明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)からの周辺ムックです。
頼弘の系譜としては
- 奉仕将軍義政義尚義稙三代公列外様衆八家之内也
- 応仁文明乱土岐右大夫成頼倶与力山名左右衛門佐持豊入道宗全戦細川勝元然是覚近于犯上而帰国以全其嗣云々
年代的に義政から義稙の時代に生きていた人であるのは確認できますし、土岐成頼が西軍に属して応仁の乱で京都に出陣したのも史実です。ここで気になるのが、
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然是覚近于犯上而帰国以全其嗣
- 頼典は応仁2年(1468)生
- 頼定は文明2年(1470)生
6月3日に細川勝元が要請を行うと、足利義政は将軍の牙旗を足利義視が率いる東軍に下し、東軍は官軍の体裁を整えた。足利義視率いる官軍は総攻撃を開始し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに義政の降伏勧告により斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもった。東軍は斯波義廉館も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。六角高頼、土岐成頼、さらに、斯波義廉(管領)は投降しようとしたが、東軍に対し激しく抗戦する重臣の朝倉孝景の首を持ってくるよういわれて投降を断念した。
応仁元年の話ですが、東軍に義政が参加したため官軍の体裁となり、義政からの降伏勧告も出て西軍が大いに動揺したとあります。頼弘は誇らしげに将軍家の外様衆であると書いてあるので、宗全と勝元の争いなら加担できても、義政に対しては弓を引くことが出来ずに帰国したって意味じゃないかと見れそうです。
守護の土岐成頼が京都に出陣した後に美濃を守っていたのが斎藤妙椿になります。美濃でも応仁の乱の影響は大きくwikipediaより、
応仁の乱では成頼と共に山名宗全の西軍に属し、上洛中の成頼に代わり、東軍に属した富島氏・長江氏及び近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、応仁2年(1468年)10月までにこれを駆逐し美濃国内を平定した。その一方で多くの荘園を押領して主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。
文明元年(1469年)夏には近江国内へ進攻して西軍の六角高頼を援護するため、敵対する東軍の京極政経と守護代多賀高忠軍を文明3年(1471年)2月、文明4年(1472年)9月の2度に渡って撃破する。
文明5年(1473年)10月には長野氏を援護するため伊勢へ出兵、東軍の梅戸城を落城させ、さらに文明6年(1474年)6月、越前に赴いて朝倉孝景、甲斐敏光の両者を調定の末に和解させた。この頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、妙椿の反対に遭い実現できなかったという。
美濃でも東軍派と西軍派の争いがあったようで、西軍に属した妙椿は美濃の東軍派を撃破しただけでなく、近江・伊勢・越前まで出兵しています。さらに
妙椿は富島氏・長江氏を破った上、東軍が幕府と朝廷を擁している以上敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し国内を固めた。
東軍には義政が付いたのは上述しましたが、奉公衆は将軍の私兵みたいな性格があるので奉公衆の所領も押領したとなっています。ここで外様衆の明智頼弘はどういう立場であったのだろうかです。可能性としては、
明智頼弘の系譜として気になるのは、土岐成頼と京都に行ったとは書いてありますが、その後について、たとえば妙椿とともに転戦した云々は書かれていません。その点を頭に置いてwikipediaの妙椿の記事です。斎藤妙椿は守護でも守護代でもありませんが、それらを凌ぐ大実力者であったのは史実です。そんな妙椿が隠退の地に他人の領地を選ぶとは到底思えません。また妙椿は経歴を見ただけで敵も多そうな人物ですから、隠退後の安全も十分に配慮しているはずです。そうなると可児郡明智庄は斎藤妙椿の領地になっていたと判断せざるを得ません。外様衆であった頼弘も可児郡明智庄を押領されてしまった事になります。
とりあえず美濃斎藤氏の系図です。
