武見太郎伝説

今でも影響力があると信じてられる日医が本当に影響力があったのは武見元会長の時代です。つうか武見時代以降は武見元会長の遺産をひたすら浪費する長期低落を延々と続けています。ちょうどメキシコ五輪で銅メダルを取った日本サッカーが、Jリーグによる復活をするまで延々と低迷したような状態です。サッカーはそれでも見違えるように復活しましたが、日医の前途に明日はあるのか不安になります。

武見太郎と言っても私が医師になる前に既に医師会長どころか逝去されています。当時の日医がどれだけ凄かったかは私如きの若僧でははっきり言って伝説の領域です。武見氏関連の書籍もあるはずですし、読まれている方もおられると思うので恥しいのですが、ネットで拾った情報で武見伝説を見てみます。

まず経歴をwikipediaから、

Date 年齢 事績
1904年8月7日 0 1904年8月7日、京都府に武見可質・初夫妻(4男1女をもうける)の長男として出生。武見家はもと新潟県長岡市出身という。生後まもなく東京の上野桜木町に転居。私立開成学園中学校へ入学。3年のとき腎臓結核となり療養中に法華経などに親しむ。その後、慶應義塾中学普通部に転学。
1922年4月 17 慶應義塾大学医学部に入学。柴田一能教授の日蓮聖人讃迎会に入り、また大学に仏教青年会を創設、なかでも当時慶應義塾大学予科の講師をしていた友松円諦を仏教や生き方の師として永く親交があった。
1930年 26 慶應義塾大学医学部を卒業、内科学教室に入るも教授と折り合わず退職する。
1938年 34 理化学研究所入りし、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究する。
1939年 35 銀座で武見診療所を開業、ユニークな開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わる。
1941年 37 月英子(父・子爵秋月種英と母・利武子(利武子の父は牧野伸顕伯爵))と結婚する。
1944年11月 40 長女昭子が生まれ、以後2男2女が誕生。
1950年3月 46 日本医師会副会長に就任。
1957年4月 53 日本医師会会長に就任(連続13選)。
1961年2月 57 医師会、歯科医師会の全国一斉休診実施。「喧嘩太郎」の異名をとる。
1975年 71 世界医師会会長に就任。
1982年4月 77 日本医師会会長を引退。
1983年12月20日 79 死去。法名(戒名)は太清院醫王顕壽日朗大居士


経歴を見ると26歳で慶応医学部を卒業してから、34歳で理化学研究所に入るまでの8年間がよく分かっていません。教授と折り合いが悪くて退職したとなっていますから、当時もあったであろう医局人事からはみだしての医師人生であったのではないかと想像します。医師が少ない時代でしたから勤め先はあったでしょうが、勤務医としてのステップは最初から外れていたとも見えます。

転機となったのは理化学研究所に勤務し、銀座で開業してからのようです。何故に政財界の要人が武見氏の診療所に通ったかはわかりませんが、一つは銀座と言う土地柄と、理化学研究所勤務の肩書きだったかもしれません。さらに言えば既成の医局の影響力から離れていたのが良かったのかもしれません。よほど見込まれたというか可愛がられたのは間違いないようで、華族の夫人を開業から2年後に迎え入れています。wikipediaでは「父・子爵秋月種英と母・利武子(利武子の父は牧野伸顕伯爵)」とあっさり書いていますが、牧野伸顕伯爵は大物政治家でこれもwikipediaからですが、

第1次西園寺内閣で文部大臣、第2次西園寺内閣で農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣で外務大臣となる。この時期の牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。大正8年(1919年)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。一行の首席は西園寺公望であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿吉田茂などがいた。パリ講和会議では日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っている。

大正10年(1921年)、宮内大臣に就任し、大久保侯爵家に連なることから特に子爵を授爵。穏健な英米協調派で自由主義的傾向がつよい牧野を宮内大臣に推したのは、天皇および宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った元老の西園寺公望の意向であるという。これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。

大正14年(1925年)、内大臣に転じ、昭和10年(1935年)まで在任。退任とともに伯爵に陞爵する。牧野に対する天皇の信頼は厚く、この多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。後任の内大臣に湯浅倉平を推薦し、牧野はその後も宮中、外交への影響力を保持し続けようとした。

昭和11年(1936年)、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、近親者の機転によって窮地を脱した。

第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼はおとろえず、数度宮中に招されて意見具申をしたこともある。

戦後はオールド・リベラリストの一人として評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に押す声さえあったが、老齢のため二度と政治の世界に復帰することはなかった。

戦前の大物政治家であるだけでなく、宮中にも影響力があり昭和天皇の信任も篤く、戦後までその声望を保った事が分かります。こういう人物に見込まれて親類関係になるというのは大きな信用をさらに獲得する事になります。こういう事は現在でもそうですし、戦前ならなおさらであったかと考えます。この親類関係の広がりは実はもっと幅広く、この牧野伸顕伯爵は明治の元勲大久保利通の子にあたります。系譜の広がりが複雑なので大雑把ですが図にして見ます。

