ロンドン五輪にちなんでの閑話です。第1回アテネ大会はどんな感じであったのだろうです。調べてみるとwikipediaが充実していましたのお手軽にやらせて頂きます。
JOCのオリンピックの歴史に書いてあったので簡単に紹介しておきます。古代オリンピックは紀元前776年のものを第1回とするようです。この辺は異論もあるかもしれませんが、あまり詮索しない事にします。間隔も当初は8年毎であったようで、
最も有力なのは、古代ギリシア人が太陰歴を使っていたからという説です。現代、一般的に使われている太陽暦の8年が、太陰暦の8年と3カ月にほぼ等しいことから、8年という周期は古代ギリシア人にとって重要な意味をもっていたのです。暦を司るのは神官であり8年ごとに祭典が開かれるようになり、後に半分の4年周期となりました。太陰暦では49カ月と50カ月間隔を交互にして開催されていたようです。
オリンピックの語源がギリシャのオリンピア地方にあるゼウスを祀る神殿の祭典であったのは有名ですが、この祭典が当初は8年周期であったと言う説のようです。実はオリンピアの祭典以外にもあり、4大競技大祭(ネメアー大祭、イストモス大祭、ビューティア大祭)とされたようですが、主神ゼウスのためのオリンピアの祭典がやがて別格視、神聖視されていったようです。
と書いてはあるのですが、ネメアー大祭も祭神はゼウスであり、歴史の流れによっては近代五輪もオリンピアの祭典(オリンピック)ではなく、ネメアーの祭典になったかもしれません。そうなればネメアピックとでもなっていたのでしょうか。ちいと語呂が悪い感じがしないでもありません。ま、慣れたら気にならないのかもしれません。
祭典に神に捧げる競技を行うのはギリシャ・ローマ時代を通じてポピュラーなものですが、当初の競技は1種目だけであったようです。これは第1回から第13回までそうであったとされ、単純に言えばかけっこ、格好よく言えば短距離走です。
どれぐらいの距離であったかもわかっており、1スタディオンであったとされます。1スタディオンとは、
ゼウスの足裏600歩分に相当し、ヘラクレスがこの距離を実測したとも伝えられています。
ヘラクレスが実測したゼウスの足裏とはさすがに古代ギリシャですが、約191mであったとされます。ではどういう競技場であったかですが、
オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」が築かれていました。スタディオンは長さ約215m、幅約30mの広場を高い盛り土がスタンドのように囲んだ施設(貴賓席として白い大理石のベンチも用意されていた)です。
でもってどんなんであったかですが、3000年近い歳月を耐えて遺跡として見ることが出来ます。
種目は14回までがスタディオン競争だけでしたが、
- ディアロウス競走:1スタディオンの往復(14回から)
- ドリコス競走:1スタディオンの10回程度の往復(15回から)
- ペンタスロン:五種競技(短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリング)(18回から)
NPO法人日本オリンピック・アカデミー公式サイト掲載 穂積八洲雄訳 国際オリンピック委員会の百年 第1巻 第1章が面白かったのですが、近代オリンピックと言えばクーベルダン男爵になります。もちろんそれで間違いないのですが、それ以前にギリシャで古代オリンピア復活運動があり、悪戦苦闘の末に1859年、1870年、1889年の3回がとにもかくにも行われ「ギリシャオリンピック大会」と呼ばれるそうです。
悪戦苦闘の原因は紆余曲折の末に国の協力が得られず、民間の主催競技として行わざるを得なかった点であったようです。それでも開催に漕ぎ着けられたのは、ザッパスと言う大富豪が全面的な協力を惜しまなかったためとなっています。その辺の事情が、
当時の外相ランガベスは、スポーツなどアナクロニズムだと思い込んでいた。結局、古代の競技は博覧会の会場内で、それも民間の行事として行うことを許された。1859年、最初のギリシャオリンピック大会が開催された。費用はザッパスが全額支払った。
実際に行われた競技は、
競技は〈プロフェッショナル(本職)〉と〈プロフェイン (素人) 〉の2つのカテゴリーに分かれて行われた。当時は、まだ〈アマチュア〉という言葉は知られていなかった。 競技は、短距離競走、槍投げ (距離と的当て) 、円盤投げ (高く投げる) 、それに戦車競走で、市外のプラテイア・ルードビクー広場で行われた。
