ツーリング日和2(第1話)二十二世紀のクルマ

 時代は二十二世紀に入りました。二十二世紀になると、どんな世界になっているのだろうの予想は数々ありましたが、

「その前に二十一世紀に入る時も知ってるやんか」

 まあそうですが、実際に入ってみたらさして驚くほどの変化はない気がします。もちろん細かいところは色々と変わっていますが、

「ずっと見てるとそんなものよ」

 ツッコミがうるさいな。紀元前三千年前から記憶が続いている生きる化石に言われたくありません。とにかく今回の出番はここだけになりそうなんですから邪魔しないで下さい。まったく、何かあれば口を挟もうとするのは悪いクセです。

「ミサキちゃんもそうやんか」
「そうよ、シノブなんてもっと出番が少ないんだよ」

 放っておきましょう。それでもミサキが覚えているものと大きく変わったのがクルマです。二十一世紀の前半頃から電気自動車へのシフトが始まっていましたが、その頃から時代の空気は異常になったとしたで良いでしょう。

「そやったよな」
「そこまでやってしまうって感じだったもの」

 社会全体の空気がそうなってしまったとしか言いようがないのですが、とにかくグレーを認めないどころか排除に走った時代ぐらいになります。グレーを排除したために世の中はシロとクロの二元になり、シロが絶対正義みたいな風潮です。

 クルマに関しては環境保護運動の一環で良いと思いますが、ガソリン仕様車廃絶運動が盛り上がりました。廃絶運動をせずとも電気自動車への流れが出来ていましたが、道路から排除せよみたいなものになっています。

 しかし廃絶運動とは裏腹に電気自動車への転換は足踏み状態が続くことになります。電気自動車にも弱点があったからです。電気自動車の弱点をあえて一つに集約するとバッテリーです。

 走行時間も走行能力もバッテリー容量に依存します。とくに冬季になり寒くなればバッテリーの能力が低下します。寒冷地ならなおさらです。さらに走行能力を上げるためにバッテリー容量を増やすと、バッテリーの重量、大きさがネックになり、

「電気トラックやバスは苦労しとった」

 それとバッテリーは放電すると充電する必要がありますが、充電時間も問題でした。メーカーも必死で開発には取り組んでいましたが、ガソリン給油のように短時間では到底無理で何時間も必要です。

 当時のバッテリーでは走行距離こそガソリン仕様に肩を並べるところまで来ていましたが、充電時間の差はファミリー・ユースでもビジネス・ユースでも大きな障害になったのです。

「あの時代やからEBバッテリーに飛びついてくれたんやが」
「今なら無理だと思います」

 EBバッテリーは従来のバッテリーの欠点を帳消しにする高性能バッテリーです。驚くほどの軽量小型化が出来るだけでなく、従来型の十倍以上の蓄電量とガソリン給油並みの短時間充電を実現しています。

「その代わりにベラボウに高い」

 エラン技術導入製品の宿痾ですが、とにかく製造するのが難しいのです。世界最高の品質管理と製造技術を投入しても、とにかく製品の歩留まりが悪すぎます。製造の難度の高さは、なんでもすぐにコピー製品を作る国でさえサジを投げてしまっているぐらいです。

「今の地球の技術で作るのに無理がありすぎるからな」

 背伸びどころか棒高跳びでもやっと指の先が触れるか触れないかぐらいの代物で、そうですね、江戸時代ぐらいの技術水準でジェット機を作っているようなものだと良く評されます。

「それでも導入してもたもんな」
「おかげでうちは儲かったけど」

 EBバッテリーの導入により性能面ではクリアした電気自動車でしたが、次に直面したのがコストです。そりゃバッテリーだけで当時ならクルマより高かったですから、今はそれなりの量産化で少しはコストダウンしていますが、

「今でも安ないで」

 そうなのです。規格にもよりますがすぐに百万円単位で必要です。ガソリン仕様車廃絶運動は過激なぐらいでしたが、一方で高いクルマは買わないの本音と建前がモロに出たぐらいです。

「あれもあっちに暴走するとは・・・」

 ガソリン仕様車を廃絶し、クルマの値段をガソリン仕様車並みにする要求が国民的な運動になってしまったぐらいです。そのために政府とメーカーが一体となってコストダウンに走った末に、

「単一車種になってもた」

 シャーシからパーツ、ネジまで全部全社共通になってしまったのです。今から思えば信じられませんが、そうさせるための異常な熱気は怖いほどでした。

「クルマは運転しないものになっていったものな」

 電気自動車が登場していた頃から開発が進んでいたのが自動運転技術です。これの推進が異常なほどな熱気で押し進められ、通信による制御でトータル・コントロールが行われるようになりました。

