明智光秀ムック10

光秀出自と明智家の家系について宝賀寿男氏の明智光秀の出自と系譜 −「宮城系図」等の検討を通じてみる−をもう一度ご紹介します。宝賀氏は歴史研究家ですが、歴史研究の中でも家系図を重視して研究されているぐらいに理解してもらったら良さそうです。


宝賀氏による明智系図の推測

考察についてはリンク先を御参照いただくとして,。

青地が美濃守護で赤字が宝賀氏が比定した明智家当主です。まず土岐頼貞は建武の新政で功績があり美濃守護に任じられ、美濃土岐の実質的初代みたいな人物と思えば宜しいかと思います。明智系図では遠祖を土岐頼貞の九男(九郎)とされる長山頼基(長山遠江守として太平記に登場)に置いており、長山姓の起こりは可児郡明智庄「長山」に在所を持っていたぐらいと推測しています。土岐頼貞の孫の土岐頼康も美濃守護になるのですが、頼康の弟の次郎頼兼が文献上(太平記)での明智姓の初出とされます。明智姓の起こりは可児郡明智」庄長山に在所を有していたためと推測しています。


頼基と頼兼

長幼の順からして頼基による長山氏がまずあって、後から頼兼の明智氏が出来たはずですが、宝賀氏の研究でも「頼兼 = 頼重」と見なさざるを得ないとしています。傍証として宮城系図での頼重の正室の出自について、

室ハ山県郡伊志良住人長山遠江守源頼基女也

頼重が頼基の娘を正室にしているのなら実子で無いことになります。それと宝賀氏はこれ以上は触れていませんが、頼基は山県郡伊志良の住人となっており可児郡明智庄に住んでいません。そうなると考えられそうなのは、

  1. 頼基は当初可児郡明智庄長山に住んでいたので長山姓を名乗った
  2. 太平記の時代ですから手柄か何かで山県郡伊志良に引っ越しした
  3. 頼基に代わって頼兼が明智庄住人となり明智姓を名乗った
  4. 頼兼は頼基の娘を正室にし、頼重と名を変えた
ここら辺まではあり得そうなお話なのですが、この後にわかっている事は、
  1. 明智氏は長山頼基を家祖に置いている
  2. 頼基の長山姓は受け継がれていない
宝賀氏は頼兼が頼基の猶子女婿となったと推測していますし、それも説得力はあるのですが、太平記での頼兼の活躍(記載量)から考えると何故に猶子女婿にならにゃならんのかってところがあります。とにかく情報は限られていますから、大局的には頼兼が長山の家を吸収してしまったぐらいしか言いようがありません。それも頼基の顔を立てながらです。

それとなんですが、宝賀氏の研究では頼基の家系も姓を明智に変えて続いています。頼基にも子はおり、頼隆・頼助は確認できるようですが、頼兼が明智を継いでからどうなったかははっきりしないようです。宝賀氏は明智氏尾張の地所で行動したんじゃないかと推測していますが、残念ながら裏付ける資料もないようです。資料はないのですが頼助の家系は美濃に残ったとし、この家系の末に光秀が位置づけられるとしています。光秀が嫡流でないとの仮説はここまで積み上げてきたムックの一つの結論ですから、これを宝賀氏の研究は裏付けてくれているぐらいに思います。


菅沼藤蔵

簡便にwikipediaより、

天文21年(1552年)6月に、父定明が惣領家の美濃守護土岐頼芸斎藤道三の間の内紛に巻き込まれて殺害された[1]ため、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延びる。やがて、近隣の奥平貞勝への母の再嫁により離別させられて、母の弟・菅沼定仙の養嗣子とされた。そのため、菅沼藤蔵として生涯の大半を過ごす事となる。永禄7年(1564年)に徳川家康に招聘されてその家臣となり、永禄8年(1565年)の初陣を皮切りにして姉川の戦いをはじめ、徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、家康から武勇に優れた武将として賞賛された。それらの功績から天正10年(1582年)、甲斐巨摩郡切石に1万石を与えられて大名となる。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い天正18年(1590年)の小田原征伐でも軍功を挙げたため、征伐後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に1万石を与えられた。豊臣秀吉からもその武勇を賞賛されて文禄2年(1593年)、従五位下、山城守に叙任された上、没落した土岐の家名を大名として再興することが許された。慶長2年(1597年)3月3日に47歳で死去し、後を嫡男の定義が継いだ。

