尾藤公氏を悼む

和歌山県箕島高校高校野球ファンにとって和歌山の名門です。では高校自体が名門であったかどうかですが、ここを見る限り普通の県立高校みたいです。学校の沿革を見ても1907年に起源を求める事が出来る歴史を持っていますが、旧制中学以来の伝統校ではなく地元の実用学校として発展した高校である事がわかります。

そんな箕島高校に1人の男が、野球部監督として就任します。wikipediaによると、

和歌山県有田市に生まれる。箕島高校では4番で捕手を務める。近畿大学中退後、銀行員となる。1966年箕島高校監督に就任。

う〜ん。この経歴ならば教師としてではなく、監督として就任した事になります。今は知らず、当時の箕島高校の野球部といったところで、田舎のどこにでもある公立高校野球部に過ぎなかったはずで、野球部OBである事と、たまたま郷里に帰って来た事でOB会にでも頼まれたのでしょうか。私学の野球部強化のためとは条件が雲泥の差であることは間違いないかと思います。

ただ就任時に運命の出会いを果たします。後にプロで251勝の記録を残した大投手である東尾修氏との出会いです。東尾は既に京都の名門である平安高校への内定が決まっていたそうですが、これを口説き落として箕島高校に入学させます。これは1/24付スポニチからですが、

がん闘病中で欠席した元箕島高監督の恩師、尾藤公氏(68)からは録音メッセージが寄せられ「ミカン畑の道を一緒に歩きながら“甲子園へ行きたいなあ”と話したことを思い出す。殿堂入りなんて、すごいなあ」と声が流れると、東尾氏は目頭を押さえた。

あくまでも「たぶん」なんですが、当時の東尾は和歌山中学野球界の怪物だったと想像しています。怪物投手が進学した高校は甲子園出場の確率が高くなりますから、同世代の野球部員はその動向に非常に注目していたはずです。その東尾が無名の箕島に入学したのニュースは和歌山中にすぐに響き渡ったはずです。尾藤氏もまた東尾獲得をテコにして、有望選手のスカウトに走り回ったと考えています。

その努力は1968年に実を結び、箕島高校はついに選抜出場、ベスト4まで進む事になります。ではその時のチームが東尾のワンマンチームであったかと言うと、確かに東尾はエースで4番でしたが、尾藤監督のこういう言葉がwikipediaに残されています。

この年(1968年)のチームが最強であり、優勝できなかったのは自分自身の経験不足のため

尾藤氏の野球部強化は決して東尾におんぶに抱っこ状態ではなく、その他のレギュラーの底上げが確実に行われていたことがわかります。その成果は1970年選抜で島本講平を擁して優勝を果たした事で示されます。野球強豪校箕島の誕生です。成績を示します。

1968 ベスト4
1970 優勝 出場
1972 出場
1973 出場
1977 優勝
1978 ベスト4 出場
1979 優勝 優勝
1980 ベスト8
1982 ベスト8
1983 出場
1984 出場
1989 出場


通算成績は、
  • 春:出場8回・22勝5敗・優勝3回(1970年、1977年、1979年)
  • 夏:出場6回・13勝5敗・優勝1回(1979年)
1970年代から1980年代にかけて、和歌山はもちろんの事、全国にその名を轟かせることになります。箕島野球、尾藤野球とも言われ、箕島が甲子園に出場するだけで「何かやるんじゃないか」の恐怖感を相手に抱かせたとすれば言いすぎでしょうか。当時だって私学の野球名門校は、甲子園ともなればひしめいていました。その中で公立高校野球部で存在感を示していたのは、蔦文也監督率いる徳島の池田高校と双璧だった思っています。


箕島野球の特徴を語れるほどのものではありませんが、当時の強豪池田と較べると少しわかりやすくなります。池田はパワー野球で高校野球界を席捲しましたが、箕島野球はちょっと違います。むしろ池田以前の高校野球の色合いが濃かったと思っています。たとえば広商野球とかです。

優勝したときのイメージが強烈なのでとくにそう記憶しているのかもしれませんが、まず守備は鉄壁でした。こう書くと守備が目立ったような気がされるかもしれませんが、そうではなくて守備で破綻するイメージが微塵も無かった事です。そして小技が実に上手かった。出たランナーを大事に、大事にして点を毟り取り、これをガッチリ守って勝ち抜く感じです。ですから接戦のゲームに実に勝負強かったと記憶しています。

優勝した大会も圧勝に次ぐ圧勝で勝ち進んだというより、厳しい接戦を勝ち抜いての印象が強く残っています。有名なのは星陵との延長18回(見てました)ですが、接戦であっても小差の劣勢であれば「何かを起こす」の不安感を常に相手に抱かせる野球であったと記憶しています。


もうひとつ、尾藤監督で有名なのは「尾藤スマイル」です。これも由来があるようで、これもwikipediaからで申し訳ないのですが、

若い頃はスパルタ指導で鍛え上げたが、成績が伸び悩んだ1970年代前半に信任投票により一度監督を退く。その後はボウリング場に勤務し、その接客などで人間的にいろいろ学んだ。再び箕島高校野球部監督に復帰してからは、選手の助言もあって、練習の厳しさは変わらないものの試合中はいつも笑顔で接するようになった。

おそらくこのエピソードは、1973年から1977年の間のものと推測しています。当時は尾藤氏に限らず、強豪野球部の監督はほぼ例外なく「鬼」でした。鬼に最後までついてこれたものだけがレギュラーになる指導法とすれば良いでしょうか、尾藤氏もその手法で1970年に選抜優勝を飾っているわけですから、かなりの自信を持っていたはずです。

ところが成績が振るわなくなり、何かを悟ったのだけは間違いありません。当時の鬼監督システムは高校野球だけではなかったのですが、当時の鬼監督でも真の名監督とされるものは、ユーモアと微笑を絶やさない一面があったのは確かです。プロ野球で言えば故仰木監督みたいな感じでしょうか。

仰木監督の練習は熱血ゲンコツ野球の西本幸雄氏の直伝とされ、壮絶に厳しかったとされますが、西本氏のように近寄り難い恐ろしさではなく、常にユーモアと微笑を絶やさないものであったとされます。尾藤氏も厳しさと微笑を両立させる指導法のコツをどこかでつかんだと考えています。

どこかで読んだ記憶があるのですが、練習中の指導は猛烈に厳しかったそうですが、いざ甲子園に挑むと選手のミスを責めることなく、むしろ「オレが悪かった」として選手に謝ったとされます。甲子園なりに連れて行くのは監督の仕事だが、出場した甲子園は選手のためのものとしたとの事です。


享年68。また昭和が一つ遠くなった気がしています。謹んで御冥福を祈りたいと思います。あの熱かった甲子園の記憶に感謝しながら。