日曜閑話41

今日のお題は「陸軍の戦闘機」です。とは言うものの書いてみたら海軍の話にも適当に広がっているのは御愛嬌と思ってください。また、この手の話題は軍ヲタないしは戦史マニアのスノブ知識合戦になるのですが、閑話ですからたまには良いぐらいにさせて頂きます。私はさほどではありませんから、wikipediaクラス(つうよりwikipediaそのもの)の知識で話を紡がせて頂きます。

最初の実戦

第一次大戦で戦車と並ぶ新兵器として華々しく活躍した飛行機ですが、日本で制式採用されたのはどうにもはっきりしません。昔見た映画で、第一次大戦中に日本が青島要塞を攻略した時に飛行機が活躍していた記憶があります。なんつうても映画であり古い記憶なんですが、wikipediaには、

第一次世界大戦に参戦した各国軍隊がそうであったように、日本軍は初めて飛行機を戦闘に投入した。陸軍は有川工兵中佐の元にモ式二型4機、ニューポールNG二型単葉1機、気球1、人員348名を集めて臨時航空隊を編成した。海軍は世界で初めての水上機母艦である若宮を運用して、モーリス・ファルマン式(以下モ式)複葉水上機を投入した。「若宮」の搭載モ式は大型1機と小型1機を常備し、小型2機は分解格納された。海軍航空隊(指揮官山崎太郎中佐)は9月5日に初出撃を行った。一方のドイツ軍はルンプラー・タウベを偵察任務に投入した。パイロットはフランツ・オステル飛行家とギュンター・プリュショー中尉である。青島のタウベは1機のみであったが、スケッチによる日本軍陣地観察でドイツ軍30?要塞砲に射撃目標を提示し、日本軍を悩ませた。日本軍はタウベが飛来するたびに隠れなければならなかった。日本軍はドイツ軍偵察機の排除に乗り出したが、9月30日に「若宮」が蝕雷して日本に帰投し、海軍航空隊は砂浜からの出撃を余儀なくされるなど、完全に水をさされた。10月13日、タウベを発見した日本軍は陸軍からニューポールNGとモ式、海軍からはモ式2機が発進し、空中戦を挑んだ。タウベの機動性は日本軍のモ式を圧倒的に上回っていたが、包囲されかけたため、二時間の空中戦の末に撤退した[3]。これが日本軍初の空中戦となる。10月22日にもニューポールNGとモ式がタウベを追跡したが、翻弄されて終わった。日本軍は急遽、民間からニューポール機とルンプラー・タウベを1機ずつ徴用して青島に送ったが、運用が始まる前に停戦を迎えた。

投入された航空戦力は、

  • 陸軍


    • モ式二型(モーリス・ファルマン MF.7)4機
    • ニューポールNG二型単葉1機


  • 海軍


    • モーリス・ファルマン式(以下モ式)複葉水上機(大型1機、小型3機)
これに対してドイツ軍はルンブラー・タウベ1機であったようです。読んでおわかりのように数で勝る日本軍でしたが、戦闘経過はたった1機のドイツ軍機に歯が立たない結果になっています。読みようによってはのどかな空中戦を展開していたようです。あえて戦術的に特筆されるのは海軍が水上機母艦を出撃運用した事ですが、まだまだ熾烈な空中戦には程遠い時代のようです。

日本で最初に採用されたのがモーリス・ファルマンないしニューポールであったのかどうかは見解で変わるでしょうが、実戦で最初に用いられたのだけは確かそうです。日独両軍の勇姿を紹介しておきます。

日本軍(モーリス・ファルマン MF.7) ドイツ軍(ルンブラー・タウベ)

国産機生産へ

青島攻略戦が1914年の事ですが、戦力規模からしても飛行機は実験戦力の範囲を出ていなかった様に思われます。日本が飛行戦力の強化に乗り出したのはやはり第一次大戦の後と考えるのが妥当そうです。wikipediaには次に制式採用されただけではなく、ライセンス生産された3つの機種が挙げられています。

  • 丙式一型戦闘機(スパッドS.XIIIC1)
  • 甲式三型戦闘機(ニューポール24C1)
  • 甲式四型戦闘機(ニューポール・ドラージュNiD.29C1)
丙式一型と甲式三型は1921年制式採用でどうやら購入のみ、甲式四型は少し後のようですが、ライセンス生産も行われ、中島飛行機が608機、陸軍砲兵工廠が46機を生産したとなっています。甲式四型戦闘機の勇姿も紹介しておきます。
甲式四型戦闘機
(ニューポール・ドラージュNiD.29C1)
青島で用いられたモーリス・ファルマン MF.7がライト兄弟の面影を残しているのに対して、甲式四型は第一次大戦の花形機の様相に進化しているのがわかります。


