読売新聞・中沢直紀記者

2008.05.19付読売新聞東京夕刊より、

[記者ときどき私]スルー力

 ネットの掲示板やブログを通じて誰でも情報発信できる時代。新聞記者もネット上で批判にさらされることがある。先日、ある投資トラブルを記事にしたところ、関係者に私の名前を挙げられ、「悪質な誤報」「不正報道」と非難された。

 事実に基づく批判なら少々あしざまに書かれても仕方がない。しかし多くは根拠のない内容で、しばらくは釈然としない気持ちが収まらなかった。そんな時、取材で「人気ブロガー」から聞いた対処法を思い出した。

 アクセス数が増えれば、中傷やデマも多くなる。すべてをまともに受けとめていたら、精神的に参ってしまう。だからそんな書き込みは気にせずに、ある程度聞き流す。彼らはそれを「スルー力(りょく)」と呼んでいた。

 ブロガーの1人はこうも言う。「厳しい意見の中にも、ハッと気付かされる部分が含まれている。大事なのは少々の雑音には目くじらを立てず、参考になるものを謙虚に受け入れる姿勢だ」

 玉石混交のネット空間。どう向き合うか、彼らの所作に学ぶべき点が多いように感じた。(中沢直紀、33歳)

前半部は中沢記者の体験談である事がわかります。どんな経験かと言えば、

  1. 投資トラブルを記事にした
  2. 関係者にネットで批判された
今どきありふれた経験かと思います。この批判に対し中沢記者は、

多くは根拠のない内容

こう反論し、「釈然としない気持ちが収まらなかった」としています。よく言えたものかと存じます。ここで反論したのは「関係者」と明記されています。どんな投資トラブルかはわかりませんが、この投資トラブルの一方の関係者と解釈する事は可能です。投資に限らずトラブルがあったときに、利害により関係者は立場を異にする事は珍しくもありません。その一方の関係者の意見ですから、中沢記者流に言えば「根拠がある」になるはずです。

中沢記者流の「根拠」の例を示します。8/16付関西発・日曜便の名医だから「待つのが当然」(魚拓)がそうなんですが、記事本文は長いのであえて引用しません。お手数ですがリンク先をお読み下さい。それじゃ不親切なのでごく簡単に記事の内容を要約しておきます。

記事はある患者が医療機関を受診した時の不快体験です。それへの投書があったようで、投書から記事にしているのは誰が読んでもわかります。この不快体験の当事者は、

    患者
    医師
このうち投書を行なった患者には取材しているかと想像されます。しかし医師側に取材している可能性は限りなくゼロです。患者の不快体験は医師とのやり取りが中心ですから、その会話内容について医師は守秘義務を負っているからです。たかが新聞記者が、たかが取材を希望したからと言って話すはずもない事は明瞭です。

読めばわかるように中沢記者は、トラブルの一方の当事者の主張のみを「根拠」として、医師を誹謗中傷までしている事になります。これが中沢記者流と言う事です。つまり、

    中沢記者流とは、一方の当事者のみの情報を根拠にして誹謗中傷まで主張できる
投資トラブルの記事で、関係者が中沢記者の記事を批判していますが、批判の根拠は関係者が「そう思っている」「そう感じている」事柄が根拠かと推測されます。中沢記者が医療での誹謗中傷記事を書いた根拠と変わるところはまったくありません。中沢記者は自分の手法で批判されれば憤慨し、一方で自分が他者を誹謗中傷するときには、当事者片方だけの取材でなんの遠慮もなく書き散らすと事を新聞紙上で実証しています。

こういう人間に対し起こる批判は、

    お前、何様
これぐらいは、こういう流儀を押し通す人間は甘受する必要があります。


後半は中沢記者流のクレーム対処法が書かれています。どうも「お前、何様」を甘受する気はサラサラないようで、ネット作法の「スルー」を持ち出しています。「スルー」はネットでは必要なマナーですが、実に自分に都合の良い解釈をされています。

アクセス数が増えれば、中傷やデマも多くなる。すべてをまともに受けとめていたら、精神的に参ってしまう。

これをどれだけの理解をもって受け止めているか甚だ疑問です。当ブログ程度でも幾多のコメンテーターが多様な意見を残されています。その中には残念ながら「中傷やデマ」の類が入り込むことは不可避です。「中傷やデマ」はどんな人気ブロガーでも嫌なもので、時に一本のコメントがかなり引きづる事も珍しくありません。そのため「中傷やデマ」に対して「スルー」で対応するのはネットのマナーです。

