行っちゃった。交渉の余地はあったんだけど、これも翌日からじゃ、球場を押さえるだけでウチでも限界。ナイター設備もあったけど、そこまでは予算的に無理やった。

 宿もそうで公共の安いところがどうしても見つからなかったの。球場は他の運動施設も併設されていて合宿場もあったんだけど、どっかの大学のラグビー部とテニスサークルが先に使っていて割り込む余地は無し。ほんじゃ民宿はないかと探したんだけど、これも近くには無し。

 やっと見つけたところが朝・夕食付で一泊一万円、税・サ別。これでもその宿の最低レベルやってん。正直な話、貧乏野球部に贅沢というより普通に泊るにもかなり贅沢なクラスやねんけど、とにかく急場だったのと球場からの距離を考えると他に選択肢がなかったのよ。無いことはなかったけど、安くしようとすれば球場から遠すぎるのよね。野球部専用バスでもあれば良かったんやけど、そんなもの夢のまた夢やし。

 高すぎると思ったけど、合宿するのが目的やなく、合宿して練習するのが目的やからあきらめた。値段交渉も時間がなかったから殆ど出来へんかった。そいでもって予算やねんけど、ウチと監督も合宿に参加するからこれでざっと七十万。残り三十万弱ってところ。いや交通費が往復千円ぐらい必要やから二十八万切ってた。

 ただね、一泊一万円ではご飯の量が足りないの。そりゃ食べるもん。ここは追加にせざるを得ないんだけど、そりゃ猛烈に食べるのよね。朝からどんぶり飯だし、昼もモリモリ、オヤツだってあんだけの猛練習だから必要だし、他にもスポーツ飲料もガブガブ飲むのよね。

 追加メニューは後払いだけど、昼飯代とオヤツ代、スポーツ飲料で一人二千円ぐらい必要で、それだけで三万ぐらい飛んでっちゃうの。全部必要なのはわかっていても、GMのウチは一泊目から真っ青。思い余って一日目の夜に女将さんに相談したんだ。女将さんはキリリとしてちょっと怖そうな感じもしたけど、そんなこと言ってられないから、

    「質を落として量を増やしてくれないか」
 そうでもしないと到底払いきれないってところ。そしたら女将さんは事情を話してくれって言うのよ。もう必死になって話したんだ。それこそ三月までは部員が四人しかいないヘッポコ野球部だったこと。ようやく監督とメンバーをそろえられて、十一年ぶりに校歌を聞けたこと。今のエースは甲子園も狙える物凄いピッチャーだってこと。この合宿が県大会を勝ち抜くためにどれだけ重要かってこと。そして、とにかくカネがないこと。夜も遅かったけど女将さんは嫌がりもせずにウチの話をしっかり聞いてくれたんだ。そこに御主人もたまたま通りかかって二人でなにやら話をされて少し考えた後に、
    「明日の練習を見させてちょうだい」
 こう言ったのよ。クソ暑い中なんだけど、女将さんは嫌がりもせずに朝から二時ぐらいまで練習を興味深そうに付き合ってくれて、
    「いいこと思いついちゃった。わたしに任せて下さい」
 こう言ってくれて宿に先に帰られたんだけど、そこからが寿命の縮みそうになる驚きの連続が続くことになったの。メニューの内容がドカンとグレードアップしただけではなく、一泊目の上品な盛り付けじゃなくて『これでもか』かのテンコモリ状態。そのうえで、
    「ドンドン食べて下さいね。足りなければ、いくらでもありますから」
 一日目はみんな足りてなかったみたいで、そりゃ猛烈な勢いで食べる、食べる。それを見た女将さんは、ますます目を細めて、注文もしないのに次から次へと新たな料理を運び込ませてた。そんな手配をしながら、
    「食べなきゃ勝てないよ、この女将にまかせといて、遠慮せずにどんどん食べて」
 そしたらうちの連中は歓声をあげて、それこそいくらでも食べるんだよ。ウチの方は料金が心配で、心配でご飯が喉を通らなかったけど。

