佐賀藩のアームストロング砲

 平日ですが歴史閑話です。


司馬遼太郎

 司馬氏は優れた歴史小説家ですが、注意が必要なのはあくまでも小説家であって本物の歴史専門家ではない点と思っています。司馬氏が作品を書く時に膨大な資料を蒐集しこれを活用したのは有名であり事実ですが、最後のところで小説家である事を優先させています。ストーリーや脚色の都合が最後のところで優先され、

  1. しばしば異論や少数意見を優先する
  2. 資料に無いところは創作してつなぎ合わせる
 ただその前後を確実な資料でガッチリ固め、継ぎ目も非常にスムーズですから、読者はしばしば作品全体を史実と思い込んでしまう事があります。これこそが司馬氏の持ち味ではありますが、一方で司馬作品を読む時の一つの注意と思っています。史実に反するところまで創作はまず行われていないと見ますが、鵜呑みにして歴史を語ると危ない時がしばしばありうるぐらいです。

 司馬氏は幕末期を題材にした作品も多数書かれていますが、司馬氏が取り上げて有名になった兵器があります。アームストロング砲です。もちろん実際に存在し、実戦でも使われた記録が残っていますが、かなりのデフォルメがあるとするのが現在の通説です。私は歴史は好きですが、兵器についての知識は甘いのでその点は差し引いてお読み下されば幸いです。


アームストロング砲とは

 お手軽にwikipediaから、

 1854年、アームストロングはイギリス陸軍大臣(Secretary of State for War)ニューカッスル公ヘンリー・ペルハム=クリントン(Henry Pelham-Clinton, 5th Duke of Newcastle)に対して、3ポンド施条後装砲の開発を提案した。後に砲腔を拡大し5ポンド砲としたが、射程・精度共に満足すべきものであった。その後3年間、アームストロングは開発を続け、より大口径の砲にも後装式を採用した。

 1858年にアームストロングの後装砲は軍に採用されたが、最初は「野戦特別部隊」用としてであり、また6ポンド(2.5インチ/64 mm)山砲・軽野砲、9ポンド(3インチ/76 mm)騎馬砲兵砲、および12ポンド(3インチ/76 mm)野砲のみが製造された。

 アームストロングは、この方式がより大型の砲に適しているとは考えていなかったが、上層部は20ポンド(3.75インチ/95 mm)野砲・艦載砲、40ポンド(4.75インチ/121 mm)艦載・要塞砲、110ポンド(7インチ/180 mm)重砲の製造を命じた。イギリス海軍はこれら3種類の砲を全て採用し、また40ポンド・110ポンド砲はニュージーランドでも採用された。

 ここから製造されたアームストロング砲の種類が特定できそうです。

  1. 6ポンド(64mm)山砲
  2. 6ポンド(64mm)野砲
  3. 9ポンド(76mm)騎馬砲
  4. 12ポンド(76mm)野砲
  5. 20ポンド(95mm)野砲
  6. 20ポンド(95m)艦載砲
  7. 40ポンド(121mm)艦載砲
  8. 40ポンド(121mm)要塞砲
  9. 110ポンド(180mm)重砲
 このアームストロング砲の特徴ですが、後装式の施条砲であった点とされています。後装式とはなんぞやですが、当時の大砲の主流は前装式で、大砲の筒先から砲弾をゴロゴロと押し込んで発射していたのに対し、後装式は砲尾に扉を設けてそこから砲弾を装填するものです。平たく言えば現在の大砲の形式です。後装式にする事により装填速度が上り、単位時間の砲撃回数が非常にあがったとされます。

 アームストロング砲の特徴はそこだけではなく、施条にも工夫が凝らされています。施条砲自体は当時の前装式の大砲にも採用され始めていましたが、アームストロング砲はさらなる工夫が施されています。この部分はwikipediaより、

