法律関係者のコメント

もちろん神奈川帝王切開賠償訴訟へのものです。私が読む限り非常に鋭い指摘だと感じますが、本当に意義のある部分に関しては正直なところ「よく分からない」のが本音です。それでもコメント欄の片隅に埋もれさせるのは余りにも惜しいので、私の勉強もかねて取り上げます。HN:「法曹関係者」様のコメントは5つに分かれていて縦に長いのですが、我慢してお付き合いください。

    取り急ぎ、神奈川帝王切開賠償訴訟・二審判決
    についての意見を述べさせて頂きます。

    これは、「トンデモ判決」です。
    間違いなく。しかし、これには医療訴訟の問題点がよく出ていると思います。

    ブログ主が推察なさっているように、
    高裁裁判官は、結審後に意見書を読んで非常に迷われたのだと思われます。

    そして、心証としては、限りなく、
    「因果関係を否定し、請求棄却(1審破棄)する」という方向に傾いたのではないかと思います。

    しかし、高裁で実質審理(患者側に反論の機会)を与えないまま、請求棄却することは、
    患者側にとって不意打ちとなることから大変な勇気と決断がいるのですが、
    残念ながら、悩んだ末、今回の玉虫色の判決になったというのが実態なのかと思います。

    だからこそ、判決文の論理は非常に難解なものになっているのです。
    自分の判断に自信がないときこそ、文章構造を難解にしてごまかすというのは、裁判官も例外ではありませんので。

    私も判決全文を読んでいないため、確信めいたことは言えません。
    しかし、本判決については、今のところ、次のように考えています。

この二審判決は実質審理無しで結審しています。実質無しとは準備書面の交換だけで終わったと考えて良いかと思います。争点整理も行なったでしょうが控訴審なので一審をほぼ踏襲して終わりでしょう。実は準備書面の交換がどの程度行なわれたかもよく分からないのですが、このコメントで指摘されているように

    実質審理(患者側に反論の機会)
もちろん「患者側」だけではなく「病院側」も反論の機会は無いのですが、二審判決で非常に重視されたのは二審段階で提出された病院側意見書ですから、それに対する実質審理が行なわれなかったと解釈すればもっとも適切かと考えられます。

ここから箇条書きで5つの指摘がなされるのですが、一つ一つに分けて読んでいきます。

    1 「高度の蓋然性」(CSの遅れとCPとの間に法的な因果関係)は認められない

      本件は、仮に帝王切開の準備が遅れたことの過失が認められるにしても因果関係がなしとして請求が棄却されるべき事案です。
    (もちろん、このCSが遅れたという過失を認めていることには非常に問題がありますがここでは論じません)

    高裁裁判官は、意見書を読んだ結果として、
    30分ルールにしたがって帝王切開を早めていたとしても、CSを開始する時点で
    「かなり強い低酸素状態及びアシドーシス状態に陥っていた」
    ことは認めざるを得ないとしています。

    ここまで認定しておきながら、どうして帝王切開の(僅かな)遅れによってCPとなった「高度の蓋然性」があるといえるのでしょうか。

    どう考えても、そんなことは言えないはずです。

    たしかに、少しでもCSが早まっていれば、CPにならなかった可能性はあり得ます。
    しかし、これは単なる可能性に過ぎません。

    最高裁判決(最判昭和50年10月24日[ルンバール判決])では、
    「高度の蓋然性」と認められるには、
    「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるもので足る」とされていますが、
    「はたして帝王切開の時間の差によって、CPが生じた」という因果性について、
    「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信」を持てるでしょうか。
    医師でなくとも、多くの人は「No!」というのではないでしょうか。

    このように、本件は、上記判例に抵触するので、上告(受理申立てが)できます(民事訴訟法318条1項)。

    そして、当然上告すべきです。
    医療訴訟において安易な因果関係(「高度の蓋然性」)の認定に歯止めを掛ける絶好の機会であるからです。

ここは子宮内感染のCPへの影響を認め「30分ルール」でCSを行なおうとも胎児の状態が相当悪かったのを事実認定している部分への批判です。実はここの判決文は極めて難渋な表現をとっており、