しかし中沢記者が考えている「中傷やデマ」と、人気ブロガーが考えている「中傷やデマ」は同じとはとても思えません。人気ブロガーは「中傷やデマ」と「正当な批判」をキチンと分別して取り扱っています。人気ブロガーは意見をネットで発表し主張しますが、人気ブロガーであるほど「自分の意見が神だ」と考えていません。

もちろん「オレは神だ」として、その幇間コメンテーターで堅固なブロゴスフィアを構築しているブログもありますが、多くの人気ブログでは談論風発が基本です。学校の試験ではありませんから、社会の事柄で絶対にこれしか正解はないという事は珍しいからです。人気ブロガーの主張といえども、それに対し反論・異論が出るのが本当は人気の証です。

スルー力」とは聞くに値する「反論・異論」なのか「中傷やデマ」を見抜く力であると言う事です。人気ブログを維持する厳しさは半端ではありません。それこそエントリーの一字一句までツッコミが入る世界です。そういうツッコミを受けながらも、聞く価値のある意見は受け入れ、聞くに値しない「中傷やデマ」をスルーする能力が求められます。

人気ブロガーの言う、

「厳しい意見の中にも、ハッと気付かされる部分が含まれている。大事なのは少々の雑音には目くじらを立てず、参考になるものを謙虚に受け入れる姿勢だ」

これはそういう厳しい日々の中で培われた箴言です。決して主張する時は自分の流儀で厚かましく押し付け、自分の流儀で反論されれば憤慨するレベルとは別次元のお話です。


既製マスコミは、これまで例外的なものを除いて反論されない世界で記事を垂れ流していたと言えます。余ほどであれば同業者が揚げ足を取るか、週刊誌あたりがネタにするのが精一杯であったと言う事です。とくに主要記事ではない片隅の記事には、まとまって反論されるなんて夢にも思わないぬるま湯の中で仕事をされてきたかと思います。

一方で人気ブログは絶え間ない批判と反論の中で成長しています。あらゆる意見が寄せられる中で、これを取り入れて日々内容を練磨しているものが人気ブロガーであり、人気ブログです。とくにブログで主張するときに注意が必要なのは、ブレがないかです。猫の目の様に御都合主義で主義主張を変えれば、痛烈な批判が来るだけではなく、ブログの人気は急落します。

玉石混交のネット空間。どう向き合うか、彼らの所作に学ぶべき点が多いように感じた。

中沢記者のスルーの理解は、

  1. 中沢記者は、片方の当事者だけの根拠で誹謗中傷を新聞で行う
  2. 中沢記者は、片方の当事者からの根拠の反論をネットでされれば憤慨する
  3. 中沢記者は、気に食わない反論はスルーする
中沢記者がネットから学ぶべき所作は「スルー力」レベルの高度なお話ではないと思います。それ以前の記者としての基本です。人気ブログともなれば、エントリーを作る際に可能な限りの取材を行ないます。新聞社と違いブログには信用の金看板が無いので、その代わりに信用の根拠になるソースや事実を出来るだけ踏まえようとします。人気ブロガーであっても根拠のない話は誰も信用してくれません。

新聞記事も同様のはずですが、ブログ記事より有利な点があります。一にも二にも自分で取材して歩けるというメリットです。自分で仕事として取材できるメリットを活かさない記事は玉石混交の「石」に過ぎません。自分の足で取材した事実を踏まえられる点が既製マスコミの最大の強みのはずです。これは基本的に個人で書くブログ記事では絶対に及ばない点です。

こういう努力は例え埋め草記事であっても求められる時代になっています。記者的、新聞社的には埋め草意識であろうとも、その記事の内容に関心を持つ人々にとっては重要記事です。手抜きが少しでもあれば情け容赦のない批判が起こります。時代はそこまで求めていますし、それに応える事が新聞が次代に生き残れる最低限の条件にすらなっています。

とりあえず中沢記者が改めなければならないのは、一方の当事者の言い分のみを鵜呑みにして根拠にする手法です。新聞社は双方の当事者の言い分を聞ける能力を持っています。医療は確かに守秘義務の壁が厚いですが、直接取材できなくとも周辺取材でもかなりの情報を集める事は可能です。出来なければ記者とは言えません。そういう情報を読むために読者はゼニを払って新聞を購入するのです。

新聞が置かれている環境は、かつての掲載しておけば無批判の時代は終わっています。どんな埋め草記事であっても、手抜き・足抜きで書き散らせば、それを掘り起こす人間がネットにはゴロゴロしている事を肝に銘ずべきと言う事です。記者として基本、いや記者としてゼニを儲けるとはそういう事であるのを学んで欲しいと思います。