ところで明治以来の陸海軍、とくに陸軍の基本精神として武器は国産にするというのがあったそうです。もちろん武器の開発生産技術を育成しておくのは必要なことではありますから、妙な方針ではないのですが飛行機に関しては、さすがに当初は輸入に頼らざるを得なかったようです。ただいつまでも輸入では宜しくないとの方針で、甲式四型の後継機は国産の方針を立てたようです。wikipediaより、

1927年(昭和2年)に日本陸軍は、次期主力戦闘機の開発を、中島、川崎、三菱、石川島の4社に命じた。各社は外国から専門家を招聘して設計を進めた

1927年時点では国産ではありましたが、設計まで国産にする事はまだ無理だったようで、設計技師は招聘されたようです。4社競作の審査結果は、

1929年(昭和4年)、4社の試作機が完成して比較審査が行なわれたが、各社の試作機は次々と不調を起こし

設計が悪かったのか、それとも日本の工作技術が設計に追いついていなかったのか不明ですが、結局のところ正式採用となった中島の試作機でさえ垂直降下試験中に空中分解を起こしたとなっています。それでもどこを見込まれたのか不明ですが、1931年に中島製が制式採用され、91式戦闘機として342機(一説には444機)が生産されています。

91式戦闘機(中島)
スタイルとしては単葉機ですが、見た感じ仕上がりの悪いセスナ機みたいに見えます。発動機も国産で「中島ジュピター7型星型9気筒 空冷レシプロエンジン」とはなっていますが、これもwikipediaから、

かつてイギリスに存在したブリストル飛行機が1923年(大正12年)に開発したジュピターのライセンスを中島飛行機が獲得し生産していた為、これを参考にしている他、同じくライセンス生産していたプラット・アンド・ホイットニーのワスプエンジンなどの影響も受けている。

独自開発と言うより改良と言う感じです。もちろん技術開発の初期には模倣から始まりますから、中島を責めるのは筋違いで、模倣改良であっても国産で作った事が当時的には重要なポイントであったと考えています。


中島はフランスからアンドレ・マリー技師を招聘して91式戦闘機を作りましたが、川崎はドイツ人技師ヒャルト・フォークトを招いています。91式の採用では敗れましたが、その後も改良を進め1932年に92式戦闘機として採用されています。これは満州事変勃発により飛行機の需要が増したためとされています。もう一つ92式が採用した発動機がBMWが開発したBMW VIを川崎で改良した国産の「ベ式五〇〇馬力発動機」です。

この発動機は水冷式で陸軍の思惑として水冷式発動機の育成もポイントされていたともなっています。ただ日本の水冷式発動機の発達は苦戦を重ね、第二次大戦を通じても、安定した能力を発揮させるところまでには達しなかったようです。生産数は385機とされていますが、画像を紹介しておきます。

92式戦闘機(川崎)
91式に較べると無骨になったと言うか、ずんぐりムックリな感じで、進歩したかどうか画像からは判別し難いのですが、中島と川崎の争いは91式、92式の後継機争いでも起こります。川崎は92式をさらに改良した95式で中島に競り勝ち588機を生産しています。
95式戦闘機(川崎)
これスタイルとすれば進歩していると素直に思います。かなり優秀な機体であったようで、wikipediaから

日中戦争初期の陸軍の主力戦闘機で、無類の運動性を利用して戦争の初期においては中国国民党軍のソ連製I-15戦闘機などを圧倒する活躍をみせた。

国産オリジナルへの進化

川崎の95式は改良が重ねられ「究極の複葉機」まで言われたそうですが、時代は複葉機から単葉機に変わります。91式も単葉ですが、全金属性の低層単葉機の時代が訪れる事になります。これについては海軍が先行し、陸軍が複葉の95式を採用しているのを尻目に三菱の96式艦戦を採用します。陸軍も低層単葉機の必要性を認め、当初は海軍の96式艦戦の採用を企画します。

ところがこの話は結局潰れます。なんとなく陸軍と海軍のプライドの問題のような気がしないでもありませんが、改めて中島、川崎、三菱に競作を命じますが、三菱はやる気なし、川崎は空冷エンジンの不安定さから却下され、中島の1937年に97式が採用されます。