30分以内である午後10時8分ころに帝王切開術を開始したとしても, 既にその時点では, 胎児に実際に生じた現在のような重篤な後遺障害(低酸素性虚血性脳症による痙性四肢麻療) を残存させるような深刻な低酸素状態及びアシドーシス状態には至っていなかったにしても, かなり強い低酸素状態及びアシドーシス状態に陥っていたと認めることができるものである。

この部分だけならまだマシなんですが、この部分を導くために四重ぐらいの仮定を前提として展開した後に導かれます。一応判決文では「30分ルール」を満たす裁判所ルールの22:08に手術を開始すれば、

    子宮内感染の影響で「かなり強い低酸素状態及びアシドーシス状態に陥っていた」が重篤な後遺障害には至らない状態である。
こういう風に事実認定しています。22:08の「かなり強い低酸素状態及びアシドーシス状態に陥っていた」では重篤な後遺障害を残さず、実際に手術が開始された22:53、すなわち「45分」の遅れで重篤な後遺障害が残るほど胎児の症状が急速に悪化したというのが裁判所の論理展開です。この点について
    どうして帝王切開の(僅かな)遅れによってCPとなった「高度の蓋然性」があるといえるのでしょうか
これは訴訟ですから22:08の時点で「かなり強い低酸素状態及びアシドーシス状態に陥っていた」が重篤な後遺症を残す状態でなかったことを事実認定し、それから45分の時間経過で「悪化」する事に因果関係が必要です。因果関係の関連程度はお馴染みの「高度の蓋然性」であり、高度の蓋然性は8割の確率であるのが司法の慣例です。8割とは解釈であって明記されているルールではないかもしれませんが表現として、
    通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるもので足る
これは後の裁判に引用される最高裁判例として確立しているものです。22:08時点で「かなり強い低酸素状態及びアシドーシス状態に陥っていた」のに、その時には後遺症は残さない確率を「通常人が疑いを差し挟まない程度」と事実認定できるかは疑問であるとしています。法曹関係者様の指摘のように実際より45分早ければ「CP」にならなかったかもしれませんが、これは期待であって「高度の蓋然性」としての因果関係を認定するのは程遠い代物であるとしています。

    2 減額したのは、過失相殺(民法722条類推適用)をしたから?

    この点についても、判決文全文を読んでいない以上、分かりませんが、
    過失相殺をして損害額を調整したのではないかというような判決の言い回しがあります。

    民法722条2項には、
    被害者に過失があったときは、裁判所は、これを考慮して、損害賠償の額を定めることができる。
    とあります。

    これは、
    損害賠償請求ができることを前提に、損害の公平な分担という見地から
    被害者(本件でいう患者)側にも過失(損害への寄与)がある場合には、
    その寄与分は減額するという規定です。

    判決文には、

    「子宮内細菌感染と臍帯胎盤の血管病変に起因する相当程度の低酸素状態及びアシドーシス状態が素因として存在し, これが寄与して胎児に現在のような重篤な後遺障害(低酸素性虚血性脳症による痙性四肢麻庫) が残存した」

    とありますが、「素因」「寄与」といったタームは、
    過失相殺をする際に用いられる用語です。
    本件では、「被害者に過失があったとき」の「過失」に上記の素因が該当します。

    おそらく、高裁裁判官は、
    帝王切開の時間の差によって、CPが生じた」
    と認めるものの、その因果性の中には、
    「子宮内細菌感染と臍帯胎盤の血管病変に起因する
    低酸素状態及びアシドーシス状態」(以下、『本件素因』といいます)もあり、
    これが寄与した分は、減額すべきという法律構成を取ろうとしたと推察できます。

    なぜ過失相殺をしたと考えるのか?

