世に不安ビジネスの華は咲くなり

太古の人類のサバイバル

人間には危険予知と言うか危険察知能力はあると思っています。これは理屈ではなくあくまでも感性の話になりますが、多くの人がそれなりに経験があると思います。いわゆる「なんとなくやばそう」の感覚です。もちろん当たりハズレの精度の幅は広いですが、絶対にないと言い切るのは難しいと思います。

この危険察知能力のベースが不安感だと考えます。「やばそう」と思うセンサーは「どうも不安である」とニア・イコールだと見ます。もちろんこれは感性だけではなく経験の上にも立ってはいますが、すべてが経験だとは言い難いところです。

この不安に対する敏感度ですが、太古の人類のサバイバルに起因しているんじゃないかと考えます。厳しい生活環境の中で太古の人類は常に生死の危険に曝されていたと思います。乏しい情報量で生死に関る重大な選択を常に迫られていたです。選択のための情報は限られているため、最後は「勘」が判断の鍵になります。事は生死に関りますから、そういう「勘」すなわち危険察知能力が優れた人間が生き残り、現在の人類の繁栄を築いたです。


ただなんですが太古に於ても危険察知能力の優越者のみが生き残ったと思いにくいところがあります。あんまりその辺の時代に詳しいとは言えませんが、人類は相当初期からコミュニティを築いていたはずです。平たく言えば集団です。そんな集団の危機が迫った時に危険察知能力のある者が不安を感じて意見を提唱すると想像します。

その時に集団の残りがこれに賛同するかどうかの問題が起こります。太古の危機ですから判断を誤れば生死に直結しますから、従ったものは生き残り、従わなかったものは死滅するぐらいの状況は幾多となく繰り返されたんじゃないかです。

危険察知能力者といえども100%の確率であたったはずもありませんが、ある危機的状況に対し

危険察知能力者 行動 意見の結果 行動の結果
危機に対する意見 従う アタリ 生き残る
ハズレ 死滅する
従わない アタリ 死滅する
ハズレ 生き残る


大雑把な分類表ですが、この表の前提は危険察知能力者の能力はかなり高いと考えてください。生き残るパターンは2つで、
  • 危険察知能力者の意見がアタリ、これに従った者
  • 危険察知能力者の意見がハズレ、これに従わなかった者
アタル確率が高い前提ですから、従わずに生き残るにはたまたま危険察知能力者の意見がハズレた時のみです。さらに危機的状況は1回で終るわけではなく、それこそ何度も何度も繰り返される事になりますから、危険察知能力者だけではなく、その意見に従う者が確率高く生き残ると考えます。

表では単純に死滅するとしましたが、なんとか生き残った者のうち危険察知能力者の意見に従わなかった者は次の危機的状況には従うようになります。一方で危険察知能力者の意見がハズレ、これに従わずに生き残った者は、従わないをくり返して生き残る確率はドンドン小さくなります。また意見に従わない者は、別のより優れた危険察知能力者の意見に従ったケースも多いとも考えられます。

例外はもちろんあるでしょうが、太古の人類で生き残った者のかなり多くの部分は、危険察知能力者の意見に従った者であると私は考えます。危険察知能力者の意見とは「不安」であり、不安を唱える者、それも強くそれを訴える者のの意見に同調する事が太古人類の生存競争において非常に有利であったと推論します。


太古の記憶の産物

かなり力技でしたが太古の人類のサイバイバルとして、他者の不安に同調しやすい傾向が一つの側面としてあったとまず仮定します。あくまでも率の問題ですが、危険に対する不安に同調した方が生き残りに有利な時代が相当期間続いたと考えます。もちろん不安に同調して失敗する事もあったでしょうし、同調しなかった事で逆に生き残る事もあったはずですが、成功体験としては同調した方が比較的有利であったと言うぐらいの仮説です。