 それだけじゃないのよ、予算を少しでも節約するために大広間に雑魚寝状態だったの。監督はもちろんウチまで含めてね。さすがにウチのところだけは衝立で仕切ってもろとったけど。そしたら女将さんが、

    「いいこと思いついちゃった。部屋をちょっと変えますね」
 何を言い出すかと思っていたら、大広間に雑魚寝じゃ疲労を取るのに良くないって、勝手に二人部屋になってるし、監督とウチなんて一人部屋だよ。それも食事中に宿の人が荷物全部運んでくれて部屋割りも済ましちゃってるの。
    「高校生の女の子と男の子を一緒に雑魚寝なんか続けさせたら、この宿の恥、この女将の恥だからね」
 それはそうなんだけど、頭の中は料金が、料金がしか回ってなかった。三日目は朝食から魂消た。それこそ量もどっさり、質だってこれが朝食かと思うほどのものになってた。だって朝から肉のお代わりし放題のすき焼き付だよ。女将さんは練習への見送りに立ってくれたんだけど、
    「いいこと思いついちゃった。お昼もまかせてね」
 怖いぐらいだった。昼食も、オヤツも、宿特製のスポーツ飲料まで、宿のバンでどんどん運び込んでくれるのよ。それも量はテンコモリで文句なしのデラックス版。うちの連中は遠慮会釈なく食べまくるし、飲みまくるんだけど、女将さんがニコニコしながらうちの連中に聞くのよね、
    「今日の夕食はなんにしようかな、そうだ、いいこと思いついちゃった。みんな焼肉はお好き」
 そりゃ、うちの連中は大歓声だった。ウチはせめて『トンカツで我慢しろ』っと内心絶叫してたんだけど、女将さんは、これ以上はないぐらい嬉しそうな顔をして、
    「やっぱりそうよね。よっしゃ、まかしとき、飛び切りの焼肉を、みんなの腹がはち切れるまで食べさしてあげるから」
 もうウチは生きた心地もしなかった。それでも焼肉と言ってもピンキリだし、肉だって全部牛肉とは限らないとか色々考えてたの。野菜もあるし、豚肉や、鶏肉も織り交ぜれば、料金はまだなんとかなるかもって。そうそう、食べ放題焼肉の店ならビックリするほどしないはずだし。

 しかし出された焼肉は女将さんの言葉通り飛び切りだった。肉はどうみても一級どころか特級品だった。ウチは鮨屋だけど、前に親父が牛肉の刺身の握りを研究していた時があったから、ウチもある程度、肉の良し悪しがわかるんだけど、国産の飛び切り以外に考えられなかった。それをだよ、うちの連中はまるで大食い競争しているみたいに食べまくるのよ。まるで、回る寿司みたいに、食べ尽くした肉の皿が積みあがっていくのを茫然と見てた。そしたらね女将さんが、

