藍那から白川、そして妙法寺のフィールドワーク

年末に藍那から相談が辻を通り鵯越道方面に曲がりましたが、新年は白川方面の道を歩いてみました。実際の歩行記録は、

ここで御確認下さい。距離にして9.42km、時間にして2時間45分です。実際に歩いた感想としては、フラットと言うか藍那から最初に100m登り(標高で300m)、そこから妙法寺にダラダラ下って行く感じになります(白川集落から白川峠を途中で登りますが、標高差は50mぐらいです)。所要時間の2時間45分にしても日頃の運動不足と、寒い時期に歩くと顔を出す左膝の痛みがあってコレですから、一の谷当時でも昼間なら義経一行は近いタイム、いやもっと早かった可能性はあると思っています。


ルートの信憑性

これについては一つは見つけました。実は藍那から白川に向うルートは地図上では幾つか存在します。ところが明石海峡公園の建設のために支道的なルートはことごとく封鎖状態で、ひたすら相談が辻からの尾根道を歩く事になっています。そうやって歩き続けると他の道との出会いに達します。そこに道標を確認する事が出来ました。道標を見てもらう前に出会いには祠があります。

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あくまでも傍証ですが祠があるところは交通量も多かった可能性があります。さらに祠の道向かいに道標があり、

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「前白川」は伊達ではなく、ここから程なくして白川の集落に出ます。まあ、ここも道標が設置してあるぐらいですから交通量が多かった傍証ぐらいになります。証拠はこれぐらいしかありませんが、藍那から白川に抜ける昔からの主要道であった可能性はあると見ても良い気がします。地図上でもおおよそ藍那から白川に真っ直ぐ南下しているルートになるからです。白川集落からは白川峠を越えて車村に至りますが、この道も昔からの街道として良い気がします。ごく簡単には
    藍那から白川までは一の谷当時もこのルートだっただろう
私はそう結論したいと思います。馬だって十分に歩けるルートです。ついでに言えば車村までも「まずまず」確実です。問題はその先になります。車から妙法寺は現在は真っ直ぐ南下すれば到着します。私もそうやって歩きましたが、一の谷合戦当時はそうでなかった傍証が出て来たからです。


新改正摂津国名所旧跡細見大絵図

これは天保7年のものとなっています。ごく単純には江戸期のものぐらいの理解で良いのですが、まず山田から藍那の部分を紹介すると、

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山田荘の西下から小河を経由して藍那に通じています。いわゆる藍那古道と呼ばれるルートで、一の谷の諸説もこのルートで義経が藍那に至ったんだろうと言う点では一致しています。もちろん私も同意です。藍那から少し南下した地点で道が2つに分かれています。一方は白川に向い、もう一方は鵯越と記されています。この分岐点が相談が辻ぐらいに解釈して良いとも考えています。鵯後道はこの後に高尾山に向い会下山に至りますが地図には

鵯越峯ヨリ兵庫マデ三里

ここの三里は12kmというより3時間と解釈した方が良いと私は思います。鵯越道のことはとりあえず置いといて白川から先を見てみたいと思います。

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白川から車に行くには白川峠を越えますが、ここも問題ないと思います。問題はその先で街道のつばがりは、

    白川 → 車 → 田井畑 → 奥妙法寺
こうなっています。つまり車から奥妙法寺に直行していないのです。土地勘のない人にはわかりにくいでしょうから、現在の地図でおおまかに示します。

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現在は車から妙法寺(= 奥妙法寺)まで直結していますが、江戸期の地図では

  1. 車から田井畑(多井畑)にまず南下する
  2. 多井畑から妙法寺に北上する
えらい遠回りになっています。ここについてなのですが、山田村郷土誌に興味深い記述があります。里道の解説として、

里道中交通最も頻繁なるは小河村より藍那村小部を経て天王谷県道に合するものと、藍那村より鵯後を経て神戸市に通ずるものとす。

このうち天王谷県道については山田村郷土誌に

神戸有馬間の県道は、最も初に開通せるものにして、明治五年に有馬温泉に通じたるなり、中古本道は有馬温泉及び両丹地方に通ずる唯一の要路とせり。

ここにもう一つ須磨人より

このころまで山間の村々は、長坂越えや古道越えの山道によって、須磨の海辺の村々よりもむしろ兵庫方面の諸村との結びつきが深かった。しかし1978年(明治11年)に板宿から妙法寺川沿いに三木まで至る道路(1890年に完成した、現在の兵庫県道22号神戸三木線)の工事が始まると、妙法寺谷筋の諸村と海岸地方の村々の結びつきも次第に強まっていった。

