怖ろしい時代

この事件を書くのは私には荷が重過ぎるのですが、やはり書いておく必要があると考えます。4/11付Asahi.comより、

「もう管制できない」ニアミス逆転有罪、現場に衝撃


 「危険は決して生じさせてはならない」――。01年に起きた日本航空機のニアミス事故訴訟で、東京高裁は管制官の職務上の義務を厳しく指摘し、管制官2人に有罪判決を言い渡した。様々な要因が絡む航空事故で、個人の刑事責任が認定されたことで、関係者に驚きと不安が広がった。

 「明日からというか、今日から管制業務はできない」。籾井康子被告は判決後の会見で、現場への影響をこう語った。一瞬の「言い間違い」が厳しく断じられた点について、「現場に不安と緊張を強いるもの。安全にとって有害」と声を詰まらせた。

 国土交通省航空局の幹部は「実務への影響が心配」と話す。日本上空の交通量は、事故当時の年間約410万機(全空域の延べ数)から現在約500万機と約22%増加。だが管制官は1732人から1950人と約13%しか増えていない。今後成田空港の滑走路延伸や羽田の再拡張などで、より多くの機体をギリギリの間隔でさばくことが求められている。

 今回の事故は、同省航空・鉄道事故調査委員会の報告書でも、システムの不備や運用の不徹底など複数の要因が指摘された。こうした状況を踏まえ、一審・東京地裁は、個人への刑事責任追及は「相当でない」としていた。

 欧米では影響が大きい事故の場合、当事者を免責したうえで真実をすべて語らせ、再発防止に役立てる考え方が主流になりつつある。過度な責任追及は、原因究明に支障をきたす恐れもある。処罰を逃れようと、当事者が真実を語らなくなる可能性があるからだ。この点で、今回の高裁判決は国際的な流れに逆行する形となった。

 管制官ら運輸行政に携わる労働者で構成される全運輸労働組合(組合員約9千人)も「再発防止より個人の責任追及を優先する対応は問題」と批判する声明を出した。

 管制交信ミスによるトラブルは最近も多発。ほとんどが「聞き間違い」や「誤解」だ。ベテランの事故調査官も「声だけに頼る交信に誤りはつきもの」と言う。国交省も「人間は間違える」ことを前提に、二重三重の安全策の構築に乗り出したところだった。

 10月から事故調査委は「運輸安全委員会」となり、海難も扱う総合的な機関として調査力の向上が期待される。同委が当事者から再発防止の核心に迫る証言を引き出すことが必須で、航空関係者には「免責」を含めた検討が必要とする意見もある。

 一方で、多くの犠牲者が出たり、過失が明らかだったりした場合には「刑事責任は当然」という意見が強くなる。被害者感情もある。再発防止と刑事責任追及のどちらに重きを置くか、議論を求める声が高まっている。(佐々木学)

元の事件の概略は航空管制を行なっていて、管制官が指示する便を完全に勘違いして誘導し、ニアミス事故が発生したというものです。結構な数の負傷者が発生したと記憶しています。専門的に細かい事はいろいろあるでしょうが、事故の原因として管制官の勘違いであると判断されても事実関係だけなら間違っていないかと思います。この辺りについても異論はテンコモリあるかもしれませんが、元の事件の経緯の記憶が曖昧なのと航空事情についての知識が浅いので航空管制官にミスはあったととりあえずしておきます。

過失があり負傷者が出たら業務上過失致傷になるのは法律です。だからこの航空管制官が有罪となった事自体は無茶苦茶とは言い切れません。法に規定してあればこれを忠実に適用するのが裁判官であり、法治国家だからです。それでも猛烈な違和感が残ります。過失に対し罪を課すのは何のためかと言うことです。もちろんこれも過失を罰によって償わせるためです。では過失を罰によって償わせる目的は何かとなります。

過失を罪によって償わせる目的は幾つかあるかと思います。ここも法学の専門家なら様々な法理論があるのでしょうが、あくまでも素人なので至極単純に考えて、

  1. 負傷者の処罰感情の慰撫
  2. 再発の抑制
この二つが目的であると考えます。通常この二つは無理なく両立するはずですが、この事件では両立しているように思えません。まず「負傷者の処罰感情の慰撫」の目的には有罪判決と言うことで適っているとまず考えます。では罰を課す事により「再発の抑制」につながるかと言えばそうとは思えません。