ちなみに麻生太賀吉麻生財閥二代目であり、麻生泰は兄の麻生太郎に代わって麻生財閥を継いでいます。麻生家と関りはともかく、牧野家や吉田茂との縁戚関係は武見氏の政治力の源泉となったでしょうし、吉田茂との関りは自民党有力政治家との関係を深めるのに役立ったかと思います。また後の活躍からして、そういう政治家や財界人との交友と言うか関りは武見氏は嫌いではなかったかと思われます。

吉田茂との縁で政治家になってもよさそうな関係ですが、武見氏は国政ではなく医政に関わっていく事になります。なぜ武見氏が国政に向わなかったかはわかりませんが、やはり医師であることへのこだわりであったかもしれません。

当時の医師会、とくに日医は今と異なり大学教授を中心とした大学医局が牛耳る世界であったとされます。これに対し不満をもった開業医グループが担いだのが武見氏であったとされます。手許に確認できる資料が無いのですが、1957年の日医会長就任はクーデターもどきであったとされます。以後13選25年間にわたり会長の座にあることになりますが、武見氏がワンマン体制を固めライバルを叩き落としたのも理由の一つでしょうが、開業医サイドに武見氏に代わる人材がいなかったのも大きかったように思います。武見氏は圧倒的な政治力と指導力を発揮して日医を率い長期政権を敷く事になります。


武見太郎伝説はこういう背景から生み出されるわけですが、マナベ小児科真鍋豊彦氏の新居浜小児科医会30周年記念講演会から引用してみます。二つの伝説を紹介する前に、「附従契約」なる概念を紹介しておきたいと思います。これも真鍋氏の講演からです。

 そこで、忘れられぬ思い出を一寸ご紹介させていただきますと、昭和55年8月、武見会長が日本医師会の理事に対し、試験問題のようなものを出しました。愛媛県医師会からは、代表として私のまとめた回答を提出しましたが、その回答が、たまたま当たっていたことであります。

 テーマは「医師の権利保護ーことに健保法の下における現状の認識と将来の改革の方向」でした。全都道府県医師会から立派な回答が寄せられましたが、その中で、私が

 「医療は本来、医師と患者との直接的な自由な契約(自由診療)に基づいて行われるが、国民皆保険制の現在、医師が保険医登録をするか、しないかの選択の自由は殆ど残されていない。これを附従契約(附合契約)と言う。保険医登録そのものが医師の権利の束縛につながり、保険医は医師としての医業権の制約を受ける。」

 と書きました。

 この「附従契約」について言及した回答は私一人であり、武見会長もこの回答にご満足であったことを、当時、日本医師会副会長職にあった吉野章愛媛県医師会長から知らされました。後日、日本医師会雑誌の議事録でそれを確かめました。

 今回、そのときの原稿や資料を読み返し、私は、今さらのように、「保険医」には権利などはないのだな、と改めて思う次第です。

私は自由診療時代など空気さえもわからない世代なので、保険医になること自体が医業権の制約になると言われても、正直なところピンとこないのですが、保険医であるから診療報酬等による束縛を受けていると言われればその通りです。選択枝として自由診療がごく普通にある世界であれば、保険医としての扱いに不満があれば、自由診療に切り替えるのも可能ですが、皆保険制度になり保険医としてしか事実上医療が出来ない体制そのものが束縛であると考えていたと言えばよいのでしょうか。

昭和55年(1980年)と言えば武見時代の晩年に当たりますが、医師が保険医として束縛される先の事を考えていたのかもしれません。もっともなんですが、皆保険体制で保険医として医師を束縛しようとしていた時代から、今度は混合診療で保険医療を制限し、自由診療を大幅に取り入れようとする時代になり、医師会が今度は皆保険体制に血眼になるとまでは予期していなかったかもしれません。

これだけの資料で云々するのは危険ですが、今の時代に武見氏が君臨していたら「混合診療でよろしい」と最初から大舵を切り、切り過ぎる事により政府を慌てさせ交渉の材料にしたのかも知れません。そんな事が出来るのは武見氏ほどの指導力と政治力が無いと到底不可能ですから、今の時代に望むのは妄想に過ぎないのは言うまでもありません。

では有名な伝説の一つ目です。

●「暁の団交」

 皆様は「暁の団交」をご存じでしょうか。保険医と保険医療機関の「二重指定制」を知らない方はいないと思いますが、その本質的なことについては、案外無関心、あるいは、先ほどご紹介した「附従契約」のため、当然と思っていらっしゃるのではないでしょうか。