第1回、第3回は失敗であるとなっていますが、第2回は3万の観衆を集めたとなっており成功と記されています。興行としては失敗としても、第3回のギリシャオリンピック大会は1889年であり、近代オリンピックの7年前の事です。クーベルダンの動きとは別ですが、こういう動きが第1回アテネ大会に結びついて行ったと見ることも出来そうです。
クーベルダンの近代オリンピックにおける功績は誰でも称賛するところですが、称賛されるぐらい大変あった事が国際オリンピック委員会の百年には連綿と書かれています。当時は国際競技連盟が今のように整備されていると言えず、各種競技といえども国内団体があるに過ぎなかったところが多かったとして良さそうです。ですから一つの競技を行うにしても、各国の競技団体を説き伏せていく作業が必要であったです。
それとごく近代まで続いていたアマチュアリズムの問題もあります。当時であってもスポーツ競技会はありましたが、プロとアマがおり、アマはプロを非常に蔑ずんでいたです。とくに当時の最有力国のイギリスはいち早くアマチュアリズムが確立していた面があります。イギリスは近代スポーツ発祥の地でもありますが、当時の国力も相俟って非常にプライドが高く、クーベルダンも散々手を焼いています。近代スポーツとは単純化すればプロとの一線を厳格に引くみたいな面があったようです。
そんなクーベルダンが構想していた第1回大会の競技です。
彼は大会プログラムについての考えを説明し続ける。彼は種目を三つのグループに分けた。
次に、水上スポーツ、ヨットとボートはファレロス湾で行われる。自転車とさまざまゲーム(クリケットとローンテニス)はアテネの平野で開催されるだろう。
ちょっと寄り道なんですが、わざわざクーベルダンの以前の話まで遡っているのはすべては、
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ザッペイオンとはなんぞや?
そいでもって現在でもザッペイオンは今でも存在します。
正面から | 全景 |
ザッパスの金の余った分は、ザッペイオン「クラブハウス」の建設に使われた。クラブハウスは、アテネの中心にあるナショナルガーデンの真ん中に建てられた。
これが1870年頃のお話のようです。最初からこの規模の建物だったのか、それとも増改築が重ねられて現在に至るのかは不明なんですが、ここでは第1回のアテネ大会のための会合が幾度か行われていますし、会場としてもクーベルダンは期待されているのはわかります。
ザッペリオンの謎がそれなりに解けたところで、次に進みます。クーベルダンが構想していた競技は
11競技であった事がわかります。これが実は諸説あります。
- 欧米先進国の14ヶ国。選手は男子のみで280人。(JOC)
- 13カ国、295人(クーベルタンとオリンピック第1回アテネ大会 京都産業大学文化学部国際文化学科 古久保 光)
- 欧米の14カ国から245人が集まった(2012.5.1付産経)
選手は新聞記事や大学の掲示板で募集された
当然ですがNOCなど成立していませんから、参加も国に呼びかけるというより、国の競技団体に呼びかけるものになり、競技団体も各自に選手を募ったを表していると見て良さそうです。寸前まで参加選手、参加国の動向が不明だった様子はオリンピック100年からですが、クーベルダンのお膝元のフランスでも、
クーベルタンはクック社とメッサジェリーマリティム社(船会社)を説得し、1896年のオリンピックを見に行く旅行者に特別料金を提供させた。しかし呼びかけに応えたフランス人は少なかった。政府の補助金が出てフランスチームの編成が可能になった。
他の国々も様々で、
ドイツでは、ベルリン駐在のギリシャ大使、ランガーブ氏が、ゲップハルト博士にアテネ大会へのドイツの参加のための委員会をつくるよう説得した。ゲップハルトは主だった人々から好意的な反応を得たが、中でも帝国首相の息子、プリンス・ホーエンローエ・シリングスフュルストの支持をえた。
1894年のコングレスに参加しなかったドイツに対して、反ドイツ的な立場をとってきたクーベルタンに対しては、猛烈な反クーベルタンキャンペーンがあった。しかしそれにもかかわらず、ドイツはアテネのオリンピック大会に参加することになる。
イギリスでは状況は更に悪かった。クーベルタンは沢山のイギリスの新聞に書いたが、返ってきたのは、丁重な皮肉なコメントだけであった。イギリス人明らかに、汎イギリス大会を望んでいた。スウェーデン、ハンガリー、アメリカでは、それぞれブラック、ケメニー、スローンのお蔭で、クラブチームを結成するのは非常に容易であった。
しかしベルギーではそうではなかった。オリンピック大会のための国際委員会の新しいメンバー、ブシー伯爵は、依然としてスポーツに対して敵意を持つ体操連盟の影響を受けた世論に直面しなければならなかった。
