第2部桶狭間編:あとがきじゃなくて補足みたいなもの

5/19午前中が満潮だったのは信長公記の記述からわかりますが、具体的にはどうだったのかを海上保安庁潮汐計算から見てみます。

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とりあえず1560年6月11日が旧暦の永禄3年5月18日で6月12日が5月19日になります。この潮汐表で仮定しなくてはならないのは、潮位がどれほどなら大高鳴海間の通行が遮断されるかです。これについてはデータも参考資料もないのですが、おそらく100〜150cmの間ぐらいで通行の可否が決まりそうな気がします。一応これを前提として考えると、

  • 5/18の10:30ぐらいから通行可能になり、17:30ぐらいに通れなくなった
  • 5/19は11:30ぐらいから通行可能になり、17:30ぐらいに通れなくなった
信長の熱田から善照寺砦への移動の辰の刻(7時)ですから満潮時に当たっており、上の道を通る必要があったのに符合します。おおよそこんな感じ

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辰の刻に熱田を出発した信長が善照寺砦に到着したのは9時から10時の間ぐらいと推測していますが、ここから信長は午の刻まで動きません。清州からの移動ですから決戦に備えて休憩の意味もあったでしょうが、もし大高城別動隊攻撃の意図があったのなら潮が引くのを待っていた可能性があります。それと義元の着陣が確認されたのが信長公記では午の刻ですが、今川軍が突然現れて「あっ」と言う間に布陣したとは考えられず、信長が善照寺砦に到着した頃には既に前衛部隊が見え始めていたとも考えられます。信長は桶狭間道に現れた今川軍の動向を善照寺砦で窺っていたのかもしれません。

もう一つ中島砦での信長の檄ですが

あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。

この檄の後に中島砦を出陣しますが、午の刻は回ってますから大高鳴海間の交通が可能になっている時期です。「あの武者」とは今川軍の大高城別動隊しか考えられませんが、道は通れるようになっているが「つかれたる武者」なのでやって来ない、もしくはやって来ても物の役には立たないと自軍を鼓舞していると解釈できます。これは大雑把な推測ですが

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ついでですから桶狭間の勝利後の信長の帰路ですが、

もと御出での道を御帰陣侯なり

おけはざま山の義元本陣を追い崩したのが未の刻(14時半)ぐらいと信長公記ではなっていますが、およそ2時間の戦闘時間があったとして16時半、そこから軍勢をまとめて清州に向かったのが17時頃とすると、古鳴海あたりは18時から19時ぐらいとも考えられ、また満潮に近づきます。その頃には下の道も中の道も使えなくなっていたたので、「御出での道」すなわち上の道を通って清州に戻ったと見ることができます。

これは本編では説明が煩雑になるので省略しましたが、信長公記の記録と潮の干満はかなり符合すると見ることは出来そうです。