菅沼藤蔵は家康に仕えた三河武士の典型のような剛直の士であったらしく、面白そうなエピソードがありますが今日は割愛します。菅沼藤蔵は戦国時代を生き抜き大名にまで出世を果たしていますが、晩年に土岐家の名跡を継ぎ土岐定政となっています。定政の家は江戸期も続くのですが、この定政の父が明智定明となっています。宝賀氏の研究で明智嫡流家の最後の当主になります。

さて土岐氏名跡が復活したのは家康の名家懐古趣味の一環で良いと思うのですが、名跡を復活させる時にやはり血縁の者が選ばれると思います。菅沼藤蔵は定明の子ですから土岐氏の流れを汲む明智氏の忘れ形見たいなものですし、なにより家康にとって忠実な部下ですから資格としては十分です。十分なのですが、問題は光秀との関係になります。家康や秀吉が光秀をどう考えていたかの本音は別として、光秀の縁者となれば扱いはチト微妙な点が出てくるんじゃないかってところです。

宝賀氏の光秀庶流説の出どころは菅沼藤蔵の子孫が続いた土岐沼田藩の沼田家譜からのようですが、上に示したように光秀は明智であっても傍流で嫡流の菅沼藤蔵とは別系列の明智といえます。これがホンマかどうかになってしまうのですが、状況証拠的にホンマじゃないかと感じる次第です。

  1. 藤蔵の母は菅沼氏であり、菅沼氏も家康の忠臣として生き残っている(当時の明智氏の状況を伝承している可能性が高い)
  2. 藤蔵は「菅沼藤蔵」としての手柄で既に大名になっており、大名になるために土岐氏との関連を強調する動機がない
  3. 土岐氏名跡を継ぐにあたって、格式は上がったかもしれませんが、所領が増えた形跡はなさそう
  4. 伝えられる藤蔵のキャラからして、家系を捏造してまで土岐氏を名乗りたがったかは疑問
少なくとも藤蔵に伝えられた明智氏と光秀の関係は上で示した家系図のようなものであったと考えられます。


道三崩れと明智氏

道三崩れによる明智氏の滅亡について宝賀氏が面白い資料を掘り起こしてくれています。

  • この家の滅亡時期については、定明の二歳の幼児・藤蔵定政(土岐愛茶丸)の三河亡命が天文二一年(1552)とされるから、土岐頼芸の美濃からの再度追放に際してその父定明が殉じたのかもしれない
  • あるいは弘治二年(1556)に斎藤道三を討った斎藤義龍軍による明智城攻めと同じだったのかは確かめられない。
  • 鈴木真年翁『華族諸家伝』土岐頼知条では、「明智九郎頼基十一世土岐兵部大輔定明天文廿一年濃州没落時討死」と記される。

宝賀氏は慎重に明智氏が滅亡したのが天文21年なのか弘治2年なのかは判断がつかないとしていますが、私は素人ですから両方あった可能性はあると見ます。そのためには前提がいるのですが、当時の明智氏は2系統になっていたと考えます。用語をわかりやすくしますが、