    「いい食べっぷりだねぇ、ほれぼれするよ」
 なんて言うもんだから、食べる勢いがますます加速されて、ウチはもう死んでた。あれ一皿で一体いくらするかと思うともう空恐ろしくて、空恐ろしくて。完全に食欲のカケラもなくなっていたウチの隣に女将さんが座って、
    「リンドウさんだよね、気に入ったよ。なんの心配もしなくて良いから、さあ、食べて。全部わたしに任せて安心して。この宿にいる間ぐらいは、カネのことは心配させやしないから。リンドウさんも、もっと食べなきゃ元気でないわよ」
 夜食だってわざわざ聞いて回って出して来れるんだ。それもまだどれだけ食うんだってぐらい食べてやがるんだ。いくら勧められたからって夜食にうな丼食うなよな。それだけじゃないよ、駿介監督は酒好きなんだけど、さすがにこの予算で飲むわけにもいかず我慢してもらってたんだけど女将さんが
    「お酒はお嫌いですか?」
 ニコッと笑ってこう聞くのよね。駿介監督も嫌いじゃないから、
    「ちょっと予算が・・・」
 こう答えたんだけど、女将がウチの耳元で
    「いいこと思いついちゃった。監督は大事にしなきゃ」
 こう言って、なにをするんだろうって思ってたら、注文もしていないのにビール出してお酌までするんだよ。駿介監督はビールより日本酒が好きなもんだから、ついだと思うけど、
    「日本酒も飲みたいな」
 こう口を滑らした時には背中にビッショリ冷や汗かいちゃった。駿介監督は家業だから日本酒にはウルサイんだけど、その駿介監督が『これは、なかなか』っていうクラスなんだ。ウチも知ってるけど、そのクラスの日本酒がどれだけするかと思うと、それだけで心臓が締め付けられる気がしたもの。女将のお酌でグイグイ飲んでる駿介監督が憎たらしくて仕方がなかったぐらい。とにかく料金が心配で何度も女将さんに聞くんだけど
    「だいじょうぶよ、なんの心配もしないで。この程度の宿で申し訳ないけど、食事ぐらいはしっかり出してあげるから」
 これのどこが『この程度の宿』で『食事ぐらい』なのよ。四日目になるとうちの連中、完全に調子に乗っちゃって女将さんが悪戯っぽく、
    「今夜は何にしようかな?」
 こう言ったら、 なにがスペシャルよ。今までどんだけスペシャルだったのか『わかっとんのか!』って内心怒り心頭やってんけど女将さんは、朗らかな笑みを浮かべて、
    「今夜が最後だもんね。どうしようかな、そうだ、そうだ、いいこと思いついちゃった。みんな期待しといてね」
 うちの連中は『やったぁ』なんて能天気な歓声をあげてたけど。もうウチは女将さんの『いいこと思いついちゃった』には戦慄しか覚えんようになってもた。みんなはワクワク、ウチはなにが出てくるのかビクビクとしながら宿に戻ると、庭に提灯がいっぱいかかって、煙がモクモク上がってるのが見えたの。

 ムチャクチャ、嫌な予感がしていたらバーベキュー。それもちゃんと煉瓦でコンロ作って炭火で焼いてるやないの。炭だってタダの炭じゃなく備長炭だよ。そこで焼かれてるのは、どでかいリブロース。あれもどう見たって国産飛び切りのやし、そのまま骨付きでドカンと焼いて切り分けてるのよね。

 それだけでも唖然としそうだったけど、エビにしろ、貝にしろ、魚介類の質の高いこと、高いこと。鮨屋の娘だから、あの伊勢海老一匹でだいたい、いくらするかわかっちゃうのよ。あの立派過ぎるハマグリ一個でいくらと思うだけで足が震えるのが止めようがなかったもの。岩牡蠣だって、帆立だって、じゃかすか焼かれてる車エビもそう。女将さんに泣きそうになって聞いても、

    「ただの焼肉じゃ、あきちゃうでしょ。魚介類も入った方が楽しめるし、外でバーベキューやったら気分も変わって食欲もアップすると思ったの」
 そりゃ、料金さえ気にしなければ、こんな御馳走ならウチでもむさぼり食うし、現にうちの連中はウチが目を覆いそうになるほど、ひたすら食べてるよ。そりゃ、美味しいに決まってるけど、いったい誰が払うって言うのよ。お前らな、ちょっとは遠慮せえよ。何匹伊勢海老食べたら気が済むんだよ、岩牡蠣やハマグリの殻をタワーみたいに積み上げるなって。駿介監督までほろ酔い気分で、
    カオルちゃん、さすがやなぁ。ここまで豪勢な食事が出るとは思わんかった」
 出るわけないやろ。駿介監督も本職が酒屋なんだから、自分が飲んでる日本酒が一杯いくらぐらいするかわからへんのか。これもウチが悪いところもあるんやけど、あれだけ食事をみんなが心待ちにするぐらいに喜んでるし、それも励みの一つにして練習している部分もあると思ったから、駿介監督にも切り出せなかったのよ。うちの連中も同じようにお気楽なもんで、
    「さすがは天下無敵のリンドウさんだ」
 こうやって食い物の神というか、打ち出の小槌みたいに言われて、無理やりひきつった笑顔作ってた。女将さんはそんなウチを見て、
    「大船に乗った気持ちでいてね」
 こうやって、ひたすらニコニコしてくれるんだけど、最初に相談した時に残金二十五万足らずって言ったのを百二十五万と勘違いしているとしか思えないのよ。いや、そんなんじゃ足りるはずないやん。たとえ三百万あっても足りへんかもしれん。

