実名原理主義によるネット世界

周期的に出ると言うか、ネットを実名にしたい人が執念深く論を垂れると思っています。そういう人を実名主義者と呼びたいのですが、これでは実名でネット活動をされている人をすべて含んでしまいそうなニュアンスになるので、区別する意味で実名原理主義者と呼びたいと思います。定義をしておいた方が良いので、

    ネット活動をすべて実名で行なう様に強要する主義者
ネットは自由なところですから、個人の意志と判断で実名で活動される事にはまったく異議はございません。同時に匿名(今日の場合はHN)で活動するのも、個人の意志と判断でまったく自由です。この原則である限り、実名であろうと匿名であろうと気にも留めません。そうでなく実名で属性も明らかにして、すべて発言せよの論者はどうも肌が合いません。


話を6/7付読売記事に振るのですが、

中学教諭、ツイッターに「職員会議中」「眠い」

 兵庫県姫路市の市立中で、男性教諭(48)が昨年から今年にかけて、生徒の様子を無断で動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿したり、勤務時間中にインターネット上の簡易投稿サイト「ツイッター」に書き込みをしたりしていたことが分かった。

 教諭は市教委に対して、「軽率な行為で生徒や保護者に申し訳ない」と謝罪。市教委は「個人を中傷する内容ではなく悪質性は低い」とするが、地方公務員法の職務専念義務などに反しており、不適切な行為だったとして処分を検討している。

 市教委によると、教諭は昨年9月13日から今年5月31日まで、昨年3月の卒業式前に、校内で合唱の練習をする生徒を撮影した動画を生徒らに無断で投稿した。生徒の斜め前から撮影しており、個人が特定される内容だったという。

 また昨年1月21日から今年1月20日まで、勤務時間中に「職員会議中」「眠い」などとツイッターに計10回書き込んでいたという。

 生徒の間で教諭の動画投稿などがうわさとなり、教諭は5月31日に動画、6月2日にツイッターの書き込みを削除。保護者から1日に市教委に通報があり、発覚した。

この記事の内容は職務中にネットの書き込みをしていたのが問題視されたと言うお話です。別になんの変哲もないお話ですが、これが実名原理主義によるネットの世界を象徴していると私は感じます。

ネットに書き込みをすると言うのは全世界中に情報を発信しているのと同じです。これはネット利用の大原則のひとつです。全世界中に情報発信を行なうと言えば格好が良いですが、言い換えれば誰でもその発言をチェック可能と言う事です。ごくごく基礎的な技術を覚えれば、「いつ」「誰が」「どんな発言」をしたかを監視出来ると言う事です。

全世界には情報発信者の上司、利害関係者すべてを含みます。実名で情報発信を行なうと言う事は、上司なりにその発言内容を紙に書いて渡しているのと実質的に同じです。いくら本人の意識的に「ここだけの話」と思っても、上司なりはネットから発言を容易に見つけ出しチェックし管理する事が「いつでも」可能になると言う事です。

リアル社会で「今日は無礼講だ」とか「君の本音を素直に話したまえ」とか言われて、これを額面通りに受け取って行動する人はいません。そんな事をすればどうなるかを知らないようでは、社会人として生きていけません。たとえば「今日は無礼講だ」も、これを発言した上司なりの人間が、自分が思う範囲の「無礼講」をするだけの話であり、部下は上司の無礼講ルールの空気を読んで振舞うに過ぎません。

本気で無礼講をやれば、最悪「クビ」になるのはクドクド説明するほどの事ではありません。社会では上司なりの感情の部分は小さくありません。ヒソヒソ話がばれただけでも深く根を持って対応される事が、非常に珍しい事例と考える人は極楽トンボです。片言隻句と言えども注意しておかないと、どんな落とし穴が待ち受けているのかわからないのがリアル社会です。