ほいじゃ車村から妙法寺が直通していなかったかというと「していた」傍証もあります。これは神戸市文書館にあった街道図ですが、

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この街道図では新改正摂津国名所旧跡細見大絵図と異なり、

  1. 車から妙法寺に街道は続いている
  2. 妙法寺からの長坂越は無い
  3. 車から多井畑への街道もない
「あれっ?」ってところです。もう一つ出しておきますが、元禄11年に描かれた摂津車村絵図には、

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見にくいのは御容赦頂きたいのですが、車村の南から兵庫道と書かれた道が延び、途中に口妙法寺村と記されており、さらに西代村につながるとなっています。口妙法寺村から先は「どうも」妙法寺から南に下り板宿方面に出ている感じが私にはします。江戸期と源平期が同じとは言いにくいのですが、異なる二つの説をどう考えるかになります。


お手軽にwikipediaより、

  • 天平10年(738年)行基の開基。聖武天皇高倉天皇の勅願所で、七堂伽藍37坊があった。
  • 承和6年(839年)定範上人再興。
  • 治承4年(1180年)の平清盛による福原遷都では乾にあたることから、新鞍馬として王城鎮護の霊場とし、寺領1000石を寄進している。

この七堂伽藍があったとされる妙法寺の場所ですが周辺地図を示してみます。

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現在の妙法寺は「寺の界地」とされているところにありますが、地名をたどると南の方にはモロ「妙法寺」とされる地名があるだけでなく、「大門」なんて地名も確認できます。往時の妙法寺の中核は大門の北側に広がっていて、現在の妙法寺は子院の一つぐらいだったと考えるのが妥当な気がします。その傍証として現在の妙法寺がある地名は奥妙法寺になります。奥の院的なところであったとも言っても良さそうです。これだけの大寺であったからこそ清盛も王城鎮護の新鞍馬にしたとは思いますが、どこから参詣に向ったかになります。大門は南に向っていたとするのが自然ですから、参詣者も南から、すなわち板宿方面から妙法寺に向ったと考えたいところです。


鹿松峠

場所については社寺の伝説に、

兵庫から北、夢野へ出て、その北の山を登り、今の鵯越墓園から藍那、山田へ抜ける道は鵯越道と呼ばれ、海辺と山間、三木方面を結ぶ古い交通路であった。この道を鵯越墓園のあたりで西に折れて明泉寺へおり、高取山の北ふもとを越えて妙法寺谷川の谷におり、そこからさらに多井畑を通って塩屋に通じる交通路があって、江戸時代には古道越えと呼ばれていた。この古道越えが高取山の北ふもとと苅藻川の谷と妙法寺川の谷の分水嶺を越えるあたりに、うっそうと木の茂った鹿松峠というところがあった。

私はこれを読みながら唸っていたのですが、これに該当しそうな道を知っています。おおまかですが現在の地図で示します。

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地図の北側の丸山大橋のたもとぐらいから北に伸びる道が鵯越道(現在は鵯越墓園)になります。ちょうどその辺りから西側に折れる道があるのが確認できると思います。現在は南北に2つありますが、往時はどちらか1本だけだった気がします。そこから南に下ると明泉寺町があり、明泉寺町の西側に鹿松町があります。そういうルートが古くからあるのでしたらwikipediaの記述がやっと理解できるようになりました。

この長坂越は、夢野から明泉寺を経て、播州への交通路、鴨越本道の支道であり、建武3年(1336年)の湊川の戦いにも、足利直義の山手軍は鷹取山の北の鹿松峠からここに出て、夢野の除路を突破して楠軍をおそったなど、重要地点であった。

どうもwikipediaに誤字が含まれているようですが、前にこの記述で悩んだのは夢野(つまりは福原方面)から鹿松峠を越える道が何故に鵯越道の支道なのかでした。それがこういう道が鵯越道の支道として古来からあるのなら理解は容易になります。おそらく夢野から会下山を越えて明泉寺に通じる道があり、その表現として使われていたのだろうです。ここも実は往時となると不明で、ヒョットすると