 鋳鉄製の砲弾は、ミニエー弾と類似の形状であり、薄い鉛で内腔径よりやや大きくなるようにコーティングされていた。この鉛部分が砲の施条に食い込み、砲弾に回転が与えられる。この方式はマーチン・フォン・ウォーレンドルフとジョヴァンニ・キャヴァーリによって開発されたばかりだった。従来の前装滑腔砲に比べると、内腔と砲弾の隙間がないことにより、より少ない装薬量でも射程が伸び、砲弾の回転により砲撃精度を高めることができた。

四斤山砲の砲弾
 これだけでは判り難いかもしれませんが、幕末の主力砲であった四斤山砲と較べると判りやすいかもしれません。四斤山砲にも施条が施されているものがありますが、四斤山砲の場合は砲弾は内腔より小さいもので、砲弾につけられた一種のイボみたいなものが施条に引っかかり回転を与えています。そのために砲弾と内腔の間に隙間ができる事になります。

 アームストロング砲は内腔より大きな砲弾にし、その表面を鉛で覆う形式です。この鉛部分が施条に食い込むため内腔の隙間が殆んど無くなります。そうなると、発射時の火薬の爆発によるガス圧力が隙間の多い四斤山砲に較べると遥かに高くなり、射程距離が伸びる事になります。それだけでなく、砲弾に与えられる回転が四斤山砲方式に較べるとよりブレが少ないものになり、射撃精度も向上する事になります。実際にもそうだったようです。

 方式としてはアームストロング砲は優れているのですが、技術的な難点は発射時のガス圧力に耐えられる砲身の製造になります。既に小銃では実用化されていましたが、大砲となると圧力の桁が違うので大変ぐらいのところでしょうか。従来の製造法(青銅砲方式)で砲身を作ると、途方も無い厚みの砲身が必要で、それに比例して重量が莫大な物になる上に、密封式の内腔がもたない可能性もあるぐらいと考えます。この問題に対しwikipediaより、

 アームストロング砲は、従来のように全体を一度に鋳造するのではなく、いくつかの部品を組み合わせて作製されていた。砲身は「Aチューブ」(当初は錬鉄製、1863年からは低・中炭素鋼)と呼ばれる砲身内腔部をいくつかの錬鉄性のコイルで嵌め込んだ層成砲身で、コイルの圧力により強度を増加させていた

 当時の製鉄技術の粋を集めて砲身強化と軽量化に成功したぐらいのところでしょうか。ただそれでもの問題は残ったようです。薩英戦争で使われたアームストロング砲はかなりの数が発射トラブルを起こしています。wikipediaばかりで申しわけありませんが、

 薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発するという事故が起こった。

 原因の一つとされたのは、砲弾の鉛とされています。システムとして発射時に内腔に付着した砲弾の鉛は薬嚢内に仕込まれた潤滑器でクリーニング出来るとなっていますが、実際には10〜15発も撃つと鉛が結構残ってしまうそうです。そのために筒先からブラシみたいなものを入れて鉛除去のクリーニングを行う必要があったそうです。。

 これを怠ったり、清掃までに鉛が付着しすぎると、弾詰まりを起して砲身や尾栓の破裂を招いてしまうぐらいです。薩英戦争ではこれが露呈してしまったと言うところです。言い換えれば、当時世界最高峰の技術と材料で製作しても、砲身の強度は十分とは言い難いものであったぐらいでしょうか。アームストロング社もその点は承知していた様で、大型砲の製作に必ずしも積極的でなかったとなっています。かなり繊細な運用が求められたぐらいです。


幕末のアームストロング砲の存在

 これが杳としてわかりません。アームストロング砲は薩英戦争の後、英国の正式採用から外され、同時に軍事機密の指定も解かれ各国に輸出されたとなっています。幕末の日本も輸入したはずなんですが、一体何門ぐらい輸入されたのか「よくわからない」です。戊辰戦争の主力は四斤山砲であって、アームストロング砲が記憶に残る活躍をしたのは彰義隊の時ぐらいしか覚えていません。wikipediaには、