実名原理主義のネット社会とは、そういうリアル社会の秩序をそのまま持ち込むものだとするのが妥当です。私は御免蒙りたい世界です。そういう世界は一握りの強者がすべてを取り仕切る世界であり、リアル社会では必要悪として認めざるを得ないかもしれませんが、ネットにまで持ち込まれるのは堪忍してくれです。どんなに実名原理主義者が否定しても必ずそうなります。そう「君の本音を素直に話したまえ」と同じ状態です。


ネット情報にもデメリットはテンコモリあります。このデメリットをリアル社会の秩序を持ち込んだから解消できると考えるのは痴人の夢です。少なくとも持ち込んで解消できるほど、リアル社会が完璧だと到底思えないからです。そもそもリアル社会の発言がそれだけ自由なものなら、ここまでネットは栄えないとしても良いと考えます。

実名原理主義者は、ネット社会のデメリットのみを抽出して害悪論を展開します。理論は単純至極で「害悪は排除すべし。排除して清浄なるネット社会を形成させるべきだ」です。私だってネットの害悪が成長して欲しいと思ってはいませんが、そのために清浄化を受け入れるとなれば話は完全に別です。実名原理主義者の言う「清浄化」とは監視による物言えぬ世界そのものとしか考えられないからです。

実名原理主義者にとってネット世界とはリアル社会の一部であり、リアル社会の一部であるから、リアル社会の秩序が敷かれるのが正しい方向性であると確信している様に感じてなりません。これは私に言わせれば勘違いも甚だしいと考えます。

ネット世界はは既に一つの社会を構築しています。リアル社会と別の一つの社会が出来ていると考えるべきです。そこにはリアル社会の価値観での「害悪」もあるでしょうが、リアル社会では実現不可能なメリットも数え切れないぐらいあります。ネット世界もリアル社会と同様に綺麗な部分もあり、また汚い部分もある大きな社会であると言う事です。

社会と言うのはどんなものであれメリットしか存在しないようなものはありません。メリットには必ずデメリットが伴い、メリット・デメリットの差引勘定とバランスで存在しています。またある時代にデメリットと考えられていたものが、時代の価値観が変わればメリットになる事もあり、またその逆もいくらでもあります。

世の中は清濁が混在しており、なおかつ新たな時代の原動力になるのは清い部分より、濁った部分から生まれる事が多いものです。むしろ清いとされる部分は価値観の硬直化から現状維持に走りやすく、世の活力を衰退させる事すらあります。考え方として、濁った部分の余計な活力を制御しようとするのが清い部分の役割であり、全部清くしてしまえば「水清ければ、魚棲まず」になります。


実名原理主義者はFacebookの成功をネット上の実名のメリットとして喧伝します。あれも私に言わせればネット世界の一部に過ぎません。ネットの匿名ネットワークだけでは限界がある部分があり、そこを補うために生まれたツールに過ぎないと思っています。Facebook内はネット上での実名のメリットを最大限に活かそうとするものですが、そのメリットはFacebook外でも同等であると考えている人間はどれほどいるかです。

利用の仕方はそれぞれでしょうが、Facebook内での実名の顔と、Facebook外の匿名の顔を使い分けても、ネット社会では問題にすらなりません。



まあ、まあ、ネット社会の数年先がどうなっているかなんて本当のところ予想もつきません。実名原理主義に基いて動いているかもしれませんし、そうでないかもしれません。それでも現時点では実名原理主義の主張も、それに反対する主張も、実名やリアルの属性に関係なく水平関係で行えるのがネットの良いところです。

最後の蛇足みたいな話ですが、ネットはリアル社会に較べて遥かに水平社会で、実名であろうが、匿名であろうが「誰が」より「内容」が重視されます。内容の素の評価がネットの基本だと感じています。ネットでの素の評価で生まれるのは序列ではなく軽い敬意程度であり、これは実名で情報を発信されても同様かと思っています。

こういう気風を私は大好きですが、好きと感じるか、感じないかもネットでは自由です。ただ自由と言うのは安全とか安心と同意義語ではありません。自由よりも安全・安心を重視したい人間と、安全・安心より自由に重点を置きたい人間の議論は、これからも断続的に続くとは思っています。