    福原 → 夢野 → 会下山 → 鵯越道 → 鵯越支道 → 明泉寺 → 鹿松峠
こうであった可能性も否定できないところです。どうだろうと言うところですが明治期の地図では、

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明治期には夢野から明泉寺への道は存在するのは確認できます。それと湊川合戦で足利直義も鹿松峠を越えて会下山の正成を攻めているはずですから、夢野から明泉寺への道は源平期にもあったとする方が自然な気もします。


源平期の道路事情の想像

これも社寺の伝説より、

奈良時代まで、山陽道は須磨から鉢伏南麓の赤石櫛淵(今の須磨浦公園の地。海と山が迫り櫛の歯状の出入りの多い海岸線から、この地名があった)を避けて、多井畑・下畑・塩屋と通じていたが、平安期には須磨浦の地を往き来するようになった。そこで多井畑を通っていた道は、平家物語などにも古道と記されているが、これが多井畑からさらに東の山中に延ばされ、鵯越道と合流するようになって中世には山陽道の脇道となっていたのであろう。

この説明なんですが、私の解釈は微妙に違います。とりあえず古山陽道は垂水付近が難所であったため多井畑を経由して塩屋に出るルートがまず整備されています。山陽道も主要官道であり、古代の官道が道幅も広く立派な物であったことは最近の調査で確認されています。白川や車の住民はこの古山陽道に交通路を接続したんじゃないかと考えます。車から妙法寺、さらには多井畑の地形的関係はニュータウン建設で今は現地に行っても想像するのが難しくなっていますが、明治期の地図でなら少しは想像が広げられます。

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地形的に車から多井畑を結ぶには奥妙法寺を経由するのが自然です。奥妙法寺から多井畑を結ぶ交通路も横尾山・栂尾山の北の麓沿いに明治期の地図はなっていますが、これも源平期とあんまり変わっていないとするのが妥当と思えます。そうなると源平期であっても

ただなんでですが長坂越は奥妙法寺から始まっている訳ではなく、地図ではチト読み取りにくいのですが、奥妙法寺のさらに南にある口妙法寺から始まります。つまりは奥妙法寺は多井畑と口妙法寺の分岐点に当たる事になります。さらに煩雑になると思いますが、明治期の口妙法寺に現在の妙法寺は存在しています。上述したように源平期の妙法寺の伽藍は現在の妙法寺のさらに南側に広がっていた可能性が高いと推測しています。

ここで時代を考えたいのですが、妙法寺創建より古山陽道の成立の方が早いと見ます。ですから車から多井畑への道が先に成立した可能性があると考えます。それとなんですが、妙法寺から板宿に抜ける道は存在はしていたのでしょうが、どうもかなりの難路であったと見て良さそうで、明治期に県道が整備されるまで交通路としては余り活発には使われていなかったと解釈するほかはなさそうです。つうか妙法寺から板宿の道が使い難かったから、鹿松峠を越える長坂越の方が使われたと見るのが良い気がします。

あくまでも仮定と言うか想像ですが、妙法寺へのアプローチは創建の時から長坂越と板宿からの道の二つがあっても、メインは長坂越だったと見ても良い気がします。清盛は妙法寺を鞍馬に見立てて保護していますが、福原から参詣するにしても板宿回りではなく、長坂越を利用していたと見たいところですし、そういう記録もどこかにあったはずです。そうなると夢野から会下山を通り明泉寺に向う道もまたあった方が妥当です。車方面から見ると、大輪田の泊方面に用事がある時には長坂越、塩屋方面に用事がある時には多井畑って感じでしょうか。

もう一つなんですが、源平合戦の頃には山陽道が海岸回りになっています。古山陽道は須磨から多井畑に向いますが、この道は高倉山と栂尾山の間を抜けています。ここは現在ではポートアイランド埋め立てのためにとくに高倉山を削り倒して地形が変わってしまっていますが、それ以前は結構な難路であったと見れる気がします。つまり源平期には殆ど使われなくなっていた可能性があります。たしかそんな記述があったとも記憶しています。少し整理すると、

  1. 山陽道は多井畑から塩屋に向うルートが古道越として使われていた
  2. 山陽道の須磨へのルートは廃れ、大輪田の泊方面には長坂越が使われていた
車ないし奥妙法寺は長坂越と古道越(古山陽道)の分岐部にあたる地点になっていたぐらいの推測は許される気がします。