  • 頼重を家祖とする嫡流家(菅沼藤蔵につながります)
  • 頼基を家祖とする庶流家(光秀につながります)
当時の美濃も同姓の家が土岐本家の後継争いに関連して2つに分かれているのは珍しくもないお話です。ここで道三との関係として、
  • 嫡流家は土岐本家支持で反道三派
  • 庶流家は道三支持派
こうであったとします。天文21年は天文11年(1542)に尾張に追放されていた頼芸が、信秀と道三の政治的妥協により一時的に美濃に戻り、再び追放された年にあたります。この時に嫡流家は頼芸支持であったので道三に滅ぼされてしまったとまず考えます。次の弘治2年は、義龍による道三へのクーデターでこの時に親道三派であった庶流家が滅ぼされたとの見方です。わりやすく単純化すれば、
  1. 天文21年(1552)に頼芸に加担した明智嫡流家は滅亡(菅沼藤蔵は亡命)
  2. 嫡流家に代わって明智庶流家(光秀所属)が完全に明智本家になる
  3. 弘治2年(1556)の道三崩れで庶流家も滅亡
短期間で2つの明智家が本家を入れ替わり、なおかつ似たような経過で滅亡したぐらいのストーリーです。


道三と明智氏

道三も最近は二代説が有力なので、私もそうしていますが、初代の道三が美濃に登場した年代は不明です。不明ですがこれは前にやりましたが、初代道三とされる長井新左衛門尉の没年が1533年頃に比定できますから、1517年ぐらいに美濃に松波庄九郎として登場したんじゃないかと見ています。道三は巧みな手腕で美濃の国盗りを行っていくのですが、国盗りのためには美濃国内で味方を集める必要があります。完全に推測になりますが、初代道三の活動初期から庶流家は道三に加担していたんじゃないかと考えています。この辺は嫡流家への反発とか、家系伝説として「うちこそホンマの嫡流家」みたいな自負があり、そこに道三が付け入ったぐらいの見方は可能です。

道三が本当に国盗りに動いたのは二代目ですが、道三親子と庶流家は二代続きの既に交流になっていたとまず見ます。道三の国盗りは天文11年(1542)の頼芸追放により一応の完成を見ますが、この時までに25年ぐらいの歳月が流れていることになります。庶流家は道三勢力の伸長とともに大きくなったと見るのが自然ですが、道三が国主になった時点ぐらいに庶流家を本家としたんじゃなかろうかです。本家とした明智家からなら正室を迎えても問題ないですし、先に正室を庶流家から迎えていたのなら庶流家を本家に格上げしたって見方も出来ます。

本家になった庶流家は系図にも手を加えた可能性は十分にあります。宮城系図や熊本の土岐系図にあるように嫡流家に強引に庶流家の系図を接続し、代々の嫡流家に仕立てたぐらいです。これは道三時代の庶流家ではなくもっと後かもしれません。でもって天文21年(1552)には頼芸に加担した嫡流家を道三が滅ぼしてくれたので完全な明智本家になったぐらいでしょうか。弘治2年(1556)に義龍によるクーデターが起こった時に明智氏が滅亡するまで戦ったのは、ここまで道三に深入りしてしまったら、今さら土岐本家に戻れなかったぐらいと見ても良さそうな気がします。たとえ降伏しても稲葉山城で自害させられるのがオチぐらいのところです。既に道三派になって40年ぐらいは経っているからです。

全部推測なのですが傍証は幾つかあります。

  1. 後に嫡流家最後の当主定明の忘れ形見であった菅沼藤蔵が土岐家の名跡を継いでいる
  2. 義昭に仕官した光秀の身分が足軽衆である
1.は上述しました。2.については宝賀氏との説と異なりますが、室町期に奉公衆や外様衆として活躍したとされる土岐明智氏嫡流家であり庶流家ではなかったと考えると納得できる部分があります。嫡流家のましてや嫡子であるなら、足軽衆にはしないだろうってところです。また真否が微妙ですが、朝倉氏に仕官した時も大した待遇でなかったのも説明が可能になります。庶流家も道三時代には明智本家になったとはいえ、期間的には長くて10年、嫡流家滅亡からなら4年程度であり、美濃以外から見ると蝮の尻馬に乗った成り上がりであり、真の土岐明智嫡流家であると見なされていたぐらいです。朝倉家や義昭から見ると光秀の出自はその程度であったってところでしょうか。