    本件のように、過失とされる行為(本件でいうところのCSの遅れ)
    と本件素因があわさって、損害に影響(因果性)を与えたと考えられる場合に
    たとえば、裁判官が本件過失行為のCPへの影響度は「6割」くらいと考えたとしましょう。

    重要なことは、6割については因果関係を肯定するという判断はできないということです。

    これは、民法学でいう「割合的認定」と呼ばれる理論であり、
    以前民法学会で大いに議論されたところでありますが、
    ついに裁判実務で採用されるには至りませんでした。

    そのため、因果性は、前述してきた通り、高度の蓋然性が必要である以上、
    「本件過失行為によってCPが生じた」といえなければなりません。
    つまり「6割」程度の影響度では、「本件過失行為によってCPが生じた」とは言えないということです。

    あえていえば、高度の蓋然性という以上、影響度としては「8割」は必要なのです。

    しかし、本件では、「8割」という壁を越えられないことが
    明らかになってしまった。そうである以上、原則として請求棄却しなければならないのです。

    ただ、請求棄却も決断がいる。

    となれば・・・。

    そこで、高裁裁判官は損害賠償請求は認めたうえで、CPへの影響度が低い分については
    額で調整しようと考えたのではないでしょうか。
    そうした場合の、民法上の法律構成は、過失相殺しかありません。
    私が、過失相殺構成をとったと推測する理由はここにあります。

    しかし、この判断過程に問題があることは、明らかです。
    高度の蓋然性のハードルを下げているからです。

法律専門家でない私が解説するにはそもそも無理があるのですが、無理を承知で解説します。二審判決は子宮内感染の影響をあれこれ論じて事実認定した上でも、CSの45分の遅れが主要な過失であるとしています。どれぐらい主要であるかと言えば6割です。賠償額を4割削減した分は子宮内感染の影響によるという判断です。

こういう判断の仕方は「過失相殺」という考え方で法の規定にもあるのですが、今回の訴訟において過失相殺と言う考え方を用いるのは大きな問題があるとしています。因果関係の認定のためには「高度の蓋然性」が必要であり、これは8割の可能性を認定しなければなりません。それ以下では因果関係が無くなり「過失無し」となります。6割の過失認定では高度の蓋然性が確立されず、因果関係も成立しない事になります。

どうもこの辺が素人には隔靴掻痒の理解になってしまうのですが、

    これは、民法学でいう「割合的認定」と呼ばれる理論であり、
    以前民法学会で大いに議論されたところでありますが、
    ついに裁判実務で採用されるには至りませんでした。

今回の判決で用いられた理論展開は法律実務上「採用されていない」はずの理論の適用であると法曹関係者様は指摘しています。

この当たりの裁判官の心証の動きは本人に聞いてみないとわからないのと、また絶対聞くことは出来ない部分があります。おそらくですが

  1. 一審の判決文を読んでまず「審理不要」と判断。
  2. 結審させてから意見書を読んで心証が大きく動く。
  3. 動いた心証では請求棄却の結論になるが、審理をしていない後ろめたさを感じる。
意見書を読んで心証が動きそれを反映させようとした事は褒めるべき事だと思います。医療訴訟の二審ですから握りつぶせばほぼ確定です。もっとも意見書が上告審で反映されて、差し戻しないし新たな判断が下る可能性も考慮したのかもしれません。聞くところによると下級審の判事はより上級の判決で判断が大きく変えられたり否定されるようなことを避けようとすると聞いたことがあります。

そういう諸々の事情を考え、意見書を反映させながら患者側の顔も立て、病院側も納得させる妥協案が過失相殺による4割の賠償減額の判決でなかったかと言うことです。心証が動いた証拠として、

    3 高裁裁判官の胸の内は、主文にも出ている

    上記で述べたようなことは、当然に高裁裁判官も考えたのだと思います。
    しかし、無碍に一審判決を破棄する勇気もなく、
    また、患者側への救済的観点をも考慮して、請求額を減額するという玉虫色の判決にしたのだと思います。

    その実態は、「病院側の責任とは断定できないし、
    かといって請求棄却というわけにもいかないので、
    よく分からないので、原告と被告で痛み分けしてほしい。」
    というものです。