 廃棄されたアームストロング砲は輸出禁止が解除され、南北戦争中のアメリカへ輸出された。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、戊辰戦争で使用された。中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

 どうも江戸幕府は手に入れられなかったようです。あくまでも推測ですが、そんなに日本に入らなかったんじゃないかです。戊辰戦争の会津若松城攻めにも使われたとなっていますが、小田山に設置された「長距離砲」が5門となっており、さらにその中にアームストロング砲を「含む」となっています。つまりは5門以下と言う事です。

 幕末動乱と言っても日本中の藩が戦国時代のように覇を競ったわけではありません。いわゆる薩長土肥プラスアルファと幕府プラスアルファです。さらにその中で洋式軍備を充実させたところは限られます。さらにさらに、洋式軍備を整える時に優先されたのは小銃です。大砲も装備はされたものの、まず小銃で「その次」です。この「その次」の大砲を装備する時にアームストロング砲は高かったんじゃなかろうかです。他には洋式帆船も優先購入項目だったようですし・・・。

 予算には限りがありますから、新式小銃等を装備した後にアームストロング砲まで手が届かなかった感じです。そこで大砲に関しては比較的安価な四斤山砲クラスで間に合わせたです。四斤山砲クラスならコピーの国産品もあったようですから、「これでも新式大砲に変わりはない」ぐらいです。ま、その前に日本では容易に手に入らなかったと言うのもあるかもしれません。


佐賀藩

 はっきりしない日本のアームストロング砲ですが、佐賀藩は間違い無く購入したとして良いでしょう。どんだけ購入したかもはっきりしないのですが、6ポンドと9ポンドの2門の可能性が高いと見ています。理由は後述します。さらに佐賀藩はアームストロング砲をコピーしようとしたのも史実と考えています。ここで司馬氏は佐賀藩はコピーに成功したとして小説を書かれています。まったく同等の能力とまで言えなくとも、7〜8割ぐらいの能力はあったぐらいでしょうか。

 佐賀藩は幕末時に日本では飛びぬけた能力の工業力があったとされます。また長崎警備の役割も担っていたはずで、それを理由にしての武器購入や研究もやりやすかったともされます。佐賀藩がアームストロング砲の存在を知り、これを購入しようと考えたのもその辺の事情はあると見ています。また自藩の工業力でコピーをを作ろうとする基盤ぐらいは不十分ながらあったとして良いと思います。ただwikipediaですが、

 日本では佐賀藩がこの砲の製造を試みたといわれるが、実際に製造した砲がアームストロング砲と同等のものだったかについては議論が分かれている。これは、アームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須であり、当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だった。当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは考えにくいためである。

 作れたとした司馬氏の小説の影響は大きいですが、佐賀藩の工業力、技術力は当時の日本としては優れていても実際問題として難しいのではないかの見方です。とくに砲身は当時世界最高峰のイギリスでも「やっとこさ」ですから、佐賀藩では「かなりどころでないぐらいシンドイ」ぐらいです。とくに

    実際に製造した砲がアームストロング砲と同等
 これは幾らなんでもとさすがに思います。「作れた」説を採用し小説化した司馬氏でさえ同等までは遠慮しています。これまたwikipediaですが、

 精練方に務めていた田中久重の記録によると、鉄製の元込式の6ポンド砲である。福岡日日新聞社の北島磯舟によると、32本の施条が刻まれていたとされる。

 どんな性能かは不明ですが、とにかく佐賀藩はコピー砲を使ったと考えて良いかと思います。その先について2つの仮説を考えて見ます。


仮説1 非実用化説

 砲身製造法の原理説明ぐらいは情報としてあったと考えています。それぐらいのヒントがないと作りようがありません。ただし情報は原理だけでノウハウまではなかったと見ます。軍事機密の指定は外れても、製造法のキモは企業秘密に該当するだろうからです。出来るだけ原理情報に基づいて作っては見たものの砲身の脆弱性は克服できなかったの考え方は成立します。