この傍証としては、古来より流言飛語に人類は非常に動揺しやすいと言うのが確実にあります。もう少し身近な例を挙げると「キモ試し」です。「キモ試し」も幾多のスタイルがありますが、とくに集団で行う時が典型的で、ごく一部が恐怖への不安を出すと残りの人間に速やかに波及します。1人が「キャー!」と叫ぶと残りの者が一斉に逃げ出してしまう状態を想像してもらえればと思います。

不安に対するセンサーは、不安がより具体的にありそうな時にさらに強化され、誰かが危険察知のサインとして「不安」を口にすれば一斉に同調するのが「正しい選択」であるとの無意識の判断がどこかに植えつけられていると私は思います。心理学的には集団心理とでも言うのでしょうが、集団心理が不安に一斉に傾き安いのは、そうする方が咄嗟の判断としてサバイバルに有利であるの太古の記憶の産物の様に思います。

不安があればとりあえず逃げるのがサバイバルに有利であったと言えば良いでしょうか。立ち止まって不安を確認するというリスクは、死に直結する危険性もあり、生き残るためには「不安があればまず逃げる」が一番との無意識の刷り込みです。不安が危険でなくとも、逃げておけばとりあえず生き残る結果に変わりはないです。


現代の不安

現代の生活は太古に比べ格段に安全な物になっています。衣食住の充実度は比較するのもアホらしいぐらいです。それでも不安に対するセンサーは常に張り巡らされていると見ます。これも傍証ですが、これだけ安全な社会になっても人は不安ネタにすぐに飛びつきます。私の子供の頃から周期的にベストセラーになる、巨大な社会陰謀論とか、世界終末予言とかが典型と思っています。

もうちょっと卑近な例で言えば、健康関連の書籍、さらにテレビ番組もそうです。あれは健康に対する不安を呼びかければ、いかに多くの人が靡き易いかを端的に現していると思っています。まさに現象と言う感じで、ある日突然、納豆が売切れたり、トマトが店頭から消えたりします。現在なら放射能と言うキーワードがあるだけで、どれだけの反応を巻き起こすかを考えれば良いと思います。

現代であっても人は不安に同調しやすく、いや同調する事により生き延びてきた太古の記憶を脈々と受け継いでいると私は見ます。


不安ビジネス

危険察知能力ですが、これを客観的に計れる指標はありません。あえて言えば実績になります。太古に於ては目に見える実績ですが、時代が下ると実績は段々見え難くなります。社会が安全になれば、その能力を実績として示す場面が少なくなるからです。

人が不安に靡きやすい集団心理を持っているのは、見える人には見えるものであったと考えます。そこでそれを利用しようとする人間も当然出てきます。生活が安全になれば本当の危機的状況などなく、同調する多数派に本物かニセモノか見分けられる実績が存在しないのですから、やろうと思えばニセモノでも危険察知能力者であると名乗れます。


不安ビジネスとは、ニセモノがいかに本物の危険察知能力者であるかの演出がカギになります。まるで本当に危険を察知する能力のある者であるように演出すると言うわけです。この演出が巧妙であるほど、不安への同調者は激増し、ビジネスは安泰と言うわけです。

そのために不安ビジネスの演出者は様々な手法を取ります。ひたすら強弁で断言を繰り返し「強さ」をアピールするのもあります。これは震災後によく見られた手法で、強弁の上で反論をレッテル貼りで封じ込め一時は強大な同調勢力を築き上げていました。いや、今でも相当強大と感じています。

他にはもっともらしいデータを捏ね上げるというのもあります。「統計は作られる」の言葉通り、様々なデータから自分の不安主張に都合の良いデータのみをピックアップしてモザイクの様に組み上げるです。たいした予備知識も無しに読めば、凄い理論構成のようにも感じますが、検証するとアラだらけで読むに耐えない代物になっています。

当然の様に反論が出てくるのですが、これに対しても新たなモザイク作業で再反論らしきものを捏ね上げます。不安ビジネスの演出者にとって、別に全員を同調させる必要はなく、モザイク理論でビジネスが成立する程度の同調者が確保できれば十分だからです。細かい科学論争に持ち込まれても、「あんたのデータは信用出来ない」とか「私の理論ではこうだ」と頑張っておけば、知識の薄い同調者は不安が強い方になんとなく靡くです。

