世論形成の正常化

世論は本当は世論と輿論に分かれるのが正しいそうで、wikipediaの解説が上手いと思うのですが、

輿論」は「理性的討議による市民の合意」で、「世論」は「情緒的な参加による大衆の共感」である

現在は世論も輿論も混在して世論と使われているのが実情のようです。微妙に違う世論と輿論ですが、共通しているのは大衆と言うか市民の声であるということです。これは現代になり急に重視されたものではなく、遥か古代から優れた為政者なら大きな関心を寄せたものです。世論(以後統一します)を調べるために部下を街中に放ったり、わらべ歌を集めたり、お忍びで出かけるとか辻占なんてのもあります。世論の影響の強さを逆手に取った戦術に流言蜚語を飛ばすというのもあります。流言蜚語が効果があるのは世論を為政者が重視していた一つの現われかとも考えられます。

ただ世論を調べるのは為政者にとって容易なことではありません。世論が形成されるのは公開の議会なんかではなく、井戸端会議、居酒屋談義、床屋談義みたいなものの集積です。言ってみれば噂の集積みたいなものが世論形成の基礎になります。断片的な情報を各人が雑多に持ち寄り、これをパズルのように組み合わせながら一つの世論が形成されていくと考えて良いかと思います。

この声は為政者に直接届けられることはありません。全体の世論として意見は同じであっても、各個人の知りうる範囲は限られており、誰もとくに意識していない内に「常識」みたいな感じで拡がっているからです。

マスコミが果たした功績と言うか、権力の源の一つは世論を報道できるというのもあったかと考えています。マスコミが取材して集めた世論を報道すれば、為政者は無闇に世論に反する事は出来ない関係が出来上がります。もっとも為政者も手を拱いているわけではなく、しばしばこれを統制してマスコミを使った世論操作に逆理由したこともあるのは周知の事です。

為政者とマスコミの関係は様々に変化しますが、マスコミが為政者の影響下に無い場合、為政者は世論を手軽に知る方法としてマスコミを重宝する事になります。古来の為政者が苦心惨憺して知るように務めていた世論を料金さえ支払えば安価に入手できるからです。次の段階として為政者はマスコミの提供する世論に施政方針が引きずられる事になります。

ここでマスコミが純然たる情報機関として常に客観的に世論を報道しているのであれば素晴らしい状態です。しかしマスコミは為政者に取り込まれても世論が操作できるぐらいですから、自らの手で世論を操作することも可能な事を知ることになります。マスコミが世論を操作する状態というのは必ずしも悪い事ばかりとも言い切れません。世論は時に衆愚に陥る事がありますから、これに対し「社会の木鐸」を叩いて警鐘を鳴らすという役割もあるかとは思います。

「社会の木鐸」論はマスコミがもっとも自負するところです。真にそういう役割を果たした事もあったかもしれませんが、いつしかマスコミは「世論はマスコミが作るもの」に変わって言ったのは間違いありません。あくまでも又聞きの噂ですが、

    世論を動かしているのはマスコミだけである。
こういう発言がなんの衒いもなく各所で為されたと聞きます。ネット普及以前は間違い無くそういう状態であったと思います。

ところで肝心の世論ですが、形成レベルは古来よりあまりかわりません。あくまでも個人レベルで作られるのが世論です。集めるのも個人レベルの話の集合体を調べるしかありません。また世論はあらゆるニュースにおいて形成されます。そういう世論を集める手段はマスコミには無いと見ています。無いは言い過ぎでリアルタイムで網羅する力は無いと言った方が正確でしょう。

ところがネットではリアルタイムでこれを調べる事が可能です。ネットは多様な側面がありますが、その一つに井戸端会議的なものがあります。さらに従来の井戸端会議に較べると多様な情報を短時間に集められる能力もあります。専門的な知識も、従来ならそういう専門家に意見を聞くか、図書館にでも行って調べなければ得られなかったものが、相当なレベルで手軽に手に入ります。いわゆるネット議論です。

ネット議論の質も様々なんですが、様々な議論の集積が容易なのもネットの特徴です。世論形成で重要なのはどれほど多くの人が同じ情報・同じ結論になるかなんですが、ネットは距離や時間を短縮しますから、これまでより異様に早い速度で世論形成が為されると考えています。さらに一つの世論を知るだけでなく、一つの問題に様々な意見があることも知る事が出来るというわけです。

マスコミが誘導してきた世論は一つです。あまりにもマスコミが世論を一つに誘導してきたので、世論は常に一つにまとまるとの幻想を抱いていましたが、よく考えればそんな事はそうは多くなく、ある程度の問題なら必ず小さく意見は割れていきます。割れた意見を知る事ができるようになったのもネットの効用かと思っています。


つまりと言うほどの事はありませんが、マスコミが独占し、誘導してきた世論形成の主導権はネットに移りつつあると見ています。世論の本来の成り立ちから言うと、マスコミ主導の世論形成のほうが人為的で不自然であり、ネットのクチコミで形成される世論のほうが本来のあり方により近いという事が言えるかと考えています。

本来の形であるだけに、ネットが作る世論は時に荒々しいものになります。決してマスコミが作り上げたお上品なものではありません。その荒々しさ故に、忌避する人も少なくないと思います。しかしよく考えれば、世論が形成される本来の場と言うものは決して上品な検討会ではなく、ある程度までの本音むき出しの議論の末にまとまっていくものかと考えます。そこには突拍子もない意見や、暴論、極論も飛び出す方が自然です。

そういう荒々しさの中から形成されるからこそ世論は怖いのであり、為政者も耳を傾けざるを得ない力があるのだと考えています。そういう本来の場にネットは回帰させていく力があるように感じています。ネットは既にマスコミの世論誘導に従わない傾向を示しています。世論形成の場はマスコミにあるのではなく、ネットにあると考えている人間が急速に増えています。あくまでも私の知る狭い範囲ですが、ネット世論にマスコミも確実に影響され始めています。

重複する話になりますが、マスコミの権力の源泉はやはり世論を握っていた事かと改めて思います。世論と言う強大な力を握り締め、さらに自在にコントロールできたからこそ、第4の権力として君臨してきた一つの要因と理解してもおかしくありません。ところがネットの普及は世論形成の先祖返り現象を起こし、マスコミの手から放れようとしているのが大きな流れと見ます。

もちろん一遍には移りませんし、現在でもマスコミは世論に対し巨大な影響力を持っています。しかしネットに向う流れはマスコミの巨大な力をもってしても堰き止められないと考えます。世論はあくまでも市民が作るものであると考えれば、これは正常化していると見なせる現象ではないかと思っています。