96式艦戦(三菱) 97式戦闘機(中島)
同じような機体なんですが、陸軍の97式の方が後から採用されたためかさらに改良されているそうで、性能的には「96式 < 97式」であったとされます。


ノモンハンの教訓

ノモンハン事変は日本軍が歴史的な大敗を喫してしますが、航空戦に於てはやや様相が違います。ソ連軍が当初導入したI-15は複葉機であり97式どころか95式でも既に敵ではなくなっており、勝負にならなかったとされています。続いて投入されたI-16も基本的に重戦闘機で格闘戦は不得意で、当初は軽快な運動性能を誇る97式に歯が立たなかったとされます。

これに対しソ連はI-16を改良して対抗します。防弾装甲を強化し、優速を利用した一撃離脱戦術を取られると97式でも楽勝と言えない状態に陥ったとされます。97式の武装ではI-16の重武装型に対して分が悪くなったとしても良さそうです。

この戦訓により陸軍の戦闘機は次期主力戦闘機導入に対し2つの方向性が出来たとされます。

  1. ノモンハン序盤の格闘戦の優勢の思いから運動性が優れた戦闘機を重視
  2. 防弾装備の必要性
運動性重視は97式の後継機選定を巡って問題となり、若干の紆余曲折があったようですが、第二次大戦が始まると言う戦局の要請でウヤムヤになっているようにも思えます。ただ運動性重視のために当初の武装が機首の7.7mm機銃2門だけであったあたりに残されているのかもしれません。防弾装備についてはwikipediaより、

帝国陸軍ソ連軍を相手としたノモンハン事件の戦訓から航空機の防弾装備の重要性を痛感しており、これら次期主力戦闘機のみならず、九七式重爆撃機(キ21、1939年の初期量産型時点から防漏燃料タンク・防漏潤滑油タンクを装備。1943年中頃からはさらに防弾鋼板・防弾ガラスを追加装備)や、九九式襲撃機(キ51、1939年の試作時点からエンジン下面・操縦席下面・背面・胴体下面・中央翼下面に6mm厚の防弾鋼板ならびに、防漏燃料タンクを装備)といった主力重爆撃機・襲撃機(攻撃機)などでも相応の防弾装備を要求している(九七戦も太平洋戦争開戦時には防漏タンクに換装済)。

この防弾装備重視の姿勢は、海軍の零式艦戦と陸軍の1式戦のその後の運命に若干の差が生じる事になったようです。基本的な飛行性能は零式が優秀だったのは周知の事ですが、米軍の戦闘機の性能が上ると零式も1式も対応が迫られます。これはもう国力の違いとしか言い様が無いのですが、米軍が次々とパワーアップした新型機を大量投入してきたのに対し、日本は開戦当初からの零式、一式で対抗せざるを得ない状態になります。

零式、1式以降も新型機は作られましたが、どれも量産と言うレベルには達せず、数だけ量産できても粗製濫造の嫌いがあり、大戦末期まで主力は零式、1式の改良に頼る状況です。この改良の結果ですが、wikipediaより、

最後期に量産された三型では、同時期の零戦が火力、防御力の無理な増強による重量の増加で相対的に飛行性能を落としていたのに対し、上昇力・運動性が優越した機体になっていた。これは本機が計画段階(キ43試作機、のちの一型)から早くも防弾対策として、被弾時の燃料漏れによる着火を防ぐために外装積層フェルトの防漏燃料タンクを装備し、二型ではさらに防火性に優れる外装積層ゴム(セルフシーリング)に換装、また量産途中(1943年6月)からは操縦席背面(操縦者の頭部と上半身を保護)に装甲として厚さ13mmの防弾鋼板を追加装備たのに対し、零戦は計画段階から防弾対策が全く施されておらず、1943年末から1944年にかけて五二型でようやく後付けしたことも大きい。

計画段階から防弾装備を施していた1式に対し、零式は防弾装備を犠牲にする事で性能を稼ぎ攻撃力を強化していたと言えばよいのでしょうか。発動機はほぼ同じとして良いですから、発動機の能力を防弾装備に割くか、飛行性能・攻撃力に割くかの発想の違いです。零式の卓越した運動性能は防御力を犠牲にして得られたものであり、これに防弾装備を追加すれば、その分だけ飛行性能が確実に低下したとも見れそうです。零式は完成時にもう余裕がなかったとも言えそうです。