とにかく藍那を通ったのは前提にします。藍那からのルートは2つです。

  1. 鵯越道を通り会下山方面から福原を目指す
  2. 白川方面に下る
ここでなんですが鵯越道は藍那からの主要ルートであり、平家も警戒していたと考えています。明泉寺は越中前司盛俊が戦死したところとなっていますが、義経鵯越道を通っていたらそんな奇襲が成立するかどうかです。鵯越道は平家も北の守りとして警戒しているところで、平家物語を信じれば剛勇の能登守教経が守備を担当しています。もし奇襲であれば教経は義経鵯越道を会下山まで進んで来ると予想していたら、途中から鵯越支道に入り、そこから明泉寺方面に雪崩込まれて大混乱に陥ったぐらいのストーリーになります。

しかしこれでは平家が間抜けすぎます。平家は地元と言ってよいところに陣を構えています。鵯越道は源平合戦当時でも播磨との主要連絡道として周知のものであったのは間違いなく、さらに明泉寺方面に下りてくる支道があるのも百も承知だったと考えるのが妥当です。三草山の敗戦で鵯越道を義経が取る可能性を考えた時点で、鵯越道からの義経の奇襲はあり得ないとしてよいかと思います。ただ鵯越道には源氏軍は進攻していたとは考えています。進攻を担当していたのは義経でも、範頼でもなく行綱であったと私は考えています。

鵯越道が否定されたのなら義経は白川方面に進む事になります。これも上述したように

    藍那 → 白川 → 車
ここまでは道なりで藍那駅から実測で7km弱程度です。ここでなんですが吾妻鑑の

2月7日 丙寅 雪降る

  寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。

2/7の日の出は6時ぐらいになるので「寅に刻」は午前4時ぐらいになります。もちろん当時のことで正確な時間が計れた訳ではありませんが、卯の刻が日の出を基準にするのに対して、寅の刻は日はまだ昇っていませんが空が白み始めた頃を目安にするとどこかに書いてありました。ここは単純化して午前4時としますが、仮に午前0時に藍那を出発していたら車あたりになるんじゃないかと思ったりしています。昼間なら2時間もあれば歩ける距離ですが、夜間行軍なのでもう少し時間がかかっても不思議ないと思うからです。

それと車ぐらいまで来てしまうと一の谷への進撃路は、

  1. 私の仮説の長坂越
  2. 塩屋の実平軍との合流
  3. 通説の鉄拐山
実平軍に合流してしまうと逆落としはなくなりますから1.か3.になりますが、これまた私は鉄拐山の麓の一の谷は否定していますから、目的は1.の長坂越になります。ここでもう少し進めば妙法寺の寺域になりますが、義経は夜間にそこまで進むを控えたんじゃないかと考えだしています。妙法寺は清盛の庇護を受けていますから、安易に進めば平家に密告される可能性の懸念ぐらいです。つまりは車辺りが吾妻鏡に残る「一谷の後山」でも合う事は合います。それと車を一谷の後山と考えた時に都合が良いのは熊谷直実・平山季重の抜け駆けの先陣の説明がやりやすくなることです。二人の先陣について吾妻鏡では、

武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。

平家物語の描写から考えると、一谷の後山で大休止を取った時に義経は主だつ者に長坂越の秘計を知らせた可能性があります。つうか藍那から一谷の後山までは実平軍との合流としていたんじゃないかと思っています。直実と季重はこれを聞いて「これじゃ先陣にならん!」として、密かに抜け出して多井畑から塩屋に進んだのなら、距離と時刻から可能になりそうな気がします。ついでに言うなら多井畑厄神に残る義経の必勝祈願伝承は、直実と季重が行ったものかもしれません。


感想

実際に歩いてみて、藍那から白川あたりまでは昔をある程度忍べる感じがしました。問題は白川以降です。とにかくニュータウンは出来る、高速道路は走るで様相がすっかり変わってしまっています。何度も「?」を重ねた車から板宿に抜ける道もそうで、旧西神戸有料道路が開通するまでは、三木方面から神戸に出るのに一番ポピュラーに使われていた道路だったからです。それでも実際に歩いてみるのは収穫が多いもので、やっぱり部屋に籠るだけでなく、現地を確かめる重要さを感じた次第です。