この事件で起こった管制ミスは過失です。管制官刑事罰が下される事により他の管制官が震え上がり、「ミスをしてはいけない」と感じるとは思います。感じることで防げるミスであれば「再発の抑制」効果はあるでしょうが、いくら注意しても絶対には防げないミスであるなら震え上がる程度の反応では済まないと考えます。

航空管制官の業務はレーダーやコンピュターが発達したと言っても基本的に手作業です。モニターに映し出される情報から瞬時に判断し、無線で航空機に指示を与えます。判断する作業も指示を出す作業もすべて人間の手で行なわれます。人間の手で行われる事に絶対はありません。いくら業務に習熟していても、何千回、何万回の作業のうちに絶対にミスはでないと言い切れるものはまずいないかと思います。人間が行なう限り必ずミスは発生するのです。

そのミスに対し刑事罰が下されるのであれば「ミスしないように頑張ろう」という生易しい反応で済まないと考えます。そもそもミスなど出ない航空管制、つまり少々のミスが出ても事故につながらない過剰なセーフティ・マージンを取った航空管制を行なおうとするか、航空管制業務から逃げだそうと考えても不思議ありません。航空需要を満たすために限界ギリギリの名人芸のような航空管制を目指すより、ど安全な航空管制でひたすら安全運転を目指さそうと考えて不思議ありません。

ど安全な航空管制を行なって航空事故を防止したら、それはそれで「再発の抑制」になるとも皮相的には考えられない事もありませんが、一方で航空機による輸送量は大幅に減少します。現在の需要を満たすにはもっとたくさんの空港を作らないとならなくなりますし、空港も隣接していたのでは管制の安全を確保できませんから、十分に安全な距離を取って建設する必要がでてきます。簡単に言えば多くの航空機利用者はすごく不便になるということです。

不便になっても人間の命には代え難いからすべての利用者が我慢するのなら、まだ話は収まりますが、現実は増大する航空需要を満たす要求は1mgとて減らすことは許されません。航空管制官は絶対には防ぐ事ができないミスの可能性をこれからも抱える事になり、ミスが起これば刑事罰を下される状況下にこれからも置かれる事になります。そんな重苦しい世界に人間は耐えられるかです。

この話は医療者にはよくわかる話です。医療者が現在直面している問題そのままと感じています。医療もすべて手作業であり、いかにシステムを張り巡らそうとも必ずミスは生じます。ミスが生じればその過失を問われます。誰も故意にミスを冒そうとしたわけでなく、くり返される膨大な作業量の中での単純ミス、思い違い、結果としての判断ミスなのです。これは絶対には防ぐ事は不可能です。いかにミスに対して厳罰が下されようが完全に防止する事自体がそもそも無理な要求です。

医療は既に刑事罰で処罰する傾向が著明となっています。その結果としてミスは激減したでしょうか、医療レベルが向上したでしょうか、いずれも否です。刑事罰が下されるのを見せ付けられた医師はひたすら防衛医療、萎縮医療に傾きつつあります。刑事罰が発生しやすい職場からはドンドン逃げ出していき、そこへの志望者も激減しています。これに対する批判は盛んですが、人間ならロシアンルーレットを毎日もてあそばなければならない職場はゴメンと考えるのを非難できないと考えます。

現在の日本では「被害者感情の慰撫」が何より最優先されます。感情の慰撫は必要な事であり、これを行なう事自体は何人も否定は出来ません。しかし優先させすぎていると感じてしまいます。感情の慰撫を優先させるために貴重な社会システムも一緒に破壊している様に最近は思えます。感情の慰撫への過度の傾斜がかえって社会に歪をもたらしているように思えるのです。

これは単純には法体系の是正で対応は可能ですが、そういう処分を当然のものとして求める社会の変質も大きいと思います。これに対する処方箋となると簡単には思いつきません。どうにも、こうにも大変な時代になっており、その傾きは拍車がかかっているように思います。これから5年後、10年後の社会がどうなっているかを想像するだけでも怖ろしく思えます。