一方で1式もさほど余裕のある機体とは言い難いかもしれませんが、改良による負担増は零式に較べて少なく、最終的に零式を上回る性能になったとも言えそうです。もっともだから陸軍が偉かったと言うほどの差かと言うとこれまた微妙で、旧式化が目に見えているのに、新型機に有効にモデルチェンジできないと言う状況で起こった結果論に過ぎないとも考えます。

一式戦二型(中島)

発動機

それとなく伏線として発動機の話を混ぜていたのは、ここに話を持っていこうの意図があった事は白状しておきます。しかし残念ながら複雑すぎてまとめ切れませんでした。詳細に解説してあるサイトもあるのですが、正直なところ詳細すぎてまとめきれない感じです。

そこで大づかみな感覚だけで書かせて頂きます。航空機の性能を大きく左右するのは発動機の能力ですが、馬力を上げようとするとエンジンが巨大化します。クルマのエンジンと同じで、大馬力を出すには大排気量が必要で、大排気量となれば発動機は大型化する関係です。しかしクルマと違って航空機は空力抵抗が大きな問題になりますから、発動機を巨大化して馬力を上げてもそれを空力抵抗が食い潰す関係があると見ます。

ほいじゃ、小型高性能エンジンを開発すれば良いと言う事になりますが、言うはやすしで、無理な高性能を搾り出させれば、スペック上の性能は上っても、実用での安定性を欠く事になります。兵器ですから、ある程度以上に安定して動いてくれないと困ります。

第2次大戦の開戦時期には主要国の発動機はおおよそ1000馬力級です。日本もそこまではなんとか肩を並べています。1000馬力級からのパワーアップには技術的な困難が多々あったようです。過給器の問題、マルチシリンダー化の問題等々です。その点を当時の陸海軍は消極的に捉えていたような気がします。つまり戦闘機の発動機の性能は、1000馬力級からそうは変わらないだろうの見通しです。

技術的なスルーの布石として水冷(液冷)発動機の開発も行われていましたが、これがモノに出来ませんでしたから、空冷1000馬力級の枠内で戦闘機としての性能アップを考えたと言うわけです。

戦闘機には攻撃力と防御力の2面があり、さらには航続力も日本では地理的な要因もあって重視されました。海軍は攻撃力と航続力を重視して防御力に目を瞑る選択を行ったと考えています。とくに攻撃力は20mmと言う強大な武装を整備したため、この攻撃力に対抗する防御を施せば「飛べたもんじゃない」と考えたと言う説があります。一方の陸軍は防御力と航続力を選んだとしても良さそうです。

とにかく1000馬力級と言う限られた条件では、どのポイントも満足できるものを作るのは無理で、とくに海軍の零式の防御力軽視は極端であり、極端であったからこそ、当時の他の戦闘機を圧倒する性能を誇示できたとしても良いかと考えています。


しかし戦史がどうなったかは御存知の通りです。アメリカは零式のような戦闘機を作るのではなく、大出力の重戦闘機を作る路線に向います。余裕の2000馬力路線です。2000馬力を超える余裕の出力で重武装、重防御の戦闘機を投入してきます。軽快な運動性能だけでは日本機は対抗できなくなったと言う事です。日本も小型高出力の誉発動機を作るには作りますが、スペックだけで実用品とは言い難いものであったとしても良いでしょう。

小型にすると言うのは基本的に大きな無理があり、さらに精密な工作技術も必要ですが、その点ではまだまだ脆弱な日本の工業力でした。さらに言えば、発動機を実用レベルに熟成させるためには時間が必要なんですが、開発競争で遅れを取っていた日本にそんな余裕はなかったとしても良いかと思います。

誉発動機(中島)
大戦末期の名機と呼ばれる疾風も紫電改も誉発動機のカタログデータを基に作られたとしても良いかと思います。誉発動機がカタログデータに近い数値を発揮すれば、おそらく本当に高性能だったでしょうし、米軍機にも対抗可能であったとは思います。しかし動かしてみなければ「わからない」状態であり、さらに発動機も機体も工作技術が低下する一方となれば、どうしようも無くなったと見ています。

もちろん誉発動機が奇跡の様に完成品仕様で出来上がっていても、米軍機の損害が多少増えた程度で終っていたかと言われれば、そんなものの気がしないでもありません。ちょうど大戦末期のドイツが連合軍機を遥かに凌駕するMe262をギリギリで実用化しましたが、その程度では大勢挽回が出来なかったのと似たような状況です。


と言う事で今日は休題にさせて頂きます。どうか、お盆をゆっくりと過ごせる方はお過ごしください。ブログもしばらくお盆休みとさせて頂きます。