強弁型もモザイク理論型も同調者が集まってしまえば扱いが厄介になります。それこそ「ああ言えば、こう言う」式でいくら正論を並べようとも、ほんの一点でも反論者側に曖昧な点があれば、そこを針小棒大に騒ぎ立て、自分の不安理論こそ危険察知の不安そのものであるの印象補強に逆利用されてしまいます。なんと言っても理論で決着をつける気はサラサラなく、反論者の存在さえ自分の宣伝材料、不安印象の補強材料にするなど朝飯前の作業だからです。


ゼロリスク

不安ビジネスにも弱点はあります。確かに人は不安に同調しやすいですが、一方で平安を求める心理も矛盾するようですが確実にあります。不安は感情ですが、平安を求める心理は理性として良いかもしれません。四六時中、常に不安では今度は人間の感情がもたないためと考えます。どこかで平安と言う休息がないとやってられないぐらいとすれば良いかと思います。

不安ビジネスを長持ちさせるためには、理性により平安に戻ろうとする同調者を引き止める必要があります。つまり新たな不安刺激の拡大再生産です。殆んどの不安ビジネスは拡大再生産中に頓挫して消える事が多いのですが、中にはドンドン拡大再生産が進行してしまうものもあります。そうやって進んでいった一つの終着点がゼロリスクだと考えています。

世の中の殆んどの事にはメリットとデメリットがあります。私は小児科医ですから、薬剤一つとってもそうです。重症化、さらには死に至るような病気を治せる薬剤であっても、デメリットは確実に存在します。投与時にはメリットとデメリットを勘案し、メリットがデメリットを遥かに上回るの判断で投与しています。しかしデメリットは確実に存在し、発生するのが現実です。

そこのデメリットのみに焦点を当て、極限まで拡大して不安を煽り同調者を集める手法がゼロリスクだと考えています。これに対し反論者はメリット部分を強調するのですが、デメリットの存在を認めざるを得ません。反論者がデメリット部分を認めればしめたもので、ゼロリスク論者はここにのみ焦点をあて、ひたすら不安を煽り続ける事が出来るわけです。

メリットへの反論? そんなものはモザイク理論でも強弁でも問題ありません。とにかく目に見える不安がある事がポイントであり、そこだけの不安による同調者さえ確保できれば不安ビジネスは展開できます。


不安ビジネスのタネは無尽蔵

かつてゴールドラッシュと言う時代がありました。一攫千金を求めて多数の人間が金鉱に群がったのですが、実際のところ掘り出した金で財を為した者は殆んどいなかったとされます。一番確実に儲けたのは、金鉱掘りが見つけた金を安く買い叩いた仲買人と、さらに金鉱掘りが金の代わりに手に入れたマネーを使わせた酒場なり、売春宿なり、日常雑貨屋なり、食料品店であったとされます。

不安ビジネスも類似の構造があって、新たな不安金鉱が見つかればそこに人は群がり、群がったところにビジネスチャンスを見出す人間もまた群がるです。本物の金鉱と違い不安金鉱は無尽蔵にあります。小さな不安金鉱なら短期で消滅しますが、たとえば放射能不安のような巨大金鉱が出現すれば、群がる人も、さらにそれを食い物にする人も膨れあがると言う事です。

世に不安の種が尽きないのと同じように、その不安を食い物にする不安ビジネスもセットの様に横行します。そしてそれに同調する人間も必ず群がる様に現れます。そういう不安ビジネスが幾度となくくり返され、そういう歴史を笑うものでも、新たな次の不安金鉱に対する不安ビジネスが出現すれば、ヒョイヒョイと乗ってしまわない保証はどこにもないと言う事です。

皆様もご一緒に、

    わかっちゃいるけど やめられない♪
お粗末さまでした。