東大教授の医療費削減理論

skyteam様のところで取り上げられている記事が興味を引きました。元は週刊ダイヤモンドに掲載されていたものですがまず引用します。

医師の数や病院設備の抑制も医療費削減の一法となりうる

東京大学大学院経済学研究科教授 井堀利宏

 わが国では最近医師不足が問題になっている。救急患者が多くの病院をたらい回しにされた揚げ句、必要とされる医療を十分に受けられなかった事例が 時々報道される。このような不幸な事例は医師の不足による場合が多い。

 医師の総数は増加しているが、 医療需要の増加に追いついていない。しかし、医療サービスを無限に拡大することはできない。そうすれば膨大な財政負担が生じる。

  受益者負担の原則が適用される民間の私的財・サービスの場合であれば、必要度や購買力のあるなしで、供給対象を選別することが できるし、それに対し、特に不満はないだろう。しかし、医療のように半ば公的サービスの場合、誰でも割安な料金あるいは無料で享受可能であるから、供給対象を選別するのは困難である。

 望ましいルールを設定して供給対象を選別する方法を想定しよう。たとえば、急病人から先に診察する、重い病気の患者を優先的に入院させるなどのルールだ。本来、緊急度に応じて医療サービスを供給するのは、合理的である。しかし、こうしたルールを設定しても、実際に供給能力があれば、軽度の患者に対する医療サービスを後回しにすることは困難だ。

  たとえば、微熱、軽度の頭痛や腹痛など、 診察の必要度が低いと思われる患者が夜間の救急病院に来た場合、 診察しないで追い返すわけにはいかない。病状の程度で序列をつけるというルールを厳格に適用するのは実際上困難である。また、救急車がタクシー代わりに利用される事態も生じている。その結果、医療サービスの総消費は増加する。

 一方、(医師などの人手も含めて)医療・福祉サービスの生産能力を抑制すると、医療サービスを望んでいる人すべてを区別することなく、一定以上の医療サービスを抑制できる。

 病状に応じて優先度をつけるという合理的ルールで患者を選別するのではなくて、医師や病院設備自体を抑制するという間接的な方法で供給を抑制するのは、 最善の策ではないが、供給制限としてより効果的である。高齢化社会で急増する医療サービス需要に対処するには、供給抑制政策のデメリットだけでなく、メリットにも留意すべきである。

読んでため息が出ました。まず現在の医療の問題はちゃんと見えています。

不幸な事例は医師の不足による場合が多い

だから医師を増やそうというのが常識的な反応なのですが、この東大教授は視点の据え方がまったく違います。東大教授が基本に据えている視点はあくまでも、

    医療費削減
これを不変の真理として実現させる事が絶対善として信じて疑わないようです。医師不足による現在の医療問題についてこれを応需能力拡大によって対応することは、

膨大な財政負担が生じる。

間違ってはいません。国民が望む24時間営業高級レストラン医療なんて実現させたら天文学的な予算が必要になります。医者の数だけで現在の3倍は必要になります。そんな事はさすがに不可能です。それでもある程度拡大しなければならないでしょうし、拡大規模と要求の折り合いをどこでつけるかは難しい問題です。

医療需要の抑制の難しさの観察も間違っていません。受診制限については、

誰でも割安な料金あるいは無料で享受可能であるから、供給対象を選別するのは困難である

重症優先についても、

実際に供給能力があれば、軽度の患者に対する医療サービスを後回しにすることは困難だ。

結論として、

診察しないで追い返すわけにはいかない。病状の程度で序列をつけるというルールを厳格に適用するのは実際上困難である。

なんと言ってもこの東大教授の大命題は「医療費削減」ですから、ここに診察料を上げての受診抑制論が出てこないのは、とりあえず笑っておきましょう。現状の安価な医療体制を前提にしている限り、「供給<<需要」の関係はどうしようもないとしています。前提がそれならそういう結論になるかと思います。需要抑制が出来ないのならどうすれば良いかですが、

(医師などの人手も含めて)医療・福祉サービスの生産能力を抑制すると、医療サービスを望んでいる人すべてを区別することなく、一定以上の医療サービスを抑制できる。

どひゃひゃひゃ!ビックリさせられます。医師も病院も減らせば医療費が抑制できるの御託宣です。実に素晴らしい結論です。この医療機関削減論のメリットは、

    物理的に受診できない患者の分だけ確実に医療費が減る
そりゃそうです。一つの医療機関が応需出来る上限は決まっています。勤務している医師が血相変えて頑張っても限界があります。またこの削減論は医療機関だけではなく医師も含めた医療スタッフも削減しますから、減少した医療機関が机上の空論である超巨大戦艦病院になるわけでもありません。単純な算数を考えてみればよいのですが、現在の医療機関数、医師数でも医療需要を賄いきれません。それをさらに減らせば完全な受診難民が発生します。受診難民になる分が、

一定以上の医療サービスを抑制できる

東大教授の机上の計算では受診が物理的にできない患者が自動的に発生するから、医療費削減に寄与すると主張しているわけです。そこで得られるメリットとして、

病状に応じて優先度をつけるという合理的ルールで患者を選別するのではなくて、医師や病院設備自体を抑制するという間接的な方法で供給を抑制するのは、最善の策ではないが、供給制限としてより効果的である

この教授が力説する医療を少し具体的に書いてみたいと思います。

「症状に応じて優先度をつける」事はしないとしていますから、応需能力すなわち1日の診察数が限られた医療機関への受診は早い者順になります。順番が取れたものは診療を受けられますが、外れればその日の受診は無理となります。交通事故で死にそうであっても、その前に不眠相談があればシャットアウトです。交通事故と不眠相談では診療科が違いますから、例えが悪いですが、どんなに重症であっても順番が取れなかったらアウトになります。アウトとは命に関わるか否かは関係ないと言う意味です。なんと言っても「症状による優先度」は考慮しないのですから。

