福嶋隆史@ふくしま国語塾様のツイートより、
「慶應で」「法学を」学びたいわけでもないのに慶應法学部を目指す高校生、「早稲田で」「文学を」学びたいわけでもないのに早稲田大学文学部を目指す高校生。おまけに、「医学を」学びたくもなく医者になりたくもないのに医学部入る高校生もいるらしいからな。
書かれている事は正論です。この方のツイート をさらさらと読み流すと、この主張はキチンと主張を積み重ねられた上で行われている事もわかります。だから主張としては裏付け付きの正論であるとのは間違いありません。ただなんですが、さして目新しい事を言われているわけではなく、30年前の私の学生時代にも、ごくごく普通に言われていた事です。今日はここからの連想です。
人間には様々な天分があります。多種多様な才能を人間は持っていますが、その中に
-
試験勉強「だけ」が天分
- 中学高校時代(大学もかな?)に、そのレベルの知識量を遥かに凌駕してしまっている人
- 実社会でも充分な天分を持っている人
たとえば大学は本来の目的として、大学で専門的な知識を身につけ、それを社会人になって活用するところとしても良いかと思います。学部によって濃淡はあるでしょうが、基本的に社会人へのステップです。ここで試験勉強に天分がある人にとっては、その先は興味がないと言うか、関心の程度が下がると見ます。とにかく難関校の受験を突破する事が至上の目的になります。
本来的には社会人になるための手段であるはずの大学入試が目的化するです。これはそういう天分ですから仕方がありません。もちろん入学後も定期試験がありますから、天分は発揮されます。医学部を例にとると、昔と色々変わっているにしろ、専門分野の知識の習得度への評価が国試まで一連の物としてつながっていますから、入学後は国試と言う関門に向かって天分を存分に発揮される事になります。
色々と思い浮かべられる人物像があるかもしれませんが別に誰を想定している訳ではありません。今日の命題は、
-
試験勉強に「だけ」天分がある人が、その天分を発揮した事が良い悪いか
ただ優秀そうには見えるので他に天職がありそうに見える側面は出てきます。しかし実社会に出てからの天分は並かそれ以下なので、どの難関職業でも成るまでは容易ですが、実際に働くと「その程度」になるわけです。つまり難関試験を悠々と突破した優秀さが実社会の能力として反映されないです。
言い方によっては、そういう人々が試験の上位を占めることによって、実務になったら天分を発揮していたはずの人材が弾かれているとできない事もありません。冒頭で示した引用に該当する人の中に、こういう人々はそれなりに含まれている可能性はあると考えています。ただし本人自体はそんな自覚はまずないと思っています。
自分は「出来るはずだ」の思いは持っているはずです。そりゃ、試験勉強に天分があると言う事は、中学・高校・大学と成功体験を積み重ねていますから、次の社会人でも成功する以外を考えようがないからです。
自覚症状が無いなら客観的にこれを選別できるかと言えば、これもまた困難です。試験成績は文句のつけようもないものです。特待生になっていても不思議とは言えません。あくまでも実務に臨んだらやや能力が欠けるだけですから、こんなもの実務につかせてみないと判断しようがありません。まさか成績上位者の何%かを機械的にスポイルするわけにもいかないからです。実務でも試験でも優秀な人間も確実に存在し、これもまた少ないとは言えないからです。
一般に自分の天分を活かす事は善とされます。公序良俗に反するような天分は宜しくありませんが、試験勉強への天分の発揮はまったく公序良俗に反しません。またその後も学生時代の期待ほどには活躍しないとしても、社会の枠内で暮らせます。そういう人々の天分が一番発揮されるのは、それこそ難関校を突破して卒業されるぐらいまでです。
単にその後の能力が期待(それまでの成績)に較べてガクンと落ちるだけの話です。本人的には、それまでの成功体験から「これは選択した職業が・・・」的な思いを抱き、さらにそれを行動に出すかもしれませんが、本質的に天分の問題がありますから、正直なところ、どうしようもない気がします。どこに進んでも結果は似たり寄ったりと言う事です。
言い方は悪いですが、天分を存分に活かして学歴や資格取得まで活躍し、後はその遺産で残りの人生を押しきっていくライフプランとでもすれば良いでしょうか。当人はそんな気はサラサラないでしょうが、持っている天分の活かし方としてはそれが結果的に最善と言えます。ふとふと、そんな事を連想した次第です。