記者の感覚

12/11付msn産経west関西事件史「附属池田小児童殺傷(7)監禁された先輩記者」

よりです。池田小事件そのものについては今日は置いておきます。注目したいのは記者の感覚です。まず冒頭です。

大阪教育大附属池田小学校の児童殺傷事件からまもなく1年になろうとしていた。平成14年6月某日の夜。私は必死になって、金づちを振りあげる元死刑囚、宅間守の父親の太い腕を押さえていた。

 「この野郎、邪魔するな!」

 「やめてください!」

最初サラッと読んだ時には事件当時の取材の様子かと思いましたが、よく読むと事件から1年後の取材の様子である事が確認できます。でも何故に元死刑囚の父親が金づちを振り上げる理由がわかりません。理由も明記してあり、

 こうなったのには理由がある。2人は事件後、宅間の人物像や生い立ちを追いかける「宅間班」で一緒に取材をしていたが、鈴木が父親から「絶対に書くなよ」と念押しされていたエピソードを記事にしたからだ。

 「もう忘れてるやろ」

この

    「もう忘れてるやろ」
は文脈からして記者の言葉と解釈できます。親子関係は色々あったとかもしれませんが、父親にとっても衝撃的な事件であり、決して忘れられない出来事であるのだけは間違いないと普通は考えそうなものです。それでも記者の感覚では1年もすれば忘れているに違いないと確信できるようです。

よく人間は「踏みつけた方は忘れるが、踏みつけられた方は忘れない」と言いますが、記者の感覚としては「踏みつけた方が忘れれば、踏みつけられた方は余裕で忘れる」ないしは「踏みつけた方が忘れたと思えば、踏みつけられた方は忘れなければならない」そういう感覚が記者には不可欠の様に思えます。



次は事件当時の取材の様子です。

まず最初に駆けつけたのが、宅間が住んでいたアパート。事前に聞いてはいたが、報道陣による荒らされ方は想像を絶していた。記者やカメラマンがあふれかえり、道行く人や近所の人に声をかけてもまったく相手にしてくれない。他社の記者にもすでにあきらめムードが漂っていた。宅間がその前に住んでいたアパートもよく似た状況だった。

ごく素直に驚くのですが、

    報道陣による荒らされ方は想像を絶していた
荒らした事に対しては一片の感情も無いように感じます。そりゃ、現行犯逮捕の犯人のアパートであるとは言えますが、だからと言って想像すら絶するような荒らし方をしても良いかは別問題の様に感じます。ちょっと怖い感覚です。そういう事が当然と思うような人々には、
    道行く人や近所の人に声をかけてもまったく相手にしてくれない
こういう反応になってもまったく不思議ないとは思いますが、記事を読む限り単に取材するに当たって「困った」以上のものを読み取るのは困難そうに思います。これぐらい無頓着であるのも記者の感覚として必要な要素だと思います。



次も事件当時の取材風景です。

 対応してくれたのは若い男性従業員。当然、「契約者の情報を漏らすわけにはいかない」ときっぱりと断られたが、簡単に引き下がるわけにはいかない。どれほど悲惨な事件で、報道する意味があるのかを必死に訴えると、従業員は「上司に聞いてくる」と言い残し、事務所の奥に入っていった。

 私の懇願にほだされたのか、それとも単に不注意だったのかは分からない。テーブルの上に「契約書」と書かれたファイルが置き去りになっていた。この状況で盗み見ない新聞記者なんているのだろうか。どきどきしながらファイルを開くと何ページ目かに宅間の名前が目に飛び込んできた。

 住所を丸暗記し、ファイルを閉じてから1分もたたないころ、従業員が戻ってきた。「申し訳ありませんが、やはりお答えできません」。心の中ではお礼を言いながら「そうですか…」と残念そうに装って事務所を後にした。外に出ると、ハイヤーに飛び乗った。

ここは元死刑囚の住所を調べる取材裏話です。不動産会社に住所を聞きだした状況の描写になります。不動産会社と記者のやり取りについて、記者としての取材術としてはアリの内に入るかとは思います。これぐらいはやっているとは想像の内ですが、こういう取材の裏話を公表するセンスが記者の感覚と感じます。

結果的に情報を提供した不動産会社は、記者も感じた様に最大限の好意を示したのかもしれません。であっても顧客情報を流出させる行為は宜しくないのは間違いありません。また盗み見た記者の行為もまた宜しくありません。不動産会社が示した好意への絶対的な交換条件は、そういう阿吽の呼吸の情報漏洩を棺おけまで持っていく事であったと私は考えます。

つまり住所を探り当てたのは不動産会社経由の情報漏えいではなく、記者がなんらかの手段で探り当てたにしておいて欲しいです。そういう事に念を押せる状況ではありませんから、口にはしていません。それでも最終的に「申し訳ありませんが、やはりお答えできません」との返答で、それぐらいはわかるだろうの判断であったと思うのですが、記者の感覚ではそうではないようです。



この記事を読みながら思ったのは、記者たるものの感覚として、

  1. 取材対象に都合の良い忘却力を無条件に期待する
  2. 自分の行なった行為に無頓着でいられる
  3. 念を押されようが、違法行為に触れようが、見聞きした事はいつでも平然と手柄記事にする
どれも人としてあまり嬉しい感覚ではありませんが、1.や2.は残念ながら多くの人が多少は持っている感覚と言えるかと思います。後は個人のキャラと職業特性の関係で強く出るか、抑制的に出るかの問題の様にも感じます。記者という職業はかなり強めに出る職種ぐらいの理解で良いのかもしれません。良いとは言えませんが、完璧な人格者なんてそうはいませんから、「そんなもんなんだ」ぐらいで考えないといけないのかもしれません。


しかし3.は嫌ですね。これも記者という職業柄で理解するにしても、人として接するのは避けたい人々になります。別に3.を行ったにしても必ずしも法に触れないのかもしれませんが、人としての信用と言う点において頂けません。単なる口約束、暗示としての約束であったとしても約束は守ってこその信用です。

まあ、それでもこういうタイプの方々は世間には記者以外にもおられます。いわゆる「口の極めて軽い人」です。どれだけ念を押しても、いや念を押されれば押されるほど話して広めたくなるタイプの人です。俗に「歩く拡声器」とか「人間スピーカー」とか揶揄される秘密を絶対に守れないタイプの人々とすれば良いでしょうか。

そういう人々は本人の自覚は別として、周囲の人間は「信用出来ない人」として取り扱われます。漏れてはならない秘密の相談相手として決して選ばれないと言う事です。そりゃ、ウッカリ聞かれたらあっと言う間に隠しておきたい秘密が公然の秘密になり、さらには尾鰭を付けた周知の事実に変わってしまいます。そんな人に秘密を委ねるのなんて愚かな選択は普通はしません。

そういう人々の利用法として、密かに広めたい事実を広める時にのみ利用価値が見出されます。話せば広がるのが約束された人たちなので、その場で「これは内密」の口約束など何の歯止めにもならないからです。利用価値は有るにはあるのですが、扱い難いと言うか、扱いの程度がその程度になってしまうのは致し方ないでしょう。

それでも面白いのはそういう人々自身はそういう扱いになっている事の自覚が非常に乏しいと言うか、殆んどないケースが多い様に感じています。逆に他人からの信用は非常に厚いと信じて疑わないところもあるように思えます。世の中うまく出来ているのかもしれませんねぇ。