救急も事実上なくなります。いくら救急と言っても「症状による重症度」は考慮しないのですから、その日の応需分を超えた分は翌日以降に回されます。もちろんそんな事をすれば病状が悪化したり、診療を受ける前に死亡する事も頻発するでしょうが、そうやって受診できなかった分が東大教授の大義である「医療費削減」になると言う計算です。

ま、医師にとってはそれでも構わないという意見が昨今なら出そうですが、私は許せません。許せない最大の部分は

    間接的な方法で供給を抑制
この東大教授の主張は医師も医療機関も削減すれば受診にあぶれる患者が自然に発生し、その分が医療費削減につながるというものです。政策として行なうのは「医師と医療機関の削減」だけです。減る事により発生した受診難民とのトラブルについてはノータッチと言うわけです。トラブルにより訴訟に巻き込まれる医師や医療機関は激増するでしょうがその事は関知しないからです。あくまでも「間接的」に自らの手を汚さずに、責任は医療現場に押し付けて、統計に出た医療費削減効果のみを成果として発表するというものです。


ただしよく考えれば、東大教授の削減理論は今でも公然と行われています。医師の数の増加抑制政策は延々と行われ、政治的妥協で気持ちだけ医学部定員を増やしましたが、実質的に意味の無い程度のものです。療養病床の大幅削減は東大教授の理論をそのまま実行しているだけですし、次に行なうと計画されている一般病床半減計画もそうです。老健や特養の建設の厳しい制限もまたそうです。後期高齢者医療制度の主治医制による受診制限も理論通りです。つまり東大教授に提案されるまでも無く厚労省は「もうやっている」です。ついでに言えばツケをすべて医師や医療機関に押し付けるのも同じです。

最後に東大教授は

供給抑制政策のデメリットだけでなく、メリットにも留意すべきである。

デメリットは医師だけではなく国民も感じ始めています。しかしメリットってなんでしょうか。削減理論が目指す削減量の目安はどこかになります。少し古いデータなんですが、平成15年度の財源別国民医療費があります。

財源 推計額 構成割合
公費 国庫 8兆639億円 25.6%
地方 2兆6830億円 8.5%
保険料 事業主 6兆5999億円 20.9%
被保険者 9兆2226億円 29.2%
その他 4兆9682億円 15.8%
患者負担 4兆9451億円 15.7%
計(国民医療費) 31兆5375億円 100.0%


この医療費のうち国が減らしたくして仕方が無いのが、公費負担分のうち国庫分8兆639億円と保険料のうち事業主負担分6兆5999億円です。あわせると国民医療費の46.5%になり、ちょうど療養病床削減分とほぼ一致します。そいでもって残りの約50%ぐらいで公的保険を運用したいと考えられます。後の部分はどうなろうと政府が敵視する医療費には関係ないからです。言うまでもありませんが事業主負担分は政府の最有力支持団体の財界のためです。そうなると東大教授の削減理論も厚労省が目指すところも公的保険への医療機関の人数も含めての半減です。

これによって財政負担が軽くなり、財界も事業主負担が懐に残る事になります。もちろんそれだけでありません。公的保険が使える医療機関が半減すれば、あぶれた患者が蔓延します。患者は命に関わることですから「お金を出しても医療を受けたい」と考えます。ここで生まれるのが自由診療市場です。民間保険が創設され単純計算では公費分と事業主負担分の合計額である14兆6638億円の市場が出来上がります。

14兆6638億円はあくまでも単純計算です。ちょっと古いですが2007/12/7付けキャリアブレインに2007/12.6の参議院厚生労働委員会での西島英利議員の発言が紹介されています。

西島議員は、日本医師会の常任理事時代、規制改革・民間開放推進会議の前進である総合規制改革会議にヒアリングに呼ばれ、会議後の記者会見で宮内義彦座長(オリックス社長)が「医療産業というのは100兆円になる。どうして医師会の先生方は反対するのか」と発言したことを紹介

財界試算は14兆6638億円なんてケチな額ではなく100兆円です。国と財界の負担が無くなった公的保険の規模は約17兆円ですから、それ以外に約83兆円の新たな市場を作ると明言されています。もちろん約83兆円を負担するのは国民です。これまでの直接の負担が約14兆円ですから約6倍の負担増です。約6倍も負担してやっと今と同じかそれ以下の医療が受けられます。質的には完全にアメリカ式で、高額の民間保険に加入できる一握りの方は今より良い医療を受けられるかもしれませんが、そうでない大部分の人々は制約だらけの質の低下した医療に甘んじるしかなくなります。

医師サイドから言うとそうなっても医師は困らないのです。約83兆円の新たな市場のかなりの部分が財界に吸い取られるでしょうが、少なくとも現在よりは格段に手取分が増えます。市場が3倍以上に膨れ上がるのですから、医師への報酬を2倍にしても財界の実入りは十分お釣りがきます。

東大教授の削減理論のデメリットは、

  1. 患者は公的保険でカバーされる医療が半分以下になる
  2. 従来の医療を受けるには現在の約6倍の医療費負担が必要になる
メリットは、
  1. 国の財政負担から8兆円が無くなる
  2. 財界負担分の6兆5000億円が利益となる
  3. 財界に83兆円の自由診療市場がプレゼントされる
医師は自分の利益ではなく患者の不利益を憂慮してこの流れに必死で反対しているのですが、肝心の患者に理解共鳴してもらうのに遥かな距離を感じています。あまりの無理解に、皆保険制度を患者のために守る事をバカバカしいと考え始めているものも静かに増え始めています。東大教授の
    留意すべきである
この言葉を良く噛みしめて欲しいと思います。