斎藤家は祐具の時代から勢力を広げ、宗円の時に守護代になります。以後、利永、利藤と世襲され守護代家と呼ばれるようになります。妙椿は利藤の後見として権勢を揮い、持是院家と呼ばれ守護代家さえしのいでいたぐらいで良さそうです。さて妙椿は妙純を養子としますが、妙椿の死後に守護代の利藤と争いが起こります。この争いに妙純は勝つのですが、その後の近江遠征の時に妙純とその子の利親ともども戦死してしまいます。
結局のところ斎藤氏は守護代家も、持是院家も衰えてしまうのですが、その後の事態を収拾したのが利安だったみたいです。利安も利永の息子で妙純の兄弟になりますが、妙純と利藤が争った時には妙純に味方し、妙純と利親が戦死した時には利親の息子の利良の後見みたいな役割を果たしていたと書かれています。ここで困るのが事態を収拾したと見られる利安が存在はしたのは確実そうですが、経歴が判然としない人物になります。これはwikipediaからですが、
『美濃明細記』(斎藤系の項)によると長井長弘と同一人物とされ、美濃池田郡白樫城から本巣郡文殊城に移り崇福寺 (岐阜市)を建立する。更に稲葉山山麓の長井洞に移り、家臣筋の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)に殺害されたとされる。法名は崇福寺桂岳宗昌。墓所は崇福寺。
長井長弘は享禄2年(1530)ないし天文2年(1533)の死亡となっていますから、年代的に不合理はありません。同一人物かどうかは疑問が残るとしても、同時代人であったとしても良さそうです。このエピソードを引用したのは利安の時代に既に先代道三(長井新左衛門尉)の影が見えたのが興味深かったからです。
斎藤氏の系図も諸説・異説があって困るのですが、利安の次の利賢が利安の子である説と利胤の子である説の2つがあるようです。利胤って誰だになるのですが、出どころはなんとなく宮城系図の気もしますが、利安の子どもも判然としないところがあり、養子として迎えられたとか改名があったのかもしれません。ここからが注目なんですが、利賢は明智氏と婚姻関係を結びます。
どこかで見たようなクロス縁組です。光安の婚姻は宮城系図には「大永年中」とボカした書き方になっていて困るのですが、大永年間は1521〜1528年で光安が21〜28歳の時になります。もっと困るのは明智光継の娘で、宮城系図には斎藤利賢(もしくは利胤)に嫁いだとは書かれている者がいません。それだけでなく光継の娘は、-
長女:進士信周の前室
次女:進士信周の後室
三女:小見の方
四女:堀田道空の室
五女:隠岐内膳正惟の室
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天文3年(1534)
この時代の婚姻は政略要素が必ず付いて回りますが、平たく言えば友好の証みたいなものにもなります。ここで気になるのは、
この辺は正室の子であるかどうかの差引勘定が加わって来たりもしますが、利賢の後室になった光継の娘も光継の年齢からして側室の可能性が高そうなところです。当時の利賢の美濃での地位とか、権勢はわかりませんが、利賢にとって不利なクロス婚姻に見えます。そりゃ嫡子と次子では価値が段違いだからです。ここで宮城系図の光綱の系譜を見てもらいます。明応六年丁巳八月十七日生 童名千代寿丸 母進士美濃守光信女也 蓋光信頼弘妹聟也 先室武田大善大夫源信時女也 其室没後再迎進士長江加賀右衛門尉信連女以為当室 其名曰美佐保方 但信連光信子也 光綱受継家督 住明智城 領一万五千貫相当今七万五千石 光綱生得多病而日頃身心不健也 因不設家督之一子 故蒙父宗善之命 養甥光秀以為家督 光秀光綱之妹聟進士勘解由左右門尉信周之次男也
天文4年乙未八月五日於明智城卒去 年三十九歳
これも異様な系譜でして、光綱については病弱で子が出来なかったしか事実上書いてないのはまあ良いとしても、他は光秀の血筋の説明にほぼ費やされています。ここは前回も解説しましたが、光綱には弟がゴッソリおり、別に光綱の妹婿の子を養子にして家督をわざわざ継がせる必要性はゼロです。ここはゼロのところをゼロでないと言うか「当然そうなる」と思わせるための作文にしか思えません。よくよく考えてみると光綱はいなくとも家系図に問題は起こりません。そりゃ父が生きている間に死に、子もいない訳だからです。ここはさらに飛躍させて良いかと思います。
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光綱はそもそも存在しない人物であった!
