コンセンサス

昨日、一昨日の続きで、テーマは再生プランを考えるです。貴重な意見を多数頂いているのですが、まず「財源論議はしない」に意見が出ております。いちおう理由も書いておいたのですが、それでも必要のご意見です。この辺は考え方ですが、順序として確保できる財源に基づいて、その範囲内のやりくりでの再生を考えるか、それとも再生プランをまず考え、それに必要な財源をどう考えるかの入口論みたいなところとも感じております。

実際問題としては二元論ではなく、現実的な財源確保もある程度考慮に入れながら再生プランを考える事になるのですが、現時点では財源問題より再生プランの考察の方に比重を置きたいと考えています。理由として、再生プランの全体像がおぼろげでも無いと必要な予算の概算もできないと言うのが一つと、私の知識では国家予算や経済動向を十分に論じる能力が乏しいがあります。それともう一つ、あまりにも最初から財源での縛りを念頭に置くのはおもしろくないというのがあります。

コメント欄はご存知のようにマナーさえ守っていただければ自由ですので、財源論議を禁止しているわけではありません。ただ出来れば、まず案を考えてから財源論議に移行した方が良いのではないかと思っています。再生プランを考えると、何を考えても金がかかりますし、これを財源論議から最初から縛ってしまうのはどうかと言うところです。個人的にはあまりにも理想論に流れた時に、現実の財源論議が歯止めとして出てくる程度が好ましいんじゃないかとは考えています。

それと昨日示した患者の治療の概略図ですが、これにも実地の専門家から意見を頂いています。実はと言うほどではないのですが、御存知の通り小児科医で介護保険の知識は非常に薄いものがあります。小児科は基本的に介護保険と無関係ですし、診療所の診療でも全く扱っていません。幾つか頂いた意見のどれが実際の状況を反映したものか判断がつきかねるのが本音です。再修正を行なうのはやぶさかではありませんが、もう少し意見を頂いてから考慮したいと思いますので、今日の時点では引き続き使わせていただきます。


再生は多様な方面から考える必要はあるのですが、ここではまず再生後の医療体制は冗長性を備えた体制でなければならないとして話を展開しています。さらにその上の前提条件として

    医療供給戦力は変わらない
供給戦力が変わらないのは、医師の頭数が増えても再生時には変わらないと前提しています。この前提条件で冗長性を確保するプランを考えていきます。それとここで書いているのはすべての診療科への対策ではありません。マスとして考えた時の再生プランの一つぐらいにお考えになられる様にお願いします。

今もそうですし、今後も大きな比重を占めるのが高齢者医療です。高齢者医療の負担は医療費だけではなく医療戦力のかなりの部分を費やしています。ここで昨日も出しましたが高齢者医療の一つの流れを図で示します。

図の解説を少し加えておきますが、白地部分が医療保険部分であり黄地は介護保険部分です。医療と介護はとくに高齢者医療において車の両輪であり、たとえると
    医療:前線部隊
    介護:後方支援部隊
前線部隊が充分な能力を発揮するにはしっかりした後方支援部隊が必要なことは論を待ちません。ところが現状では後方支援部隊である介護が非常に弱体です。なぜ弱体かは今日も省略しますが、前線部隊を支える戦力がありません。現在の医療危機の一端は介護が弱体化しているために、前線部隊の負担が強くなっている側面があるとも言えます。

この後方支援部隊である介護を充実させる事が、前線部隊の冗長性を確保するのに不可欠であると話は進んでいます。介護は大きく分けて2つに分かれます。

  • 施設介護
  • 在宅介護
介護を充実させるには施設介護の充実が必要です。これは医療を行なう上の効率で圧倒的な差があります。在宅介護では医療者は移動時間の壁のために多くの人的医療資源を費やさなければなりません。施設を充実させる事により、無駄な人的資源を省く事が出来ます。もう一つ、施設と在宅では行なえる医療にも大きな差があります。施設介護の充実によるメリットは、
  1. 人的資源の節約
  2. 医療(介護)の質の向上
介護の質の向上はもう一つ大きな狙いがあります。もう一度、上の図を見て欲しいのですが、前線部隊への負担として介護から医療への溯上現象があります。もちろん必要なものも多々ありますが、施設介護が充実する事により、この溯上ルートを減らすのが狙いです。ここの負担が少なくなれば前線部隊に余力が生じ冗長性確保に道が開けます。