光秀と光春

状況証拠を結び合わせた仮説に過ぎませんが、こう考えると色んな点の筋が通ってきます。道三時代は庶流家が本家となっており、そのうえ嫡流家は滅んでいます。明智城には庶流家が君臨していて当然になります。明智光安が道三に正室を提供し、道三に最後まで加担し滅亡まで突っ走ったのは、二代にわたる道三との交流と、道三に引き立てられて明智本家にまでなった点で良いかと思います。そこまで道三派に深入りしてしまったので、既に和睦して義龍派に戻るのは不可能な状況であったぐらいでしょうか。

最後の謎は光安が庶流家最後の当主であったとして、光秀は何者であろうかです。通説では上に示した家系図のように光秀は光安の甥にあたります。それもタダの甥ではなく、嫡子であった光隆が早世したので光隆の弟である光安が家督を継いでいる関係です。こういう場合は

  1. 光久の後に嫡孫の光秀に家督を戻す
  2. 光久の子孫が嫡流になり家督を継承する
どちらもあり得るのですが、カギの一つは光安の子がどうかになります。家督相続も基本は長子相続ですが、時に能力主義の側面が現れ、それがお家騒動のモトになるのはよくあるパターンです。光安の子も有名で左馬助光春(秀満)とされています。実はここも異論があれこれあり宝賀氏は、

明智秀満は、光秀の女婿で、俗称は左馬助光春としてしられるが、実父は不明であり、光秀叔父の光安の子という系譜は疑問が大きい。その本名が三宅弥平次という事情からして、実際は三宅氏の出とみられる

三宅氏もどうもはっきりしない一族のようですが、宝賀氏は明智の一族ではないかと見ています。宝賀氏が注目したのは光春の子孫と称する人間が三宅氏を名乗って江戸期に生き残っている点のようです。つまりもともとが三宅弥平次であって、光秀に気に入られて女婿になり明智の姓を名乗っただけではないかの見方です。仮にそうであれば

  1. 光春は光安の子ではない
  2. 光春は光秀の単なる家臣であったかもしれない
  3. 光安には子がいなかったかもしれない
光安に子がいなければ明智家の家督は嫡孫の光秀って事になるのですが、そんなシンプルなものだったかどうかです。光安と明智一族の多くは道三崩れで亡くなりますが、この時の明智攻めは明智家滅亡を目指したもののはずで、一族のなかでもとくに嫡流につながるものは可能な限り殺したはずです。つまり光安に子がいても一緒に死んでいる可能性がかなり高いってところです。なにが言いたいかですが、明智氏嫡流家は天文21年に滅び、代わりに本家となった庶流家も道三崩れで滅んだんじゃなかろうかです。ここは言葉足らずで、庶流家が道三崩れで滅んだ時に、庶流家の家督相続資格者も亡くなるか、それとも菅沼藤蔵のように他家の人間として活躍するような状況です。

光秀が明智の一族である事自体は疑っていませんが、道三崩れで生き残ったのは史実ですから可能性としてありうるのは、

  1. 嫡流家、庶流家に次ぐ第三以下の明智の一族(上が無くなったので繰り上がった)
  2. 庶流家の子であったが、子どもの時から仏門に入っており、道三崩れの時にそもそも美濃にいなかった
家系図と照らし合わせて構築し直すと、光隆が亡くなった時に光秀は子としていたかもしれませんが、未だ幼少であったので家督は叔父の光安が継いだとまず考えます。そうなった時に将来の家督相続の障害にならないように光秀を仏門に入れるはありそうなお話です。武家として育つと嫡孫ですから、光安の子と家督を争う火種になりかねないからです。この時に光秀は時宗僧となり、時宗僧は諸国遊行を行いますから、道三崩れの時に明智どころか美濃にいなくとも不思議ありません。結果として生き残ったぐらいです。


時宗僧と過所

ちょっと余談になりますが、時宗僧は将軍義持から過所を得ています。私もウッカリしていたのですが、これはかなり重要な権利になります。室町期の一つの風景として各地の領主が関所を設け、その通行料を財源としていたのは事実です。このため、旅をしようと思っても数多い関所で通行料を支払う必要があり、たとえばwikipediaより