 自動運転義務ゾーンも高速道路や自動車専用道路から始まり、有料道路、さらに主要幹線と広がって行きました。今では整備の良い地方道もかなりそうなっていますし、東京あたりになると八割ぐらいそうなっています。

「住んでるとこと、行き先によるけどドライブ言うても行き先を入力するだけやもんな」

 コントロール・センターがルートを選びクルマを走らせます。渋滞情報も加味していますから、最短ルートでなく最短時間ルートを常に選んで走ります。

「バッテリーに充電が必要になったら自動で充電スタンドに行って自動で充電するし、目的地の駐車場にも自動で駐車するから、寝とっても着くぐらいや」

 このクルマのトータル・コントロールは非自動運転道路にも広がっています。車間距離保持装置、車線保持装置、衝突安全装置、速度制御装置・・・数々の安全装置が標準装備されており、人は許された範囲のみのハンドル操作を行うだけのところも多くなっています。

「昔よりクルマの運転は下手になってるのは間違いないわ」
「運転させないように進んじゃったもの」

 安全運転の観点から言えば悪くないのかもしれませんが、

「やり過ぎた時代はあったよね」
「何事も過ぎたるは及ばざるが如しや」

 当たり前ですが自動運転は交通ルールを遵守します。それは良いのですが遵守しすぎた面があります。速度制限や一旦停止、信号遵守、追い越し禁止を守るぐらいは良かったのですが、

「駐車禁止徹底主義者の意見を取り入れたもんやから、クルマは駐車場から駐車場に移動する乗り物になってもたもんな」

 目的地に着くまでクルマは停まらなくなってしまったのです。これは急に尿意を催しても、乗り物酔いを起こしても無視されます。そう観光に出かけて、景色が良いので少し停めて見るのも出来なくなったのです。

「そっちも問題やったが、ビジネス面ではもっと深刻やった」

 やり過ぎた反動で今はそこまでの事は無くなっていますが、クルマは運転を楽しむものから単なる移動手段に認識は完全に変わっています。

「完全やないで、今でも生き残っとるのはおる」

 ガソリン仕様車の生産は中止されましたが、ガソリン仕様車の使用は認められています。さらにガソリン仕様車には各種自動運転装置の装着も義務化されていません。これは反動の時代にガソリン仕様車保護運動が高まり、文化財保護法的なものが制定されたからです。

 ガソリン仕様車は高速でも運転手の意思でハンドルを操作し速度をコントロールできます。ミサキにしたら当たり前ですが、それが出来るガソリン仕様の旧車に人気が集まり、売買や整備のマーケットが確立しています。

「もっとも金持ちの道楽で若いやつでは手が出えへん」

 旧車と言っても半世紀以上前のものになり、ガソリン仕様車廃絶運動の時にかなり壊されています。そんな骨董品みたいな旧車を購入し整備して走らせれる人はどうしても限られます。

「変な時代やったもんな」

 本当にそう思います。あれだけ極端に意見が振れて熱気が渦巻いてしまった理由は、今となっては理解が本当に難しくなっています。とにかく社会がある方向に流れ出すと誰も止められなくなった時代としか言いようがありません。

次回作の紹介

 紹介文は、

 歴女のコトリ、温泉小娘のユッキーの二人の趣味を満たしながらのツーリングは、四国に、さらに山陰へ。旅先で出会った人との心温まる交流を描くツーリング日和第2弾です。

 今回は、前半の祖谷温泉から四国カルストを走るツーリングと後半の山陰ツーリングの実質二本立てです。

 ツーリング日和シリーズの基本構成は、寄り道ツーリングを行う観光部分を背景にしながら、そこで知り合った人々との交流と言うか起こった事件が本線になります。

 小説に登場させる人物はキャラを立てる必要があり、上手くキャラが立てられた人物ほど話を広げやすく、書く方も楽しく筆が進みます。

 今回なら後半の山陰ツーリングの方が書く方としては楽しめました。だからではありませんが、表紙絵は後半のヒロインと愛車のトライアンフ・ロケットを使っています。

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オプションの話

 新車を買うとなればオプションをどうするかはあります。まずモデルチェンジしてから目に付いたのがグリップヒーター。とにかく冬のバイクは辛いですから飛びつきました。サードパーティ品もありますが、電装は小型ほど負担が大きいので純正にしてみました。

