人情の機微

人は理でも動きますが、やはり情によって動く部分が大きいと思っています。理と情が合わされば理想的ですが、時に理が曖昧でも情だけで動く事も珍しくありません。逆に理だけで情が欠ければ、いかに麗々しい大義名分があっても笛吹けど踊らずになることもあり得ます。

今でこそメキシコ発の新型インフルエンザは「どうやら」たいした事はないらしいの情報が出てきていますが、当初は強毒性のインフルエンザがついに発生したとの懸念を強く抱きました。治療の矢面に立つのは医療関係者ですから、強い不安が生じるのは当然です。しかし今なお医療関係者の医の倫理は保たれていますから、治療に当たるのは仕事であると大部分の医療関係者は考えました。

新型インフルエンザの治療に医療関係者が従事しなければならないと考えるのは理の部分です。医療に携わるものなら情の部分を押し殺してもそう考えます。本音は「怖いから逃げたい」としても、理性でこれに対処しなければならないと考えるわけです。

とは言え、怖いのは怖いです。医療関係者でも感染すれば死亡率は同じです。感染防護を行なっても連日の診療になれば完全はありえません。生死の問題ですから、自分が死ぬだけではなく、残された家族の心配も出てきます。医療関係者としての理と、人間としての情の葛藤は出てきます。建前は理が優先しますが、情としての不安部分は理性だけでは抑えきれないところがあります。

情としての不安部分に対策を行なっても良かったんじゃないかと思っています。ところが御存知のように対策初期から一貫して死亡や感染による医療関係者への補償は「しない」とされています。新型インフルエンザに立ち向かって戦うものに、何の補償も無いのは医療関係者の情の部分に暗い影を落としたように感じます。怖ろしい病気であっても、これの診療に当たるのは医療関係者の理性として「やらねばならないこと」ですが、それでも命と引き換えにとなると、医療関係者といえども一皮剥けば普通の人間ですから、情として恐怖を感じます。

せめて不幸にも感染して死に至っても、残された家族に補償があるとなれば、その程度でも医療関係者の情の部分は奮い立ちます。考えようですが、医療関係者に補償するとしても、医療関係者だって死にたくないですから、知恵を絞りつくして我が身を守ります。少なくとも補償を受けるために故意に感染しようと言う酔狂人はごく少数派と考えます。

結果として医療関係者に対する補償は発生しても限定的と予測します。ここで限定的だから補償しないと、限定的であっても補償するは、情として上下の差は巨大です。こういうのが人情の機微ではないかと考えます。このあたりは意見の分かれるところでもありますが、

    新型インフルエンザを診療するのは医療関係者の当然の務めであり、もし死亡しても補償は行なわない
こういう風に理だけで言われるのと、
    医療に従事するものとして新型インフルエンザの診療を行ってもらうが、もし死亡したら補償は行なう
仕事としての理の側面と、人間としての情の側面の両方に働きかけるのでは効果はかなり違うと思います。もう少し言えば、政治的なパフォーマンスに過ぎなくとも「前向きに検討している」ぐらいのニュアンスを漂わすだけでも効果はあったはずです。


これが最初から完全に「考慮する余地も無い」で貫き通されると心情的にチト辛いところがあります。もちろん補償しない理由としてすぐに思い浮かぶのは、感染して死亡した患者はどうなるのかの反論はあるでしょうし、それは非常に説得力のある意見です。医療関係者のみが補償されるのは公平性に欠くと指摘されれば、後は再反論などしようものなら水掛け論が延々と展開します。

ですから補償しない理由は理解できなくもないのですが、医療関係者と言えども理ですべてを納得して行動できると限らないからです。今回はドタバタと対応に訳もわからず駆り出された医療関係者も少なくないでしょうが、前例として補償しない事が確立され、次に強毒性が襲いかかられたらどうなるかを少し心配しています。

ここでせめて労災ぐらいは認められるのでしょうか。労災の規定の知識が非常に乏しいので良くわからないのですが、労災ぐらいはすんなり認めてもらっても、これは公平性を欠く事にならないとは思うのですが、実際のところどうなんでしょう。たとえば経営者である私が、こういう場合に適用になるかどうかは気になるところです。労災もなければ本当になんにも補償がない事になります。

でもあれですね、医療関係者が診療中の患者の病気に罹患して労災が下りたと言う話はあんまり聞いた事がありませんから、そう簡単には下りないのかもしれません。もっともこれは私が聞いた事が無いだけかもしれませんが・・・。