それと施設介護の充実は在宅介護の充実にもつながると考えています。ここは議論の多いところで、厚労省の意向とは別に将来的に施設介護を主流とするのか、在宅介護を主流とするのかは立場や考え方によって様々です。ただここは理想論として患者の立場に応じてのチョイスの余地を考えるべき問題と感じています。私の狭い知見としては、施設介護が充実してこそ在宅介護を患者及び家族の意思で選ぶ方向性が生じると考えています。この辺はまだまだ議論の余地が多いところと考えています。


ここまでの話も財政的に茨の道なんですが、極論すれば予算さえかければ可能な事です。問題は施設介護の充実により溯上ルートがどれだけ減らせるかになります。日本の医療は長い間、医療も介護も一緒に抱え込んでいた経緯があるので、「病院で死ぬ文化」と言うものが出来上がっています。最期は病院でなければならないという社会的コンセンサスです。

とにかく病院で最善を尽くしたという行為をやっておかないとコンセンサスに反する行為と見なされ、家族は非常に居心地の悪い思いをさせられることがしばしばあります。これは時に患者本人の希望さえ凌駕する事があります。施設介護は充実させても残念ながら病院に較べると遥かに軽装備です。今のコンセンサスでは、最期は施設では軽装備過ぎて不十分であり、やはり病院である事が望ましいがあります。在宅は尚更とも言えます。

現実の医療現場の負担として「最期は病院でなければ」は大きなものがあります。しかし人の最期の話は非常にデリケートな問題で、「死」と言う絶対に対しては安易な話が許されない現実があるのは非常に難しいところであります。しかし現実の医療の供給力は従来のような「最期は病院」に応える能力が失われつつあります。高齢化が進み、死亡者は現在の100万人規模から170万人規模に拡大すると予想されています。そうなっても病院の受け入れ能力が現在とさほど変わらないのであれば、算数的には確実にパンクします。

ここで一つの方策として、従来の「最期は病院」の患者の希望にあわせて医療を拡大すると言うのはありますが、この路線を実行するのはさすがに難しいところがあります。そこでになりますが、やはり「最期は病院」の「病院で死ぬ文化」を変換する社会的コンセンサスの転換を考えざるを得ないことになります。患者サイドにとって苦痛になりますが、再生後にお願いしなければならない項目になると考えざるを得なくなります。

厚労省も基本的に同じ結論には達しているようですが、厚労省はこれに医療費削減を絡めて、

    病院で死ぬ文化 → 家で死ぬ文化
ここまでの転換を受け皿を物理的にそう設定する事により推進しつつあります。厚労省の政策で無理があるのは、病院医療、施設介護を締め上げて、在宅介護しか行き場の無いようにしての誘導である事です。さらに問題なのは弱体の介護体制のままで推し進めている点かと考えています。私は現在の日本で「家で死ぬ文化」にいきなり回帰できるとはとても思えません。そこで、
    病院で死ぬ文化 → 施設介護で死ぬ文化
この線でなんとか社会的コンセンサスを得る方向にならないかと考えています。このコンセンサスを病院に較べて軽装備の施設介護でも満足してもらう様に意識変換して欲しいところです。施設介護で最期を迎えても「最善を尽くした」の意識変換が為されなければ、溯上ルートはいくら施設介護を充実させても細りません。ネックは「病院で死ぬ文化」の変換と言うわけです。

これとて容易な事ではありませんが、こういう風にコンセンサスの転換が為されたなら、上の図の「老健・特養」から「救急外来・急性期病床」ルートの減少が期待できますし、「在宅」から「救急外来・急性期病床」ルートも、施設介護充実により余力が生じた「老健・特養」ルートに流れる分が出来たり、たとえ「救急外来・急性期病床」ルートを使ってもスムーズに「老健・特養」に還流させるのが可能になるのではないかと考えます。


今日のお話もまだまだ総論的な話であって、各論になれば施設介護と病院治療の患者の線引きであるとか、どの程度の装備の充実を考えるかなどは一朝一夕では案として固まらないものがあります。なにより難題なのはどうやってコンセンサスを転換させるかについては良い方法が思いつかないところです。手法論として厚労省が断行しつつある極北のハードランディングから、折衷案、ソフトランディングなものまで様々あるでしょうが、現段階では難問としか言い様がありません

それとこれも一つのお話です。今日のお話が方針として良いのか悪いのかも不明ですし、それこそ財源的にどうかという話もあります。さらにこの話で当初の目的である医療の冗長性が本当に確保できるのかも不明です。3日続きで再生の話をさせて頂いたのは、今の時点でどういう事が考えられるのかの議論をしておく事に将来をにらんで意味があると考えるからです。私には少々荷の重い課題ではありますが、皆様のアドバイスにより非常に建設的な論議に展開してくれた事を感謝しています。