 それとリアボックス。とにかく主要用途は通勤ですから、収納場所は必須です。格好もヘッタクレもありません。あれも排気量によって適正サイズがあれこれ論じられていますが、現在の物より可能な限り大きなものを頼みました。スクーターと違ってメットボックスなんかありませんんからね。

 これはクルマとバイクの根本的な差で、とにかくバイクには収納場所がありません。だからリアボックスを付けている人がおられるのですが、スクーターならともかく、他のバイクなら格好の問題で忌避される人もおられます。

 それも良くわかります。それに付けるとバイクを跨るのにも邪魔になります。ですが、安定した収納場所の確保の利便性は、一度付けると病みつきになるとさえ言われています。それぐらいあるとないとでは、日常ユースで大きな差があります。

 このオプションなのですが、これだってモデルチェンジから半年ぐらいは待ちたいのが本音でした。誰かが付けての製品評価です。まあ、そんな優雅な事を言ってられないのが現在の納車状況ですから、ハズレがないことを祈っておきます。

 それ以外は相談というより雑談になったのですが、メーカー純正ならイモビライザーもあります。付けないより付けた方が良いのは確かですが、あれはあれで厄介なところがあるので、保留にしました。安くもないですからね。

 後は追加の計器類をどうしようかです。とにかくタコも、シフトインジケーターも、時計もありません。シフトインジケーターはどうでも良かったのですが、タコは悩んでいます。MTですからタコは欲しいですし、タコに時計を組み込んだものもあります。

 それとこれは勝手な趣味ですが、作中のバイクに近付けたいはあります。全部は無理ですが、オイルクーラーは見栄えとして検討しても良いかもぐらいです。

 ただ問題はありまして、予算も当然ですが、モデルチェンジをしている点です。ほぼ似たような大きさ、形ですが、旧型のオプションパーツが新型にどれだけ適応しているか不明な点です。ああいうものは微妙にサイズが変われば付かないことがありますからね。

 そういう情報を集めるために発売されてから少なくとも半年、出来れば1年ぐらい待ちたかったのですが、自然に納車までの期間がそれぐらい出来てしまったのが皮肉です。ですから納車されてから考える事にします。

バイクの発注

 ツーリング日和の執筆が始まったのが2月の末日で、そのかなり前からツーリング関係の動画に嵌っていました。そうしているうちにツーリングがやりたくなり、ツーリングのために新しいバイクが欲しくなった次第です。

 せめて250ccとも考えていた時期もありますが、家の駐輪場の関係で早くに断念しています。理由は簡単で、今のスクーターより20cmも30cmも伸びればターンが不可能の物理的制約です。ターンが出来なければ延々とバックで引っ張り出す必要が生じます。

 そこで目に付いたのがモンキー125で、サイズと言い、スタイルと言い、年齢体力を考えるとちょうど良いと考えたのです。バイクは大きいほど長距離走行に適しますが、その代わりに取り回しに難が生じます。気だけ若くとも実際になるとシンドイだろうの計算もあります。

 次は本当に買うかどうかで、まあ迷いに迷ったのはあります。さらにモデルチェンジで5速化の噂はその頃から出ており、どうせなら新型が出てから考えようと保留にしていました。非力な125ccで4速と5速の差は大きいですからね。

 新型の発表の噂は7月から8月とありましたが、結局のところ9月末です。その間はひたすらツーリング日和シリーズを書いています。コロナ禍でどこにも出かけられないストレスのはけ口になってくれて、想像のロングツーリングをしています。

 でもって9月末に新型が発売され10月の上旬についに決断。バイク屋に発注に出かけたのです。バイクを買い替えたいと言うと、そりゃ、向こうも商売ですからすぐにレスポンスしたのは良かったですが、少々早トチリしたようで、どこかに電話をして、

    今あるのはこれぐらいです
 どういう事かと言えば、コロナの影響でバイク生産もかなりの支障を来しているようなのです。カタログ・ベースにはたくさんありますし、どれでも買えるのは買えるのですが、モノによってはなかなか手に入らないとのことです。

 もう一つ早トチリしたのは、今乗っているのがスクーターですから、買い替えるのもスクーターだと思い込んでおられたのもあります。スクーターなら今ので十分の旨を伝え、欲しい車種をやっと伝えられました。

 車種が決まれば話は早いのですが、早いのは話だけで納車となると五里霧中状態で、さっぱり見通しが立たないのです。そういう状況は2月に欲しくなった頃からあり承知はしていましたが、それでも聞きたいのは人情です。