    高裁判決の主文をもう一度見てみてください。

    1. 原告患児に8125万2506円
    2. 原告父親に170万
    3. 原告母親に170万円
    4. 訴訟費用は等分

    第4項を見てください。訴訟費用は等分負担となっています。
    一審は、被告(病院)が75%負担でした。

    通常、訴訟費用の分担には、裁判所の心証が表れます。
    高裁裁判官の「どちらとも判断できない」という逡巡がここに見て取れるのではないかと思います。

訴訟費用の配分については何度か聞いたことがあります。そこの配分比率で裁判官の心証の動きを読むことができると言う風な話でした。たしかに賠償額を4割減らすと同時に訴訟費用を等分にしているのですから、バランスとしては間違っていません。問題は「6割の責任」の認定が正しいかどうかに絞られようです。

    4 無過失保障制度の先取り?

    moto-tclinic氏のコメント欄での指摘にありますように、
    無過失保障制度的な発想があるのはたしかだと思います。
    こうした因果性が不明な事案において、リスク分散的発想に立って、
    「過失」概念や、「高度の蓋然性」概念をいじるという手法は、以前から採用されています。

    しかし、この手法は、法的根拠がないので判決文に明示されません。
    これが民事実務の実情ですが、黙認するべきではありません。
    医療訴訟において無過失を過失とすることは、
    すなわち、業務上過失致死罪における「過失」があることにもなるので、
    福島事件のようなリスクが増幅するからです。

    安易に過失認定のハードルを下げようとする判決には上訴してでも争うべきと思います。

    まして、本件のように、高度の蓋然性のハードルを下げたことの後ろめたさを
    過失相殺でごまかす手法など、けして認められるものではありません。

医療訴訟に限定されるかどうかは私では分からないのですが、民事訴訟である行為が過失と認定されるには、その行為が因果関係を持つ必要があります。行為と結果の関連性は「高度の蓋然性」が必要と言うのが最高裁判例であり、これはずっと踏襲されています。一方で過失相殺と言う法適用もあるようですが、これについての適用がこの訴訟においては無理があるとしていると考えます。

ここから書くことは法律や裁判の実務について疎いので、あくまでも私がそう解釈したと言うだけですが、高度の蓋然性はあくまでも8割以上の可能性の認定であり、単純な解釈としてこれが成立すれば過失認定されて賠償、されなければ賠償責任無しになります(「相当程度の可能性}の話はここではさておきます)。たしかに医療訴訟の賠償認定では、幾つかの争点があり、そのうち主要なもので事実認定されないものがあればその分は減額にしています。主要な争点のうち高度の蓋然性が認定されたものに対して賠償額が決定されます。減額分は事実認定されなかったものの額と言えばよいでしょうか。

それが個々の争点で、高度の蓋然性の8割のルールがなし崩しになり、過失割合が幾らであっても賠償の責任が生じる事になればになります。ここはうらぶれ内科様のコメントが分かりやすいのですが、

6割助かるなら6割払え、ならば3割助かる可能性があるなら3割払え、1割助かる可能性があるなら1割払え、弁護士費用くらいは簡単に出る。こりゃ訴訟を起こさなけりゃ損ですね。

まさにこの世界を示唆している事になります。この判決においての過失認定は「CSの遅れ」だけです。この過失の責任認定が6割となった時点で訴訟的には請求棄却になるべき案件であったのが、高度の蓋然性を拡大適用する事により、より広く過失適用が拡がってしまいます。この訴訟は民事ですが、

    医療訴訟において無過失を過失とすることは、すなわち、業務上過失致死罪における「過失」があることにもなるので、福島事件のようなリスクが増幅するからです。

刑事でも拡大適用されて第2、第3の福島事件の温床になるだけでなく、刑事における「有罪」の範囲が止めどなく拡がっていく事にもつながると考えられます。

理解できる範囲でコメントを解説しましたが、おそらく誤解と言うか、解釈の間違いも含まれていると思います。その点についてはよろしく補足してもらえればと思います。ここまでの法解釈と言うか、法律実務の話となると手に負える範囲をかなり越えていますので、その点は差し引いてのお考え下さい。

最後に法曹関係者様のコメントをもう一つ引用して終わりたいと思います。

東京高裁の判事ともあろう者が、事後の事例に多大な影響を与えることも分かっていながら、ここまで曖昧な判決を出すというところに、愕然とさせられます。