15世紀末の伊勢神宮の近辺の例では、松阪市から内宮までの50kmに満たない距離の間に、100文以上の支出を要したとする分析例がある。

とにかく旅をしようと思えばゼニがたくさん必要であった時代ぐらいで良いかと思います。これに対する過所の権利は、時宗僧であれば通行料を免除するぐらいと思えば宜しいかと思います。そのため諸国を回る必要があった遊芸者は時宗僧になる、もしくは時宗僧の法名を名乗って過所の権利を得ようとしたなっています。そのためある時期までは遊芸者とは時宗法名を名乗る者ぐらい時期があったそうです。ここはシンプルに時宗僧になれば諸国遊行がしやすかったぐらいで良いかもしれません。もう一つ時宗僧であれば諸国遊行に便利であったのは、時宗寺院のネットワークを宿所として利用しやすいのもあったと思います。

時宗、とくに当時の時宗僧が一般的にどれぐらいの期間、諸国遊行を行うものかはわかりませんが、宗派の趣旨として遊行があるわけですから、当人がその気であればかなり長期間の諸国遊行も可能だったと思います。ここで光秀の見聞は非常に広かったとするのが定説です。広かった理由として信長に仕えるまでの間に、武者修行で全国を回っていたらとする設定が歴史小説では良く用いられます。

ただここで過所の問題が出てきます。過所の権利は時宗僧のみの特権ではなかったとおもいます。たとえば寺の修理の勧進とか、そもそもある程度身分以上なら通行料は免除されていたとするのが妥当でしょう。ある程度の身分のうちに武家も入っていてもおかしくありません。ただ武家は入っていても、牢人が入っていたかとなると疑問が出てきます。光秀が牢人として武者修行を行えば関所の通行料問題が出てくるわけです。つうか、世は戦国ですから牢人が領内をウロウロされただけで目障りとされた気も私はします。

時宗に与えられた過所の権利の大きさは、

  1. 時宗僧すべてに網羅的に与えられた
  2. 時宗僧には誰でもなれた
  3. 法名を名乗り、時宗僧として最低限の証さえ認められれば過所の権利を行使できた
諸国を遊行するにあたって、時宗寺院のネットワークも時宗僧は利用できますが、それでも旅費は必要です。遊芸者が諸国を回るために時宗法名を使った例も多かったようですが、諸国を長期で遊行する時宗僧も生活費を稼ぐために遊芸を身につけたとも考えられます。時宗僧は遊行してますから、他国の見聞を話すだけでも一宿一飯に与れるとは思いますが、当時の僧侶は知識人とも思われていたはずで、たとえば連歌の会なんかにも呼ばれたんじゃないかと思ってます。田舎じゃ連歌をしようと思っても、連歌が読める頭数を集めるのも大変だったぐらいが想像されるからです。そういう能力が優れている方がより優遇されるだろうってところです。

そうやって考え直すと「遊行三十一祖 京畿御修行記」にある

惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申。

ここは違った見方も出来そうな気がします。美濃の実家の明智家が道三崩れで滅亡したので、光秀は武家に復帰し、明智家の再興を目指した可能性はあります。武家になったので称念寺ではなくその門前に住居をもったぐらいの見方です。ただそこからストレートに朝倉家に仕官はできなかったのは事実と見て良さそうです。それでも10年間は長いのですが、ずっと称念寺門前で燻っていた訳じゃなく、この間も時宗僧に化けて諸国遊行ならぬ武者修行をしていた期間があったと見る方が良いかもしれません。

この時宗僧に化けるのに称念寺住職から便宜をはかってもらったり、留守中の家族の生計の援助をしてもらったのが「旧情」ぐらいの表現になっているぐらいです。なんというか、明智家再興の志を称念寺住職が強力に後押ししてくれたぐらいの読み取り方です。真相はわかんないですけどね。