 この制度は、治療する保険医とその治療の場である保険医療機関を、国が別々に管理するというものです。どちらが欠けても保険では患者を診ることができないという二重しばりの国家管理制度です。実に馬鹿げた制度です。保険医であれば、どこで患者を診てもいい筈ですが、卑近な例として、私なども、診療所が別のところにありますから、自宅では患者を診ることができないのです。

 厚生省の元役人に言わせますと、この「二重指定制」は、不正請求対策であったとのことです。不正請求をした診療所の保険医登録を取り消しても、別の保険医を連れてきて診療する。これでは鬼ごっこだというので、医療機関にも保険指定を行い、不正があったときに指定を取り消し、その医療機関で診療できないようにする、これが「二重指定制」の狙いであったというのです。

 この法律は昭和32年3月に成立しましたが、「二重指定」の実際的な処理は政令、省令に委ねられていました。

 法律改正の直後の4月に、日本医師会長に選ばれた武見会長は、就任早々、この法律は、医師の専門的な裁量権を色々と制限しているとして強く反対を表明しました。

 早速、「二重指定制の骨抜き」のため、法律家のバックアップのもとに、大きな政治力を発揮し、政令、省令が出る、まさに直前に修正させました。
 4月27日午後から翌朝の4時まで延々15時間にわたり、厚生省と日本医師会が、この「二重指定制」に関する政令、省令の手直し作業を行いました。これを後々、「暁の団交」と呼ぶようになりました。

 もともと、この政省令原案には、?1人の医師が1日に診る患者数は内科25人、皮膚科、耳鼻科30人などと制限したり、?診療科や患者数に応じて必要な保険医を置くべし、などの制限がありました。それら多くの制限規定をことごとく削除させました。

 政省令が発令されたのは、「暁の団交」から1日あとの4月30日でした。まさに劇的な改正であったと思います。この改正の恩恵を、私たち保険医は、当時も今も等しく受けている訳ですが、あまり知られていません。保険診療には今でも色々と制約がありますが、この骨抜きがなかったら、もっともっと惨めなことになっていたと思います。

 一方、国保の方は別でして、説明は省略しますが、「二重指定制」にはなっていません。

「附従契約」もそうですが「二重指定制」もまた医師の権限の束縛と考えられていたのがわかります。エピソード自体は読んで頂ければ十分なんですが、

この政省令原案には、?1人の医師が1日に診る患者数は内科25人、皮膚科、耳鼻科30人などと制限したり、?診療科や患者数に応じて必要な保険医を置くべし、などの制限がありました。

日医は開業医権益擁護に舵を取ることになるのですが、当時(今でも!)の開業医が

  1. 1人の医師が1日に診る患者数は内科25人、皮膚科、耳鼻科30人などと制限
  2. 診療科や患者数に応じて必要な保険医を置くべし
これでは満足に診療と言うか経営できないと考えるのは当然かと思います。ただこの人数制限については「5分ルール」を想起させるものがあり、50年前から厚労省と医師会がつばぜり合いを繰り広げてきた事がわかります。もう一つのエピソードですが、

国民皆保険と合意4原則

 ご存じのように昭和36年に国民皆保険制が実施され、国民はどれかの保険に入ることになりました。

 この制度ができるまでには、紆余曲折がありました。一々は申しあげませんが、日本医師会国民皆保険制に賛成する代わりに、保険医の「一斉休診」をしたり、「保険医総辞退」をやるぞ、やるぞと言いながら、政府、自民党と数多の取引をいたしました。その頃の記録を読みますと、自由診療に慣れていた医師(開業医)の多くは皆保険制実施に戸惑い、食べていけなくなるのではないかと不安を募らせていたことがよくわかります。

 このような不安定な状態の中で、政府、自民党は、後の総理大臣、田中角栄政調会長を中心に日本医師会と折衝を重ね、資料(6‐省略)にありますような4項目からなる覚え書きを取り交わし、「保険医総辞退」を回避いたしました。

 武見会長時代の24年間、日本医師会は事ある毎に、この合意4原則が何一つ実現されていないとして、政府、自民党を攻め続けることになります。私自身、これをいつも呪文のように唱えていたことを思い出します。

  1. 医療保険制度の抜本的改正
  2. 医学研究と教育の向上と国民福祉の結合
  3. 医師と患者の人間関係に基づく自由の確保
  4. 自由経済社会に於ける診療報酬制度の確立
 この合意文書は、田中政調会長が「保険医総辞退」の収拾条件を武見会長に白紙委任し、武見会長が4項目にまとめたものです。これは全く異例のことです。政府、自民党白紙委任状にめくら判を押したようなものですから。

