派手そうな読売の誤報

発端とされる10/11付読売記事です。本文だけ起します。

 あらゆる種類の細胞に変化できるiPS細胞(新型万能細胞)から心筋の細胞を作り、重症の心不全患者に細胞移植する治療を米ハーバード大学の日本人研究者らが6人の患者に実施したことが、10日わかった。

 iPS細胞を利用した世界初の臨床応用例で、最初の患者は退院し、約8か月たった現在も元気だという。ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった京都大の山中伸弥教授がマウスでiPS細胞を作製してから6年、夢の治療として世界がしのぎを削る臨床応用への動きが予想以上に早く進んでいる実態が浮き彫りになった。

 iPS細胞を利用した心筋の細胞移植を行ったのは、ハーバード大の森口尚史(ひさし)客員講師ら。森口講師は、肝臓がん治療や再生医療の研究をしており、東京大学客員研究員も務める。現地時間10、11日に米国で開かれる国際会議で発表するほか、科学誌ネイチャー・プロトコルズ電子版で近く手法を論文発表する。

 第1号の患者は米国人の男性(34)。男性は2009年2月に肝臓がん治療のため肝臓移植を受け、肝機能は回復したものの、今年2月に心臓が血液を全身に送り出す力が低下する「虚血性心疾患」を発症。回復が見込めなくなり、治療を受けることを決めたという。

 チームは、移植時に摘出し凍結保存してあった男性の肝臓から、肝細胞に変化する一歩手前の「前駆細胞」を採取。肝臓の前駆細胞を主な材料とし、細胞増殖に関るたんぱく質や薬剤を用いる独自の手法でiPS細胞を作製した。これを心筋細胞に変化させた後、特殊な冷却装置使った環境で大量に増殖させた。

 男性は心臓バイパス手術を受けた後、特殊な注射器で心筋細胞を心臓の30ヶ所に注入された。患者自身の組織から作製したので拒絶反応はない。細胞は定着し、心機能が徐々に回復、約10日後からほぼ正常になり、現在は平常の生活を送っているという。

 iPS細胞から作りだした細胞の注入は、開発途上にあり、安全性が完全に確立された技術と言えない。チームはブタの実験で安全性を確かめたうえで緊急性を考慮したハーバード大の倫理委員会から「暫定承認」を得たという。日本では、公的指針で動物実験を経た上で研究計画を立てて国に申請申請することが義務づけられ、今回のような緊急避難的な措置はできない。

 森口氏は、「計6人の患者にiPS細胞から作った心筋細胞を注入したが、異常は起きていない。経過を注意深く見守っている」としている。

 万能細胞から作り出した細胞の人への応用については、米企業が脊髄損傷で体の一部が動かなくなった人や網膜の病気の患者に対して、ES細胞(胚性幹細胞)から作った細胞を注入する臨床試験を行なっている。

それとこれはおそらく<関連記事3面>じゃないかと思いますが、

【ニューヨーク=柳沢亨之】あらゆる種類の細胞に変化できるiPS細胞(新型万能細胞)から作製した心筋細胞を使い、世界で初めて臨床応用した米ハーバード大学の森口尚史(ひさし)客員講師(48)は10日、この画期的な治療法を学会発表するため訪れたニューヨーク市内で本紙のインタビューに応じた。

 「患者さんは死の間際にある人たち。これしかなかった。この移植は確立したばかりの技術だが、患者さんの利益を考え、医者として前に進まなければならないこともある」と細胞移植を決断した心境を語った。

 森口氏によると、この男性患者(34)は、かつて肝臓移植を受けたうえ、重症心不全や糖尿病を発症し、他の治療法がなくなった。そこで、患者の肝臓から採取した細胞からiPS細胞をつくり、培養で大量の心筋細胞にして心臓に注入した。この心筋細胞は患者の心筋と同等の機能をもつことを事前に確かめた。培養は約45日でできた。

 この治療に関係する研究費用は約1億5000万円。起業投資家から集めた。森口氏は、「日本では税金が使われるから、成果を上げなければならないが、こちらでは投資家がリスクをとってくれる」「日本では、いろいろな規制があって実施できなかっただろう」と、新しい医療技術に対する日米の制度の違いを指摘。研究者側についても、「日本にも優秀でやる気のある人はいるが、結集しにくい。懸命に働き、本気で声を上げなければいけない」と述べた。

 森口氏は成功の背景として、「少人数の機動的な研究チーム」の結成を挙げた。同大やマサチューセッツ工科大で機械工学を学ぶ大学院生ら5人ほどが積極的に研究に参加し、心筋細胞の増殖に必要な「過冷却」技術を提供したうえ、この治療に関係する研究費用の調達を一手に担った。

(2012年10月11日16時02分 読売新聞)

検証をやりかけているうちに事態はドンドン進み、10/13付読売に、

 iPS細胞から心筋細胞を作り、重症の心臓病患者に移植したという森口尚史(ひさし)氏(48)の研究成果に疑義が生じている問題で、同氏の論文の「共同執筆者」とされる大学講師が論文の執筆に全く関与していなかったことが12日、読売新聞の調べで明らかになった。

 同氏の研究成果については、米ハーバード大の当局者や複数の専門家も真実性を否定していることから、読売新聞は同日、同氏の説明は虚偽で、それに基づいた一連の記事は誤報と判断した。

