まだチャンスはあるのだろうか

たくさんのコメント、TBありがとうございます。コメントに対していちいちご返答させて頂きたいのはヤマヤマですが、これだけ来ると対処が難しく、ある程度まとめてになる失礼をお許しください。

正直、一昨日のエントリーへの反応は驚きました。エントリーにも書きましたが、頻発する医療訴訟の判決、判決に至らなくとも訴訟を起こされた報道を読むたびに医者は縮み上がっています。誤解して欲しくないのですが、明らかな医者のミスに対する断罪は気にもしていません。「そんなものはオレはしない」と医者なら誰も考えています。人間という不確実性に溢れた対象に行なうという医療という仕事は、それぐらいの自信が無いと到底出来る仕事ではないからです。ところが状況を当てはめて、自分でもおそらく同じ診断の元に同じ治療をする可能性があるものにはひたすら恐怖します。

医療での診断や治療法の選択は、絶対の正解はほとんどの場合は無く、高い確率でこちらの方が可能性があるという判断から行なわれます。確率は高いだけですから、低い方の可能性が出現した時には治療効果が現れないことになります。それでも病気の重症度が軽い時や、病状の進行がゆっくりしている時には、効果が無い時点で最初の診断や治療方針が正しくないと判断ができ、新たな診断や治療法でやり直せます。この程度の事は医療では日常茶飯事です。

ところが重症でその時点の判断が生死を決する場合もあります。この時の診断や治療法の選択も可能性が高い方を選択します。これは医者でなくともあらゆる職業でそうかと考えます。わざわざ可能性の低い方を選択する理由がないからです。そこで可能性の低い事がもし起こったら、これはもう医学の及ぶところではないと考えます。医学の限界を超えた不幸な事故と考えています。

ところが昨今の風潮は可能性の低い事が起こる事を予期しなかった事を痛烈に批判します。これは医者にとって想像を絶する負担となっています。ごく稀に起こるが、十分な準備をしておけば予防可能であると判断されればすべてミスだと断定されます。このごく稀に起こる事態へのすべての準備は、読むだけなら美しい言葉です。何と言っても医療は人の生死に関わる職業ですから、ごく稀であっても準備をしないのは怠慢であるというのは正論であるのは広い意味で認めます。

医師は「それをせよ」と言われればします。医師の最大にして唯一の目的は患者の病気を治すこと、また患者の生命を救うことです。そのためにはあらゆる努力を惜しみません。出来る範囲の事は最大限の努力を重ねて既にしています。それでも想定できるすべての事態にはなっていません。それはなぜでしょう。

すべての事態に想定した準備は膨大なスタッフ、莫大な設備を要します。当然それには膨大な費用がかかります。これが出来るだけの費用が与えられるなら、医者なんて専門馬鹿ですから、ひたすらその実現に邁進します。そういう人種が医者です。ところがそんな費用は無いのです。せいぜい確率の低い事態の中で比較的高いものに対する準備が精一杯です。

またその準備が空振りに終わったときには、これは経営の面から強い牽制が行なわれます。医療費の無駄遣いであるという批判です。世間では医療費は削減するものであり、増やすなんて事は極悪の所業であるとの認識が行き渡っています。そうなれば医者は不測の事態への準備をギリギリまで削る事に腐心せざるを得ない事になります。

かくして医者には二つの矛盾した要求が突きつけられることになります。

  1. 医療費を削減するために不測の事態への準備を出来る限り最小にする事。
  2. もし不測の事態が起こったときに万全の準備が出来なかった事への責任を取る事。
この二つの絶対的な要求の前に、医者は神である事を要求されます。絶対に診断も治療も間違わない事です。その患者の病気の診断に無謬である事が必要であり、治療には水も漏らさぬ完璧性を要求されると言う事です。これが出来ないものは断罪されるという明白な現実です。

それでもなんとかこの要求に応えようと医者は健気に努力してきたと思います。ところが現実に断罪される事象を次々と目の当たりにさせられると、医者の心は重圧と疲弊に耐えかねて折れます。

    無理な可能性のあるものには手を出さない。
結果責任を厳しく追及されたものの起こるべくして起こった反応です。実はこういう精神は医師としては恥ずべきものだとこれまでは考えられてきました。99.9%無理であっても、0.1%の望みに最大限の希望を託して努力するのが医療だと信じてきました。それが医師の使命であり、医師が医師たる所以と固く信じ込んでいたのです。