 当時としては、権力の中枢にあった田中政調会長日本医師会のドンと言われた武見会長との親密な関係を裏付けるものとして、大いに喧伝されたということです。

 この「保険医総辞退」収拾後、保険医にとっては大きな収穫がありました。主な制限診療が撤廃されることになったからです。抗生物質の使用基準など、厳しい制限は事実上撤廃されたのであります。

この白紙委任のエピソードを政治側(田中角栄側)から解説したサイトがあります。

 1961(昭和)7.18日第二次池田内閣の政調会長に就任した角栄に待ち受けていたものは、日本医師会との折衝であった。当時武見太郎を会長とする日本医師会は全国7万人余りを抱える自民党の有力圧力団体であった。この8.1日を期して「医療費の値上げを認めなければ、健康保険の医者は、全部辞める」と政府・自民党に恫喝していた。灘尾弘吉厚生大臣はこれを認めず、かくて交渉は難航していた。この当時武見氏はケンカ太郎、武見天皇と云われるほどの、吉田茂元首相との姻戚関係もあって政治的影響力を持っていた。

 角栄政調会長になってまだ半月ばかりの7.24日と25日の両日、角栄御茶ノ水の医師会館を訪れ、武見氏と会見した。この時厚生省案を携えていったが「こんな古証文では話にならん。出直してもらいたい」と言い渡され、物別れとなった。期日の一日前の7.31日再び医師会館に乗り込んだ。角栄はこの時余人の真似できない芸当を演じている。白紙の下に「右により総辞退は行わない」と認(したた)めた白紙委任の便箋を渡し、「ここに思うとおりの要求を書き込んでください。但し、政治家にも分かるように書いてください」と内容一切を武見会長に下駄を預けた。武見は便箋を受け取り、「医療保険制度の抜本的改正」、「医学研究と教育の向上と、国民福祉の結合」、「医師と患者の人間関係に基づく自由の確保」、「自由経済社会における診療報酬制度の確立」という四原則と、「医療懇談会設置」という付帯事項を書き込んだ。この時の遣り取りを後に武見氏は次のように回想している。「田中さんは僕とずっと話し合ってきて『あいつならそう無理なことを云うまい』と信頼したのだろう。僕も田中さんを信頼できると思ったから具体的なことは書かなかった。相手の都合もあることだし抽象的に書こうと思った。信頼関係に基づいて文書を交換するときはああいう形でなければならない」(「実録・日本医師会」)。

 このメモを持って帰った角栄は、自民党幹部会を開き、池田首相、灘尾厚生大臣、党三役で白熱の議論を続けた。厚生省の役人の向上を受け継ぐ灘尾氏を漸く説き伏せ、議論を制した。改めて医師会館を訪れ武見に報告に出向いている。この時、武見は、角栄を評して「あいつは若いが、信頼できるよ。馬鹿の一つ覚えのようなやり方は、決してしない男だ」、「あいつは、どんな状況にも、戦法を変えて応じてくる。どんな相手に対しても、必ず自分の言うことを納得させるという、天分を持っているよ」と云ったと伝えられている。武見氏もまた傑物であることを思えば、その武見氏にここまで信頼された角栄の非凡さを認めるべきであろう。

後の大実力者である田中角栄との丁々発止の取り引きが生々しく描かれています。あくまでも推測ですが、白紙委任状事件を通じて武見氏は田中角栄とのパイプも築いたのではないかと思っています。田中角栄はこの事件の11年後の1972年に首相の座まで登りつめる事になります。当時の総裁選はコチコチの派閥選挙であり、現在のようにフワフワと総裁候補が出てきて首相になる時代ではありません。

総理総裁を目指す人間は子分を養って派閥を形成し、その数をもって宰相の椅子を争ったのです。当然ですが首相は強力な党内基盤を持っており、田中角栄は党内に総裁の座に座るに値する勢力を1972年までに築き上げたことになります。角栄が築いた田中派がいかに強力なものであったか、角栄が1974年に退陣した後も強大であったことも説明不要かと思います。

角栄と武見氏の関係もこの資料しかないので、実際はどんな関係であったかは憶測のうちですが、武見氏の政治力の前半は戦前からの政財界のつながりと吉田茂閨閥としてのもであり、後半は角栄との関係であったかもしれません。


結論と言う程の物ではないのですが、日医が魔王のような権力を揮えたのは、どうやら武見氏個人の力によるものの様な気がします。武見氏は政治力と指導力で日医に魔王のような権力を与えましたが、一方で後継者を育てなかったのは欠点ともされます。これは育てなかったのか、育たなかったのかはわかりませんが、経歴を見る限り両方だったかも知れません。個人としての才能はともあれ、あの政治力は育てようがないと感じます。

不十分な情報での武見論で申し訳なく思いますし、著名な方なので他にもエピソードは多々あるとは思います。それでも書かせてもらったのは伝説の武見太郎時代を個人的に整理したかったからと言う事でお目こぼし頂きたいと存じます。