ロシアでは、ブートウスキーが「酷い無関心」に出会った
てな具合で大会直前、いや大会になっても果たして何人選手が集まっているのか正確には把握し難かったのかもしれません。これは産経記事にも書いてある有名なエピソードですが、
テニスは旅行で滞在していた英国人が革靴をはいて2冠を達成したほどだ。
参加国数も13カ国説と14カ国説があるのは、第1回大会の参加は個人参加となっていたため、国籍を超えてのチーム編成があり、それもあってカウントの仕方が変わるためではないかと思われます。それと開催国の参加人数が多いのは今も同じですが、第1回は地元ギリシャが200人を超えていたという説もあります。これも参加人数を複雑にしている要因になっているかもしれません。
クーベルダンの強い意思で第1回大会は開催されますが、インフラも、各国の参加熱意も、オリンピック委員会の財政基盤も組織運営も、またホスト国ギリシャの財政も危うい中で「強行」の名が相応しいものであったとも書かれています。オリンピック100年には、
第一回オリンピック大会は陰謀や、兵姑の欠如にも係わらず開催された。
敵意を持つ競技種目も一時的に矛を収めていた。しかし国際委員会は弱体で、ほとんどクーベルタン一人がその肩に支えていた。将来は不確かであった。クーベルタンは次の世代を考えなければならなかった。
だからこそクーベルダンは称えられるのですが、参加人数としては245人でも、280人でも、295人でも、小ぶりの小学校の運動会並であったと言うところでしょうか。
メイン会場といえば陸上競技場になるのですが、これも今でも残っています。2004年のアテネ大会でも一部の競技で使われましたが、
ただ陸上競技者にとって、非常に使いにくいスタジアムであったようです。どうも作る時に古代オリンピア大会からのスタディオンの要素と、近代トラック競技の要素を折衷して取り込んだみたいだからです。古代のオリンピア競技場は直線路が基本で、長距離になっても往復で距離を延ばしています。あくまでも私の推測ですが、当時のギリシャ王国は古代のスタディオンを再現しようとしていたと見ます。傍証もあり、オリンピック100年に
皇太子は、100メーター以上の、400 、800 、1600メーターのレースは、古代ギリシャで「平らな土地」で行われた徒競争、スタジオン、ディアウロス(2スタジオン) 、ドリコスに照応するものであると述べた。
ところが近代陸上競技となると困るの意見が後から出てきたように思っています。選手はトラック・コースを走るものであるみたいな感じです。でもって折衷されて出来上がると、二つの直線路を強引に繋ぎ合せた様なトラック・コースが出来上がることになります。非常に急角度の短い曲線路で構成されていたため、猛烈に走りにくかったと伝えられています。トラックの設計だけでなく、
古代オリンピックと同じようにつくられた競走用の砂のトラックはとてもよい記録がでるようなものではなかった。
それでもメイン・スタジアムは近代五輪のスタートに相応しい立派さはあったとして良いでしょう。
フェンシングは上記したザッペイオンで開催されています。ここも相当立派そうな建物であったと思われます。ただクーベルダン構想では射撃もザッペイオンで行われるはずでしたが、wikipediaには「カリテア」と書かれています。カリテアはどうも地名のようで、アテネの南部地域のようです。それ以上はよく判りませんでした。
水泳はゼーア湾となっていますが、オリンピック100年より、
水泳プールはなかった。ゼアの小さな湾にしつらえられた原始的なプールであった。
どんなものだったのか想像する他ありません。体操もあるのですが、これも屋外、たぶん陸上競技場で行われたはずです。体操が屋外競技として行われるのは、その後も続き、私の記憶に間違いなければ1936年のベルリンでもそうだったはずです。ついで言うと重量挙げも体操競技に含まれており、含まれていると言う事は屋外競技だったと言う事です。
テニスは日本テニス協会によると、
記念すべき五輪第1回のテニス競技は、自転車競技場の中につくられたコート
自転車競技場が作られたらしいのはわかりますが、ついに自転車競技場がどんなものであったのかは確認できませんでした。どんなものかは不明ですが新設したのだけは間違い無く、オリンピック100年に、
新聞は、スタジアム、射撃場、水泳場の工事の状況について伝え
こうなっています。それとなんですが、どうやらサッカー場も作られていたようです。作られていたのか既設であったのかもハッキリしないのですが、オリンピック100年に、
ピレウスから吹いてくる風が巻き起こすスタジアムとサッカー場の埃が厄介な問題であった。施設は、一日1万ドラクマかけて日に3回水で洗い流さなければならなかった。
