第1部一の谷編:マルガリータと三草山比定

そうそう毎週飲みに行ける訳じゃないのでちょっと日が開きましたが、またもや例のバー。でも今までとはちょっと違います。彼女が誰だかわかってしまったからです。まだ彼女は来ていないのですがやたらと喉が渇きます。

    「マスター、ジン・フィズ作ってくれる」
ジン・フィズはジンにフレッシュレモンジュースと砂糖を入れてシェークし、炭酸水で割ってステアするカクテルです。爽快なカクテルなんですが、一八八八年にアメリカ南部ニューオリンズの人気サロン「インペリアル・キャビネット・サロン」のオーナー、ヘンリー・ラモス氏が作ったといわれています。
    「今日も彼女は来られるのですか?」
    「もうちょっとしたら」
    「お綺麗な方ですね。応援してますよ」
マスターは私の彼女いない歴を良く知っています。だからの言葉なのですが、今日ばっかりは『彼女』と言われただけで心臓のドキドキが止まりません。
    「カランカラン」
カウベルが鳴って彼女が登場。
    「はぁ〜い、待った」
あかん、声聞いただけで死にそうです。手には汗がびっしょり。隣に座っているのが天使のコトリちゃんだと思うだけで緊張がどんどん高まります。
    「どうしたん、顔真っ赤やで、そんな飲んどったん。それとも熱でもあるん」
飲んだのはジン・フィズだけで熱もないはずです。いや、熱はあるかもしれん。ここで迷ったのはコトリちゃんと呼んでもエエか悪いかです。とにかく遠い女性だったので高校時代にもそんな呼び方をしたことがありません。残っていたジン・フィズをぐっと飲み干して、
    「コ.コ、コ、コトリちゃん」
あかん噛んでもた。
    「なつかしいわぁ、その呼び名覚えてくれてたんや」
    「うん、実は・・・」
舞い上がってる頭は会話を余計な方向に暴走させちゃいました。
    「信じられへん、誰かわからんへんかったん。私なんかちゃんと覚えてたのに。でも思い出してくれてありがとう」
さすが天使のコトリちゃんだ、怒りもせずにアッサリ流してくれて助かりました。
    「さっき、なつかしいって言ってたけど」
    「コトリと呼ばれてたの高校までやってん。大学からは『ちえ』か『ちいちゃん』」
    「そうなんだ。ところでなんでコトリちゃんやったん」
    「それはねぇ・・・」
初めて聞く話でしたが、どうも小学校の時の担任が冗談か本気か不明ですが『小島(コジマ)』を『小鳥(コトリ)』と呼び間違えたそうです。それで一部にコトリちゃんと呼ぶ者がいたそうですが、高校一年の時にたまたまクラスに『ちえ』が三人いました。この三人はすぐに友達になったのですが、お互い『ちえ』なのでどうにも呼びにくくて、彼女はコトリちゃんになってしまったそうです。
    「そんな事があったんだ」
    「今度は忘れんといてね、私のこと」
    「じゃ、今はコトリちゃんと呼ばない方がエエかな」
    「ううん、コトリって呼んでくれたら嬉しい」
そこにマスターが現れ
    「楽しそうですね、今日はなににしますか」
    マルガリータお願い」
マルガリータテキーラにホワイト・キュラソー、ライムジュースを加えシェイクします。特徴的なのはフローズンスタイルである事で、グラスの縁に塩が付くスノースタイルになっています。このカクテルはロサンゼルスのレストラン「テール・オ・コック」のバーテンダー、ジャン・デュレッサー氏が創作したものですが、ちょっと悲しいエピソードに彩られています。マルガリータは、彼の若き日の恋人の名前で、二人でハンティングに行った時に彼女は流れ弾にあたって亡くなってしまい、その彼女を偲んで作られたカクテルといわれてます。私の度忘れで危うくコトリちゃんに嫌われそうになっていたので、マルガリータのエピソードはちょっと心が痛みました。
    「それにしても綺麗になったね」
    「そんなことないよ」
    「綺麗になり過ぎて思い出せへんかったんだ」
    「嘘ばっかり」
この言葉は三分の一がお世辞で三分の二が本気です。高校時代も彼女は素敵でしたが、あの頃は若さの耀きだった気がします。今は大人の女性としての魅力に溢れているぐらいでしょうか。別人は言いすぎでしょうが、より眩しくなったぐらいでも言い過ぎとは思えません。眩しいといえばバーの酒棚の一角にグラスを並べてライトアップされている一角があります。そこに並んでいるのはすべてバカラ。もちろん飾りじゃなくて使われるのですが、コトリちゃんもバカラのグラスはお気に入りです。とくにローハンとかパルムみたいな細かい模様が施されたのがお気に入りのようで、そんなグラスでカクテルが出された時には目を細めて喜びます。気のせいかマスターもコトリちゃんには、そんなグラスを使う事が多い気がします。テキーラはメキシコ原産で竜舌蘭から作られるスピリッツですが、現地の人が飲むときには手の甲に塩を載せ、それを舐めながらテキーラをグイッと飲み干すと聞いたことがあります。なんか日本酒を盛り塩で飲むのに似ています。ソルティ・ドッグもスノースタイルですが、ウォッカとグレープフルーツ・ジュースをステアしたものです。神戸でソルティ・ドッグで非常に有名な店がかつてあり、その店では入店すると、何も言わずにソルティ・ドッグが出て来たそうです。一度行きたかったのですが、閉店になってしまい残念です。実は彼女は行ったことがあるそうで、羨ましいと思うと同時に誰と行ったんだの疑問、いや正直に白状すれば嫉妬です。バーに女性が独りで飲みに来られることはありますが、やはり確率的には誰かと一緒の事が多いし、誰かの場合男性が多くて男性ならば彼氏。