見事に読売は嵌められたと言うところのようです。


経歴とハーバー

これは東大HPから速攻で削除された紹介から経歴です。

年月 経歴
1995年3月 東京医科歯科大学 大学院医学系研究科修了
1995〜1999年 財団法人医療経済研究機構主任研究員・調査部長
ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院客員研究員
1999年8月 東京大学先端科学技術研究センター知的財産権大部門研究員
2000年10月 東京大学先端科学技術研究センター客員助教
2002年4月 東京大学先端科学技術研究センター特任助教


「東京医科歯科大 大学院医学系研究科修了」については10/12付中国新聞

森口氏は東京大病院特任研究員。東京医科歯科大で看護学を学び卒業、医師の免許は持っていないという。

で卒業と同時に所属したとされる財団法人医療経済研究機構は実在します。ただ現在の研究員紹介を見ると、

  • 研究主幹:1人
  • 研究部長:1人
  • 特別主席研究員:空席
  • 研究副部長:1人
  • 主任研究員:6人
  • 研究員:3人
1990年代には調査部長と言う役職があったのでしょうか。調査部長が現在の研究部長に当たるならNo.2のポジションに該当します。医療経済研究機構がどんなところかサッパリわかりませんが、新卒5年でそこまで昇進されたのでしょうか。確認する術はありませんでした。それでもってこれについて10/12付読売ですが、

 森口氏はハーバード大の「客員講師」を名乗っていたが、同当局者によると、同氏がハーバード大に属していたのは、1999年11月から2000年1月初旬までの1か月余りだけ。それ以降は、同大及び同大傘下のマサチューセッツ総合病院とは何の関係もなくなっているという。

東大HPに書いてあるのは略歴ですから、医療経済研究機構の主任研究員なり調査部長の時に2ヵ月足らずのハーバード客員研究員になったとしても、

こう書いても間違いとはいえませんが、かなり飾った感じはします。


読売との関連

ハーバードとの関連は森口氏の今回のカラクリの基なんですが、読売は今回の話に一発で引っかかった訳では無さそうです。2009年11月8日読売新聞「関西発」です。

この記事は山中教授のiPS細胞研究を取り上げているのですが、そこに有識者として森口氏が登場しています。

 山中教授への一極集中投資を疑問視するのは、米ハーバード大研究員も務める東京大の森口尚史特任教授だ。「iPS研究には、化学や数学など幅広い分野の研究者の参画が欠かせない。限られた研究者に資金が集中すれば、研究の遅れを招く」

少なくとも2009年の時点で読売は森口氏と接触し、森口氏の「ハーバード大研究員」の肩書きを鵜呑みし権威としてインプットしています。まあ「ハーバード大研究員」であると自称されれば、東大の特任教授(経歴的には特任助教授のはず)であるのは間違いないのですから「そうだ」と信じてしまうのは仕方がないかもしれません。そんな点で東大特任教授が嘘を言うとは通常は思いもしないからです。

でもって森口氏のiPS細胞の知識元はなんですが、これは天漢日乗様が調べだしてくれています。森口氏が出した論文に、

こういうものがあります。おそらく読売が記事にした
    同大やマサチューセッツ工科大で機械工学を学ぶ大学院生ら5人ほどが積極的に研究に参加し、心筋細胞の増殖に必要な「過冷却」技術を提供した
この部分のモトネタだと考えられます。森口氏の論文の結論部分には

 本論文では、まず、小児癌患者に対する核心的な治療法の開発基盤となりうる磁場下過冷却凍結法に関する最新の基礎的検討を紹介した。特に変動磁場が過冷却現象の促進と安定化に寄与することが証明されつつある点は特筆事項であると思われる。また、ラットの卵巣やラットの各種組織あるいはヒトiPS細胞の磁場下過冷却凍結実験から、変動磁場の過冷却に対する有効性が示唆された。

この時にiPS細胞に関する知識を仕入れたんじゃないかと考えます。でもって、ここからiPS細胞心臓移植の話を作り上げ、読売に売り込んだのではないかです。読売は2009年時点から森口氏を有識者と認めており、本社なりのデータベースで確認してもハーバード研究員と出てくるので、「特ダネだ!」とばかりに飛びついたです。


森口氏の狙い

わかんないですねぇ。単なる「うそつき」ぐらいで片付けるのが無難ですが、やり方が少々杜撰な気がします。日本で「何を研究しているかわからないハーバード研究員」の「自称」ぐらいならボロは出難いと思います。現実に10年以上ボロを出していません。ただ今回のネタは山中教授のノーベル賞で話題沸騰の旬にインパクトの高い話題ですから、「ホンマかいな」と確認する者が必ず出ます。誰が考えてもハーバードに確認する者が出てくると考えるはずです。

読売記者にしても、そんなすぐにバレるチャチすぎる嘘は「まさかつくまい」と信じ込んでしまったのは個人的に同情します。まあ、詐欺師は人の「まさか」の心理を利用して巨大な嘘世界を巧みに構築して人を欺くものです。とはいえ詐欺師の嘘は限定された人数を、限定された期間だけ騙してトンヅラすれば良いだけですが、今回はそういう性質のものとは思いにくいところがあります。

あえて動機だけを推測すれば、契約制の東大特任助教授の椅子が危なかったのかもしれません。何か成果を挙げないと椅子を負われる切羽詰った状態があり、あれこれ起死回生の策を考えているうちに自分の妄想の罠に、自分が絡め取られてしまったです。巻き添えを食った読売記者、読売新聞はえらい迷惑を蒙ったというところでしょうか。

人騒がせなお話でした。