文意からすると新設っぽいですが、いずれにしてもサッカーは行われていません。
行われた競技は
8競技43種目
どの文献でもなっています。クーベルダンの提唱と実際の実施競技を表にして見ます。
クーベルタン構想時 | 第1回大会 | 種目 |
陸上競技 | ○ | 100m、400m、800m、1500m、マラソン、110mハードル、走高跳、棒高跳、走幅跳、三段跳び、砲丸投、円盤投 |
体操競技 | ○ | 鉄棒、平行棒、あん馬、つり輪、綱登り、跳馬、平行棒団体、鉄棒団体 |
ウエイトリフティング | ○ | 片手ジャーク、両手ジャーク(なお当時は体操の1種目扱い) |
ヨット | △ | 悪天候のため中止 |
ボート | × | * |
クリケット | × | * |
ローンテニス | ○ | シングルス、ダブルス |
ボクシング | × | * |
レスリング | ○ | グレコローマン |
フェンシング | ○ | フルーレ、フルーレマスターズ、サーブル |
射撃 | ○ | 200mミリタリーライフル、300mミリタリーライフル、25mラピッドファイアピストル、フリーピストル |
馬術 | × | ギリシャに競馬場と馬がいないため除外 |
なし | 競泳 | 100m、500m、1200m、100m潜水 |
なし | 自転車 | 個人ロードレース(87km)、スプリント、333mタイムトライアル、10kmレース、100kmレース、12時間レース |
実は競技を見ながら思ったのですが、クーベルダンはフランス人です。一方で当時全盛期でもあったイギリスは積極的には参加していない様子が窺えます。そのせいかどうかは不明なんですが、距離表示がすべてメートルです。これは当時も既にそうでったのかどうかについては、私の調査の手が回っていません。もし距離表示が揺籃期であり、クーベルダンではなくイギリスが主体で行われていればヤード・マイル表示になった可能性もあるんじゃなかろうかです。
後はその後に消滅した競技ですが、重量挙げの「片手ジャーク」つうのも凄そうな競技です。また自転車の12時間耐久レースと言うのも壮絶みたいです。自転車競技はロードレースを除いてトラックレースですから、12時間もトラックをグルグルと回り続けていた事になります。ひょっとしたらオリンピック史上で、もっとも長時間の種目みたいな気がします。
ただ過酷(そりゃそうだろ)であったようで、100kmレース(優勝タイム 3時間8分19秒2)も、12時間レース(優勝記録 314,997km)も表彰者は完走した2人のみになっています。
後は現在に続く競技で、比較的条件の近いものです。陸上競技が割りと近いと思うのですが、トラック競技は路面が砂であったため比較はしないとして、跳躍系はまだしも条件が近いと見ます。
走高跳はちょっと感心しました。当時は確かバーを飛び越える時に頭から先に超えてはならないのルールがあったはずです。現実にも着地地点は現在のクッションではなく、単なる砂場ですから危険であったのも確かです。ですからいわゆる正面跳(はさみ跳)であったはずで、それで1m81cmは結構凄い記録の様に感じます。あんまり陸上には詳しいとは言えませんので、御存知の方がおられれば宜しくお願いします。余談ついでにwikipediaから、
財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与された。
ここについてオリンピック100年では、
ギリシャの色、白とブルーの紙の巻物が参加賞として全ての競技者に与えられた。
全ての種目の一位と二位に、銀と銅のメダルが与えられた。フランス人、ミッシェル・ブレアルが提供した銀のカップは美しい工芸品であった。大金持ちのジャン・ランボスが奉納した古代の壷(ヘラノディカイ・審判員の目の前を走るドリコドローム)は、スピリドン・ルイスに与えられた。オリンピアの岡のオリーブの技と月桂樹の葉がオリンピックの勝利者の冠を飾った。
第1回までの道程は険しいものであり、第1回大会の競技レベル、実施競技、施設整備も十分とは言えなかったようです。しかし大会は成功と総括されています。開催都市アテネの市民、開催国ギリシャの国民は熱狂をもって応えたです。その後も近代五輪は草創期の苦闘の歴史を刻みますが、今に続く成功を収めています。
それにしても第1回大会の参加者たち、優勝者たちは100年の歳月を越えて、その名が刻まれ、語り伝えられると想像していたかと思うと楽しいところです。ではではこれにて休題。都合により、明日は休載にさせて頂きますので悪しからず御了承下さい。