そこまでグルグル頭が回りましたが、仕事の上司に連れられてはあるわけで・・・上司とまさか不倫。いやいや天使のコトリちゃんに限って絶対にありえないぐらいで妄想はやめました。とにもかくにも彼女がコトリちゃんと判明したのでホッとしたと同時に新たな疑問が膨らんでいます。そりゃコトリちゃんと一緒にいる時間を過ごせるのは嬉しいですが、なぜに私なんだの疑問です。

    「・・・でさぁ、前の続きやったら三草山合戦かな。三草山ってどこにあるの」
    「ヒントは延慶本にあるよ。

    1. 丹波と播磨の境なる三草の山の東の山口、おのはらに陣をぞ取ったりける。
    2. 三草の山は山中三里なり
    3. 平家これを聞て、三草山の西の山口を
    4. 東の山口には九郎義経、土肥次郎実平を大将軍として、一万余騎にて控えへた

    まず義経がいたのが『おのはら』ってわかるよね。」

    「うんうん」

    「でもって三草山を挟んで、東の山口に源氏、西の山口に平家がいて、その間は三里ってなってるよね」

    「うんうん」

    「その三草山って丹波と播磨の国境ってなってるよね。」

    「うんうん」

    「つまりはこの条件を満たすところが三草山って事になるんや」

    「そんなとこが上手い具合にあるの?」

    「この地図を見て欲しいんやけど、


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    これは篠山市今田町上小野原、下小野原の地名が今でもある。この小野原から東に向かっている道路が国道三七二号線やけど、小野原から峠になっていて峠を越えると播磨。そやから、ここしかあり得へんと思う」

    「てか、立杭焼の近くやん」

    「体験学習ってやったことある?」

    「やったやった、小学校のとき」

    「上手にできた」

    「あかんかった」

    立杭焼は置いといて、国道三七二号線は篠山に通じてるんやけど、篠山には京都からの山陰道が走ってる。これも延慶本やけど

    • その日の戌の時ばかりに駆せ着きたり
    • 二日路を一日にぞうちたりける

    京都からの源氏軍の出陣は一月二九日に終えてるんやけど、範頼と義経の出陣はさらに遅くて、

    大手の大将軍蒲冠者範頼は、四日の日京を立ちて、津の国播磨路より一の谷へ向かふ。

    大手の範頼は二月四日に京都を出陣し、同じ日に義経も出陣となってる。」

    「軍勢は1月二九日には京都を出発したのに遅いわね」

    「たぶん手続きやろな。」

    「手続き?」

    「寿永二年一〇月の宣旨で頼朝は賊軍でなくなってるんやけど、まだ正式の官軍になってないぐらいかな。実態的には官軍なんだが、公式な手続を経た上の官軍になるのに二月四日までかかったぐらいは十分考えられるし、朝廷なんて役所やから、その手の手続きにやたらと時間がかかるし。」

    「だから範頼、義経の出陣は二月四日になったんだ」

    「うん。範頼は昆陽野に集結していた大手軍に向かい、義経は小野原に集結していた搦手軍に向かったってことでしょ。ここで範頼の昆陽野到着は吾妻鏡に二月五日酉の刻に到着したなってるんやけど・・・」