この高邁な使命感が医療を支えていたと思います。この士気の高さが激務と呼ばれようが、労働基準法の枠外の奴隷と呼ばれようが現場を支えてきた原動力だと思います。またこの士気が育まれたのは医学教育から現場にまで一貫して流れる気風です。この士気が音を立てて崩れているのが現在の医療状況です。

医師はこの状況変化を敏感に感じています。この変化が医療崩壊を招くと予感し、状況改善を粘り強く働きかけています。この働きかけは残念ながら誰の目にも止まらない程度のものでしかありません。「なんで黙っていたんだ」の批判もあるようですが、なにも黙ってはいません。いくら訴えようとも誰も聞いてくれなかったのです。団体レベルなら日医や学会も繰り返し要求していますし、有志レベルでは周産期医療の崩壊をくいとめる会などの団体が活動しています。個人レベルでは私も含めてブログなどで出来うる限り訴えています。

それでもほとんどの人が無関心です。無関心は言い過ぎかもしれませんが、少なくとも一般の方々が最大の情報源にされているマスコミは無関心です。無関心の上に医療側からすれば事実をかなり歪曲して報じています。歪曲かどうか、どこに真実があるかの検証はまた別の問題になりますが、今回の奈良事件でも報じよう一つで印象は全く異なったものになります。たとえば、

    子癇発作から脳出血を起こした妊婦に緊急治療が必要となったが、これの治療が可能である病院が夜間でもあり、なかなか見つからず、受け入れ病院を見つけ出すのに2時間以上かかった。救急体制の速やかな整備が求められる。
この程度の内容を主としていれば、医療現場の厳しさ、今求められているものが浮き彫りになり、体制整備のためにどうしたらよいかを考えるきっかけになるかと思いますし、現場で苦労している医者として望ましい医療体制について積極的に発言していけます。ところがほとんどの場合、貧弱な医療体制については片手間に触れる程度で、主として誰が犯人であるかの報道に終始し、疑わしいとマスコミが決め付けた人物には嵐のようなバッシングを浴びせます。マスコミ挙げてのバッシング中にいくら医療サイドから声を上げても誰も聞こうともしませんし、マスコミも完全無視の姿勢です。

良きにつけ悪しきにつけ、マスコミが報じない運動は「無かった」ものとして判断される風潮が蔓延しています。マスコミが報じない程度の運動は、運動したうちに入らないと判断される方が多いようです。そうなればマスコミが意図的に情報操作することにより、あらゆる不都合な運動は無かったものになります。それはおかしいのではないでしょうか。

そういう風潮の中で私も含めて医療関係者は暗澹たる思いを浮かべています。それでも今回の事件に関するエントリーの反応に、少しだけ希望が見られました。私のエントリーはお読みになられたとおり、マスコミ報道とは別の視線で書いたものです。それに関して理解してくれる人が決して少なくない事が分かったからです。

うちのブログを初めて読まれた方はご存じないと思いますが、とくに福島事件以来、医療問題、医療危機について出来る範囲で種々の考察を行ってきました。そこで導き出された結論は、

この路線は今や防ぎようが無いというものです。医療は医師が決め構築できるものではありません。国が定め医師が従事するものです。医師はこの医療危機について出来るだけのチャンネルを用い改善を訴えてきました。ところが成果はゼロに近く、ゼロどころか医療関係者の思いとは逆の施策が次々と打ち出されています。

では誰が医療の流れを変えれるか。医療は国が決めるものですから、国民の多数が望まないと変えられません。いくら医療者が悲憤慷慨しても変わらない事だけは証明されています。この事件もマスコミ報道は個人犯罪として事件を矮小化させようと何故か必死です。本当は個人ではなく体制の問題であるのは、少しでも考えてもらえれば分かることです。

それを分かってくれる人が今回の事件でおられる事が分かり、少しだけでも希望がでました。この流れが大きなものになってくれる事を私は祈ります。崩壊や焼野原を口にしている医師も心の底からそれを望んでいるわけではありません。そこまで行かないと誰も気がついてくれない絶望感から口にしているのです。

医療は必要なものです。不要と考えている人は少ないかと思います。どんな医療が望ましいのか、望ましい医療を実現するにはどうしたらよいかを考えて欲しいとひたすら願っています。