研究考

医師も科学者の端くれではありますが、医師でも研究に重きを置いている者とそうでない人がいます。私は完全に「そうでない人」ですから研究畑の感覚がイマイチ判りません。ですから現役バリバリの研究者にあれこれ意見を求めていたのですが、

    大方こんなものだろう
なにせかなり畑違いの分野ですから実感として理解するのは相当無理があります。そこの点を十分斟酌して頂くとして研究には大雑把に次の段階があると見ます。
    第一段階:仮説を立てる
    第二段階:仮説を研究し実証する
    第三段階:論文にして投稿する
    第三段階:雑誌に掲載される
    第四段階:発表内容を検証する
第三段階の発表でポピュラーなものは科学雑誌への投稿です。重要な発表ほど権威の高い雑誌に投稿し採用される事が望ましいとされます。まともな科学雑誌には投稿された論文の査読と言うのもが行われます。査読とは何かですが、
    自分の雑誌に掲載するのに相応しい内容か?
これを審査される訳です。審査のハードルは一流とされるものほど高いのは説明の必要もないでしょう。また超一流誌に掲載されればそれだけで発表の信用性は高まります。ただなんですが超一流誌に掲載されただけでは、まだその発表が本当かどうかはまだ未確定として良さそうです。掲載された意義として「信用できる可能性が非常に高い」ぐらいに受け取るべきのようです。本来は雑誌に採用され周知されてから評価を受けるものだと言うところです。超一流誌の査読への信用性が非常に高いため
    雑誌掲載 = 事実として承認
こういう関係があるかのように見え、現実的にもニア・イコールとして扱われる事が多いですが、あれはあくまでも論文内容が雑誌に掲載されるのに相応しい以上の意味はないとして良いかもしれません。この辺の関係が判りにくいのですが犯罪捜査で喩えてみます。
ステップ 科学研究 犯罪捜査
第一段階 仮説を立てる 犯罪が起こる
第二段階 仮説を研究し実証する 警察が捜査し犯人を特定する
第三段階 論文にして投稿する 犯人を送検する
第四段階 雑誌に掲載される 検察が起訴する
第五段階 発表内容を検証する 裁判が始まる
日本の検察の起訴からの有罪率の高さは世界有数のものとされます。そのためにマスコミなどは起訴時点で容疑者を罪人扱いにする慣習があります。ただ起訴された段階ではあくまでも容疑者であり、検察が起訴したと言うのは高い確率で有罪である状態に過ぎません。裁判の結果「無罪」である事も起こり得る可能性は残されているぐらいです。超一流誌への掲載とは検察が有罪を確信して起訴した段階に匹敵するぐらいでしょうか。ですからまだ発表内容が事実かどうかは確定しないです。

科学研究には犯罪捜査の様に裁判はありませんが、その代わりに雑誌に掲載された論文の検証は行われます。重要な発表、とくに科学のターニング・ポイントになるような内容なら世界中の科学者や研究機関が論文の内容を検証するとしても大袈裟ではないと思っています。検証には論文内容もありますし、発表内容によっては再現実験が行われたりします。そのため発表された論文の内容を検証したと言う発表も大きな価値を持ったりする事があると聞きます。発表されただけではまだ確定ではなく、これが検証されて漸く確定されるぐらいでしょうか。


さて論文に不正があるとはどういう事かです。犯罪捜査に例えると判りやすいのですが、送検した調書に不正があるぐらいです。日本の警察の信用は高いですが、それでも頭からの見込み捜査によるデッチ上げみたいな事は皆無とは言えません。ここで用語の使い方に自信が無いのですが、不正と不備は少しニュアンスが違うと思っています。不正は無から有を作り上げる捏造まがいの行為ですが、不備とは裏付け捜査が不十分だったぐらいに見ています。決定的な証拠を見落としていたりの類です。

調書に不正があれば犯罪捜査なら裁判で検察は速やかに撤退します。犯罪の根拠が瓦解する訳ですから起訴取り下げみたいな状況になるぐらいです。検察は赤っ恥をかき、世間からは叩かれます。同時に犯罪捜査に加わった捜査員はそれ相応の処分が下されるかと考えます。これが不正でなく不備であれば少々様相が変わるかと思っています。裁判は判決まで行われ無罪判決を被告は勝ち取るぐらいです。警察内部の処分もあるかもしれませんが、不正の場合に比べてかなり緩やかなものになる気がします。

いづれにしろ犯罪の真犯人は不明となり犯罪捜査は振り出しに戻るぐらいです。


論文に不備なり不正があっても超一流科学雑誌の査読を通る事はありえます。多くはありませんが前例は皆無でなかったはずです。ここで不備であれば科学者は再挑戦の機会は残ると思っています。不備の程度によっては厳しいかもしれませんが再挑戦の余地はあると私は考えています。一方で不正であれば再挑戦の機会は塞がるだけでなく、科学者生命もそこで終わる気がしています。不正と不備の間はそれぐらい落差があると私は見ています。世間を騒がしている某論文問題もそれが不正か不備で争っていると見るとなんとなく納得できます。

もう一つのポイントは論文掲載が無効(取り下げも含む)になれば研究成果はすべて実験室に差し戻されます。すべてが仮説に戻り、事実としての評価を受ける事はなくなります。もし仮に実験室内で本当に存在していたとしても、論文発表が無くなれば無に等しくなると言うことです。だから論文は取り下げないと頑張っておられるかと思いますが、科学界の反応はちょっと違うように思います。抵抗の末に雑誌掲載が残ろうとも、検証段階で認められないものはやはり無に等しいぐらいです。調書の不備であれ不正であれ容疑者が無罪になったとき、実際に従事した捜査員が「アイツがクロなのは間違いないはずだ」といくら力説されても虚しいのにやや似ているかもしれません。


だいたいですが、こんなものぐらいじゃないかと私は思っています。ちょっと違うのかなぁ?