 もちろん試作砲は出来たのでしょうが、実際に試射するとドカンと爆発みたいな様相です。ここからは政治的・軍事的な配慮になりますが、これを作れた事にしたんじゃなかろうかです。動乱の時代ですから、佐賀藩がアームストロング砲を自作できると言う情報は大きなカードになります。形だけは何門か作ったにしても佐賀藩コピー砲は展示模型レベルであったと言うところです。

 ほいじゃ、彰義隊攻撃に使われたアームストロング砲はどうなるかですが、コピーのために購入した本物だったが考えられます。本物をコピーとして使用したです。だから2門しか参加しなかったんじゃないかです。もちろん本物であるのがバレないように外観上の偽装工作は為されていたと考えます。彰義隊の後に会津若松城攻めに参加したのも、やはりこの2門だったです。


仮説2 実用化不使用説

 アームストロング砲を調べていて思ったのですが、砲身の製造も困難ですが、砲弾の製造もかなり難しそうな気がします。前装式の四斤山砲なら、内腔より砲弾の方が小さいわけですから、砲弾の出来にムラがあっても

  1. 大きすぎる砲弾はそもそも装填できない
  2. 小さすぎる砲弾はガス漏れが増えたり、回転が悪くなるがとりあえずは問題なく発射できる
 これに対してアームストロング砲は内腔より大きい砲弾ですから、小さすぎる時はともかく、大きすぎると発射できず、そのまま自爆になりかねません。そこまでの精密加工技術が佐賀藩にあったのだろうかです。発射時に付着する鉛を除去する潤滑器も結構な工作精度を要するように感じます。

 当初は本物に近いコピーを作ろうとしたと思いますが、難題山積(そりゃそうだろう)でニッチもサッチも行かなくなってしまったぐらいの想像です。そこでコピーの方向性を実現可能の方向に変えた可能性を考えます。平たく言えば後装式の四斤山砲タイプのの作成への転換です。砲身はなるべくコピーするにしても、砲弾は使い慣れた四斤山砲弾タイプを使おうです。

 四斤山砲弾は口径86mmですから、64mmに合わせた小型弾を作り、砲身や尾栓の保護のために発射火薬の量も減らした可能性もあります。もちろん四斤山砲型ですから、発射時のガスの密封性はなくなり、砲弾の良質の回転も失われます。本物と較べると射程距離も射撃精度も格段に性能が落ちますが、鋼鉄製(つうか錬鉄製かな?)後装式を実用化した一点で十分に素晴らしい成果だと思います。とにかく砲撃は可能だからです。

 ただしこれでは四斤山砲を凌駕した性能とはとても言えません。砲撃間隔は後装式のメリットで上るかもしれませんが、砲弾が小さくなり破壊力もまた落ちるからです。射程距離もチョボチョボか、下手すると四斤山砲以下になりかねないところです。ですから江戸城や会津若松城に持っていったのは、やはり本物のアームストロング砲ではなかったかと推測します。当然砲弾も輸入品です。


四斤山砲からの推測

wikipediaから、

 明治時代に入ってからも四斤山砲の生産は大阪砲兵工廠で続けられた。より高性能な後装砲であるブロドウェル山砲やクルップ製の克式七珊半野砲なども輸入されていたが、これらは材料の自給が難しい鋼製火砲だったがゆえに主力火砲には選ばれなかったのである。四斤山砲は台湾出兵に使用されたほか、西南戦争では政府軍と西郷軍双方が四斤山砲を使用している。

