カタログスペックの問題

随分前なんですが、医療問題が真剣に考えられるためには首都東京で医療崩壊が起こる必要があると書いたら、総スカンを食らいそうになった事があります。しかし不幸にもそれはついに表面化し、効果はある程度予想範囲内で起こっていると見ています。そういう不幸が表面化する前に防止するのが正しい事なんですが、世の中そうは行かないのが悲しいところです。

ところで初歩的な疑問なんですが、墨東の件も杏林の件も批判されているのは搬送先候補の医療機関です。搬送元の医療機関には批判は基本的に起こっていません。当たり前そうな事ですが、搬送先候補の医療機関は「満床」とか「医師が足りない」と理由を説明しても批判は強く、決して「医療機関であり医師もいるんだから搬送元で何故治療をしないんだ」みたいな声は出ません。

搬送元の医療機関では治療できないは問題なく認められ、搬送先候補の医療機関で治療は無理と言うのは許さないの論調がベースであります。単純な疑問ですが理由を考えてみるとカタログスペックではないかと思っています。搬送元の医療機関のカタログスペックでは治療は到底無理であると素直に認められ、搬送先候補の医療機関ではカタログスペックを満たしているはずだから応需できないのは許し難いと考えられます。

この批判は医療情報の知識の度合いによっては当然出てくるものです。医療情報、とくに内部の実情については知る人ぞ知るの世界です。せいぜい医療系ブログが細々と伝えているのが精一杯で、その情報を知る人は限られています。知らない人にとってはカタログスペックを満たしていない医療機関の存在は信じられないになっても不思議ありません。

ところでこのカタログスペックですが、いわゆる三次医療機関とか、高度医療機関に於てどうやって定められているかです。三次医療機関ともなると様々な名目の指定医療機関の看板がつきます。東京の事例でも総合周産期医療センターという看板がつき、それに相応しいカタログスペックが決められている事になります。

一般にカタログスペックとは対象の発揮できる能力を記したものです。カタログであるだけにやや膨らましている事はあるとされますが、条件さえ整えば出せる能力です。自動車のカタログスペックを思い浮かべていただくと良いと思います。ところが指定医療機関のカタログスペックはやや様相が異なります。

指定医療機関のカタログスペックは会議室で決められます。現実の能力で可能な事に重きを置かれるのではなく、やって欲しいことの列挙に重きを置かれる傾向が著明です。そのため実情にくらべかなり過剰なカタログスペックが設定されます。理想は良いのですが、要求が高すぎるために多くの医療機関でカタログスペックを満たす事ができなくなります。

ここで満たす事の出来ない医療機関を指定せず、満たした医療機関のみを指定したらカタログスペックの問題は小さくなるのですが、会議室ではカタログスペックを決めるだけではなく指定医療機関の数まで設定します。では数を満たすためにスペック充実の施策を行なえば良いのですが、これは基本的に医療機関の自助努力とされます。

スペックを満たさない医療機関が多く、設定した数に足りない時にどういう手法が取られるかですが条件の緩和です。条件を緩和するのは現実的な手段なんですが、問題となるのは能力としてのカタログスペックは変えないことです。ではどの条件を緩和するかと言えば、能力を発揮するのに必要な人的条件を緩和します。

医療は言うまでもなくマンパワーの集積で能力を発揮します。マンパワーに比例した能力しか発揮できません。自動車に喩えるとエンジンみたいなものです。いくら車体が立派でもエンジンが貧弱であるなら能力は発揮できません。同じ車体であっても500馬力のエンジンと100馬力のエンジンでは誰が運転しても同じ能力を発揮できません。

そういうエンジンの条件を緩和して数を満たします。エンジン条件を緩和したならカタログスペックもそれに比例して落とさなければおかしいのですが、カタログスペックは落としません。結果として、カタログスペックに程遠い指定医療機関が量産される事になります。○○偽装みたいなカラクリですが、公認の上でこれが行われています。

ここで手法としてスペックは満たさないけど先行指定して、急ピッチで満たして間に合わすは現実としてしばしば取られます。ところがスペック不足でも指定してしまうと後はほぼ放置の実情があります。満たさない事を条件に「取り消し」とかはほとんど起こらないということです。不思議に思われる方もおられるでしょうが、元もとの会議室の決定でもっとも重きが置かれているのは「数をそろえる」だからです。

そういうカラクリは内部の人間はよく知っているのですが、そうでない人はカタログスペックをそのまま信じる事になります。ここで内部の人間はカラクリの欺瞞を問題にしますし、外部の人間は信じていたカタログスペックの虚偽を怒る事になります。この微妙なずれが論議をかみ合わせない原因になります。

これまでその点の情報ギャップによりかみ合わない議論で終始してきましたが、今回の東京の事例は「やっと」違う展開を一部に見せ始めています。カタログスペックを発揮させるためのエンジンに能力不足があることに目が向き始める傾向が出ている事です。その能力不足も「どうやら」手軽に能力を充足させるのは無理そうだの認識にようやく広がりを見せつつあるように感じています。

この動きがどうなるかは注目される事です。静かに流れを見つめています。


追伸 ssd様が紹介してくれたYouTubeがあまりにも的確なので「わかりやすい例」として引用させて頂きます。