三草山の比定で煩雑なのはこの丹波播磨国境の近くに『山』としての三草山があることです。現地に行くと源平の古戦場跡にされていますが、この山も騎馬で登れるような山ではありません。ましてや夜に明かりも付けずにひっそり夜襲なんて不可能です。合戦場としての三草山は丹波播磨国境の峠で延慶本の描写はピッタリ合うので、三草山合戦の『三草山』はこの峠でOKになります。それと三草山の平家陣地は玉葉では丹波城と表現されており、播磨から丹波に向かう平家側の拠点ぐらいに解釈可能です。では山としての三草山はどうなんだになりますが、たまたま三草峠と三草山が近くにあった可能性もありますが、ヒョットしたら後世になって三草山合戦に因んで近くの山を三草山と呼んだのではないかとも考えています。
    「ゴメン、話の腰を折って悪いけど、酉の刻って何時?」
    「時刻はこれからポイントの一つになるから説明しとくわ。吾妻鏡が十二辰刻四十八刻法みたいやからそれで説明するね。とりあえずこれ見て

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    十二辰刻とは十二支で一日を十二分したもの、四十八刻とは一辰刻を四等分したものやねん。ほいでもって青の点線の二の刻が正刻になるんや」
    「なるほど! 赤の点線が一の刻と三の刻なんやね。正午って牛の正刻やから正午って言うんやね」
    「現在の時計と若干読み方が違うのは注意しといたらエエよ。現在も正午は十二時やねんけど、十二時は十二時零分から十二時五九分までやん。十二辰刻では十一時から十三時までが午の刻になるねん」
    「正刻の前後一時間が一辰刻ってことやね。でも当時は不定時法やん」
    「うん。不定時法では

    1. 子の刻を零時、午の刻を十二時で固定
    2. 日の出を卯の刻、日の入を酉の刻として移動
    3. 日の出から午の刻、午の刻から日の入、日の入から子の刻、子の刻から日の出までの間をそれぞれ三等分


    こうするんや。ほいでもってラッキーな事に二月七日の日の出はほぼ六時、日の入は一八時やから、一辰刻は二時間で、一刻は三〇分になるねん」

    「そりゃラッキーやけど、昼間は太陽の傾きで時刻を見れるにしても夜はどうしたの?」

    「酉の二刻が日の入やけど、日の入してもすぐに真っ暗になるわけちゃうねん」

    「うんうん」

    「当時の夜の時刻の読み方やけど、


    1. 日の入から星が見えない間は酉の刻
    2. 星が見えだしたら戌の刻
    3. 太陽の輝きが完全になくなったら亥の刻
    4. 東の空が白みだしたら寅の刻
    5. 星が消えたら卯の刻


    こうしてたんや」

    「ほんじゃ、亥の刻から丑の刻は」

    「なんにも目印がないからだいたいやと思う」
時刻の話をしているうちにお開きの時間になってしまいました。彼女を改札で見送った後、どうも飲み足りない気がしてバーに逆戻り、
    「マスター、もうちょっと飲みたい」
    「どうぞ、どうぞ」
選んだのはワイルド・ターキー15年、もちろんロックで。
    「今日一緒やった彼女やけど、前から来てたん」
    「ええ、何回か」
    「独りで?」
    「いやお連れ様と御一緒でしたよ」
    「男?」
    「はい」
だよなあ。あれだけの素敵な人ですから、彼氏がいない方が不思議です。天使も男に恋をするのだと当たり前の事実に納得していましたが、酔った頭に浮かんできた疑問が、その男性が彼氏だったら私と飲むのは妙だってところです。そうならば、一緒にいた男も私と同様に単なる『お友達』の可能性もあるわけです。なにか無理やり希望的観測を捻くり出したのですが、本当のところはどうなのだろう。完全に彼女に恋をしているのですが、いかんせん自分に自信というのがまったくありません。醜男までは卑下しませんが、どう自分で頑張って評価しても並み以下。性格も地味。つまりはコトリちゃんと釣り合っていないとしか言いようがないのです。

そこでふと思い出したのが、マスターが私に『応援してます』と言ったこと。マスターは、彼女が前に男連れで飲みに来ていたことを知った上で話したことになるからです。そういえば、最初に会った日もマスターと何やら話していましたから何かありそう。マスターにもうちょっとその辺のことを聞きたかったのですが、店が立て込んできて聞けませんでした。あれだけ素敵と言うか、あの天使のコトリちゃんですからライバルが多くて不思議ありませんが、問題は私がライバルの中に入っているかどうかです。この点については女性に関して『国際安全牌』とまで言われた自分に自信がまったく持てません。