少し話を戻しますが、頼弘は応仁の乱の影響で可児郡明智庄を失っています。これは文明12年(1480年)までは確実です。どうやって取り戻したかについては、まったく記録がないのですが、そもそも取り返す事が出来たんだろうかの疑念があります。美濃は斎藤妙椿の死後に妙純と利藤の争いに土岐本家の家督相続問題まで絡んで混乱しますが、それに乗じてと考えるのは一つです。もう一つは将軍家外様衆の立場を活かして、京都の将軍家を動かしたと見るのもありかもしれません。どうやったかは不明ですが、晩年になって可児郡明智庄を取り戻した気配だけはあります。宮城系図の頼弘のところに
明応四年乙卯三月 頼弘子息兵庫頭頼典同兵部少輔頼定兄弟依 所領配分之事互令諍論各不服
要するに兄弟で所領争いが起こり大変だっと記しています。余程大変だったようで将軍義澄の仲裁のための御教書まで出されたとしています。ここもよくよく考えてみると妙なお話です。当時の相続性はほぼ惣領の総取りです。これは鎌倉期の分家相続の反省に立ったものぐらいで良いかと思います。逆に言えば相続前の子どもは下手すりゃ部屋住みって事です。少なくとも父が家督を握っている間に息子に与えられる所領はあっても少ないだろうってところです。そんな所領を争って喧嘩になったとしても、これを家長である頼弘が抑えきれず、さらに将軍家まで出てくるのは不可解すぎるってところです。
頼弘が弟の頼定を溺愛してのパターンも考えられなくもありませんが、斎藤妙椿に奪われた明智庄奪還に頑張っていたはずの頼弘にそんな余裕が果たしてあっただろうかってところです。なにも情報が無いので推測をたくさん置きますが、まずまず明智氏の領地ですが宮城系図には、
- 明智頼兼が1万5000貫領有したとある
- 頼典(光継)が1万貫領有したとある
- 光綱が1万5000貫領有したとある
長幼の順は作図の都合で変えていますが、道三は明智の名の付く者に明智庄を支配させるだけに御教書の内容を変えてしまったぐらいです。具体的には
この名跡を与えるないしは得る手法は道三のよくやった政治技法です。美濃の権勢者の道三の指示に抗う事も出来ず頼弘はこの屈辱的な条件を受け入れたと見ます。つまりは、- 「頼典 = 光継」である
- 頼典は頼弘の子ではなく、猶子になった山岸光継である
- 頼弘の嫡子の頼定は父がなんとか残した5000貫の当主となった
明智氏はこの時点で土岐明智氏と山岸明智氏に分裂しますが、土岐明智氏は5000貫の領地を守る事も困難になったようです。宝賀寿男氏の研究では明智本宗の最後の当主を頼定とし、頼明や定明の時代はそうでなかったとしていますが、これを裏付けるように光綱の系譜には
住明智城 領一万五千貫相当今七万五千石
光綱は存在しないので、これは光継時代に土岐明智氏の5000貫も併呑してしまったと見て良さそうな気がします。だから頼明の子の名前は定明なのかもしれません。
明智系図に改竄と言うか改変があるのは宝賀寿男氏も認めています。つうか家系図ってものがしょせん「そんなもんだ!」って明快に断言されています。家系図学とはその中から歴史の真実を読み取るものだってところでしょうか。ほいでもって宮城系図には2つの大きな改変点があると私は思います。
1.については割とシンプルで行われのは、- 頼弘が斎藤妙椿に所領を押領された事実を伏せる
- 光継(頼典)を頼定の実兄にする
- 頼定の孫の定明から徳川家に仕えさせてしまう
2.についての作業は非常に複雑なものになっています。そもそも光秀は母が光継の娘であるだけの山岸の人間だからで、叔父の当主であった光安には子もあり光秀が養子として家督相続候補者として乗り込む余地は皆無です。ここもシンプルに病弱であろうが、若死にしようが光綱の忘れ形見であるとすれば良さそうなものですが、なぜかそういう手法を取っていません。あえて考えれば存在しない光綱の子であるとするロジックに無理を感じたのかもしれません。そこで行ったのは山岸氏と明智氏の濃厚な姻戚関係作りです。意図としては山岸氏と明智氏は一族同様の血の濃さであるとのアピールでしょうか。これでもかの近親婚を三代にわたって展開させます。この近親婚のヒントは斎藤氏とのクロス縁組だと思われます。
次に光綱の創作です。他家から養子になって家督を継ぐには、とにもかくにも当主が後継者を残さず死んでくれないと始まりません。ここも無理な工夫だと思うのですが、
- 光綱が後継者を残さずに死にそうだ
- 光継が当主の光綱の後継者に光秀を養子として迎えると決断
ここも強いて考えれば光安の存在があっても嫡子として養子に迎えられるぐらい優秀であったのアピールかもしれませんが、家系図なんて本にして売るものでもありませんから、なんのためにここまで捻ったのかの意図は不明としか言いようがありません。なんか困るような伝承が残っていたんでしょうかねぇ。
ただ宮城系図をムックしたことで光秀の謎の一端だけ解けた気はしています。光秀は織田家で出世した時に、その軍団には美濃出身者が多くいます。当然と言えば当然なんですが、あれってこうやって見れば土岐明智氏の一族が集まったのではなく、山岸氏の一族が集まったと見た方が良さそうな気がします。そうであれば説明できる点は多々ある気がします。光秀が明智の血も引く山岸氏の人間であることは山岸一族なら自明のことですから、明智と名乗っても誰も気にならず出自の詮索なんて事もされなかたってところです。