 いくら大船に乗った気持ちといわれたって、ウチの頭の中をグルグル巡っていたのは、大船って大きな船だから豪華客船みたいなものになるやろし、こんな豪華客船で五日も大盤振舞でクルーズしたら、いったいナンボするんだってところなの。とにかく、予算には限界があるというか、手持ちの現金はなんだかんだで二十万切りそうやったのよね。どんなにサービスしてもらったとしても、足りるわけないやんか。こんなものウチの交渉術でもどうにもならへんよ。

 合宿も終了して精算のためにフロントに行ったら女将さんがいた。ウチは深呼吸して覚悟を決めて請求書を受け取ったんだ。頭の中にあったのは、どうやって払いを待ってもらうかと、待ってもらってる間に、どうしたらカネが集められるか。マジで福沢諭吉が集団でひたすらグルグルと頭の中を果てしなく回ってた。とくに集める方法については絶望的にしかならへんかった。

 目を開いて金額を見た瞬間にあまりの安さにヘタヘタと座り込んじゃった。ビタ一文追加料金がなかったんだよ。これじゃ宿からの持ち出しが、いくらかかってるか想像するだけで怖いぐらい。もう一体全体、何が起こっているかわかんなかったの。そしたらね、女将さんがヘタリ込んで動けなくなったウチを助け起しながら、

    「実はね、わたしも明文館野球部で女子マネやってたの。あの頃も弱くて、三年間で一回しか勝てなかったし、練習だって、ここでやってる量と質に較べたらママゴトみたいなものだったわ。だから、あの練習を見てマネージャー魂が燃えちゃってね」
 道理で練習見ていてあんなに野球に詳しかったんだ、
    「それとね、旦那も高校球児だったの。あなた方の練習見て、わたしより感動しちゃって大変だったの。自分の時もあれの三分の一でも練習してたら、勝てたかもしれないのにって」
 そういえば宿の御主人も初日から練習見にきてたもんね。二日目からも昼食運び込んだ後に連日熱心に練習見てたもん。昼食を運び込んで、オヤツが来た時にバンで帰るみたいな感じだったかな。御主人も野球を知ってる人だから、あの練習がどんだけのものかわかってくれたんだ。
    「それにさ、監督さんに聞いたら、今のチームはリンドウさんが一人で作り上げたようなものじゃない。こんな優秀な後輩がいてくれてホントに嬉しいわ。わたしなんかマネージャーとして足元にも及ばないもの」
 そしてウチの手をギュッと握りしめて、
    「わたしが元マネージャーとして出来るのはここまで。後はリンドウさん、あなたに任せたわよ。あなたがいれば必ず勝って甲子園に行ける。こんな楽しい仕事をさせてくれて感謝してるわ」
 ウチは女将さんに抱き付いて胸の中でひたすら泣いてた。他になにが出来るっていうの、もう泣いて泣いて、泣きじゃくってた。
    「御恩は一生忘れません。必ずウチが甲子園に連れて行きます」
    「じゃ、まかせたわよ。それにしても甲子園っていい響きの言葉よねぇ」
 これだけの応援もらったんだ。これで勝てないことなんてないはずよ。いや勝たないといけないの。あの女将さんや御主人、宿のみなさんのためにも。それにしてもこんな感動的な合宿になるなんて夢にも思わなかった。ただ一つだけだけ心配なのは、あんだけ猛練習して明日の試合大丈夫かな。いや、あんだけ食べまくったんだから、負けたらウチが承知せえへんからな。石にかじりついても勝って来い。そして甲子園に行くんだ。