 四斤山砲は戊辰戦争後も陸軍の主力火器ととして使われていたようです。これは佐賀藩がアームストロング砲を完全コピーできなかった一つの傍証のように思っています。佐賀藩は薩長土肥の一角であり、アームストロング砲の製造技術も新政府側に伝えられたはずです。つまり作れるものなら作っていたと言う事です。原料の問題もあったとは言え、少数でも作ろうと思えば作れたはずなのに、維新後も四斤山砲ばかりを作っていた事になります。

 それでも佐賀藩が実は作っていたかもしれないの話はロマンをかきたてます。ですから、あえて作っていないと結論せず「実は・・・」の話を花咲かせても良い気はしています。どちらにしても佐賀藩製の実物は現存していないようだからです。


さてアームストロング砲の威力は

 アームストロング砲で最大級のものは110ポンド砲です。これは1863年の薩英戦争と1864年の下関戦争に使われています。110ポンド砲と言っても砲弾は90〜109ポンドとなっていますが、キロに直すと40〜50kgぐらいです。この砲はトラブルこそ起こしましたが、威力は相当なものだったようです。一方で彰義隊攻撃や会津若松城攻撃に使われたのは6ポンド砲か可能性としての9ポンド砲です。6ポンドで2.7kg、9ポンドで4kgぐらいです。ちなみに四斤山砲は4kgです。

アームストロング110ポンド砲 上野で使われたとされるアームストロング砲
 話を単純化しますが、砲弾の威力はその重量と速度による破壊力と、砲弾内の炸薬の量に依存します。ここで幕末時にはまだ着弾信管は実用化の域に達しておらず、簡単に言えば導火線に火をつけて爆発させる方式です。イメージとしては砲弾がまずガツンと当たり、それから炸薬がドカンと爆発する感じになります。でもって炸薬は黒色火薬です。現代のTNTなどと較べると格段に爆発力は劣ります。簡単に言えば花火並です。

 110ポンド砲弾は炸薬量も多いので威力もあったでしょうが、6ポンド砲弾となると1/18ぐらいになります。砲弾の正確な炸薬量はわかりませんでしたが、アームストロング砲は砲撃時に砲弾にかかる圧力が大きいため四斤山砲弾に較べても頑丈に作る必要があるだろうと言う説があります。つまりはアームストロング砲の9ポンド砲弾は四斤山砲の砲弾と同じ重さですが、炸薬量は劣るだろうです。ましてや6ポンド砲弾なら「なおさら」と言うところです。射程距離が長い分だけ着弾時の終速は四斤山砲を上回るとも考えられますが、その後の爆発の破壊力は炸薬量に比例して劣るぐらいの見方です。

 現代で例えればせいぜい手榴弾程度(もしくはそれ以下)の威力ぐらいしかなかったんじゃないかです。アームストロング砲は上野の彰義隊攻撃では司馬氏の作品の影響もあり非常に効果的な威力を発揮したらしいとはなっていますが、会津若松城攻めではかなり印象が落ちます。たしかに会津若松城の建物の外観をボロボロにしてはいますが、相当数打ち込んだはずなのに天守閣は健在です。ましてや石垣になるとほぼ無傷としても良い気がしています。

 これは6ポンド程度(9ポンドでも!)では厚い壁を貫通する事は無理で、せいぜい浅く突き刺さって表面で爆発した程度の被害しか与えられなかったためではないかと考えています。四斤山砲に較べて射程距離、射撃精度、砲撃間隔に勝っているのは間違いありませんが、砲撃による破壊力は下手すると四斤山砲の方が上ではなかったかの見方です。

 幕末期のアームストロング砲は四斤山砲数門分以上の働きを示す事は出来た可能性はありますが、威力自体は四斤山砲とドッコイドッコイかむしろ劣っている面があった気がしています。司馬氏がアームストロング砲を非常に印象的に扱ったのは、薩英戦争や下関戦争での110ポンド砲の威力を6ポンド砲に投影したための気がしています。それが司馬氏の誤解であったのが、司馬氏一流のデフォルメであったのかは今となっては誰も確認する術はありません。