 年内は論外で、春に手に入れば上出来で、

    来年の夏までにはなんとかなると思いますが・・・
 これもあくまでも希望的観測のようです。そんなバイクが欲しいのですから待つしかありません。来年中か、下手すると来年度中になるかもしれないと覚悟しています。

 そこまで遅くなっている原因はやはりコロナ禍です。パーツの供給が不安定で需要に応える生産が出来ない状況が続いているで良さそうです。とくに電子部品の不足が著しいとかがあるようで、その辺はクルマの生産にも影響が出ていると聞いています。

 もう一つは国内需要の増大のようです。ちょっとしたバイクブームが出ているようです。コロナ禍で、どこに出かけるにも気を使う世の中です。ですがバイクでのツーリングは密が生じにくい点を評価されたようです。

 これはクルマのドライブとのちょっとした差で、人にもよりますが、ツーリングで重きを置かれる楽しみは道中の運転です。これに対しドライブは目的地でなにをするかが重いところがあります。ツーリングにも目的地はありますが、極端な話、そこに何かがあれば良い程度で、さらに言えば、そこが人混みになっているところは嬉しくないところがありあす。

 それとクルマに較べれば安上がりです。これも車種と言うか排気量で大きく変わりますが、バイクの維持費はクルマより割安です。小型なんか桁違いに安いのです。

 どうもその辺のところを評価されたみたいで免許の取得者が増え、バイク需要がメーカーの予想を超えて増大しているぐらいのようです。私もその一人みたいなものですから、気持ちは十分に理解できます。

 つう事で発注はしましたが、手に入るのは忘れそうになるぐらい先になりそうです。ツーリング日和は8作目を書いていますが、これを全部公開しても間に合うか、間に合わないかぐらいになりそうです。新車レビューを書くのなんていつの日か状態なのに笑っています。

ちょっと卑弥呼

 邪馬台国論争は楽しいのですが、簡便にwikipediaより、

  • 時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、1000人の侍女たちを使えさせたという。
  • 景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
  • 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
  • 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
  • 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与[2]。
  • 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢 を授与。
  • 時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

 たいした話ではないのですが、魏志倭人伝には魏の使者が二度邪馬台国を訪れたと記録しています。魏志倭人伝の前半部には帯方郡から邪馬台国への道のりを書いた有名な部分ですが、ここでのポイントは魏の使者は邪馬台国に達している点と見ます。

 つうのは邪馬台国論争では魏の使者が邪馬台国まで行き着いてない仮説まであるからです。他人の事は言えません、私もその説をベースに考えたことがあります。

 とくに正始八年の使者である張政は邪馬台国に行ったものの、そこで歴史的大事件に遭遇しています。そう卑弥呼の死です。卑弥呼の死後は後継者争いが起こり十三歳の壹與女王が立つことでようやく終息したとなっていますが、

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹


壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ

 壹與女王が張政を送らせた使節団は大規模であったとしてよく、邪馬台国の新しい女王の即位を魏の皇帝に報告したものと見れます。そりゃ台、すなわち魏の首都まで行っています。

 この時代の魏は英雄曹操の曾孫の曹芳が皇帝になりますが、正始十年に高平陵の変と呼ばれる大政変が起こります。これまた三国志で有名な司馬懿仲達によるクーデターです。ここから司馬氏による晋の時代に舵は大きく取られることになります。

 この時の邪馬台国の使者が会ったのは曹芳でしょうが、あの司馬懿仲達にも会っている可能性もあります。時期的に高平陵の変の前であったか、後になったかは興味深いところです。

 そこはともかく、張政の邪馬台国滞在は長期だったと見て良いかと考えられます。女王卑弥呼が亡くなれば友好国の使者として参列するでしょうし、そこから内乱を経て壹與女王が即位するまで居たことになるからです。

 卑弥呼の墓の記載部分は、

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人


卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である

 径百歩がどれぐらいですが、魏の一尺が24.1cm、魏の一歩は6尺ですから144.6cmになるので、144.6mになります。これがどれぐらいかですが、神戸の五色塚古墳の後円部が122.5mですから相当な大きさです。

 ホンマに径百歩もあったかどうかの疑問は当然出て来ます。文飾として徇葬者と並ぶ形で『百餘』とした可能性は残るのは残ります。ですがその規模の古墳が古代日本にゴロゴロあるのも私たちは知っています。

 ですが古代日本の巨大古墳時代は少し時代がずれます。それも出現したのは畿内です。一番古いものでなんとか卑弥呼時代と被るぐらいです。

 もう一つですが、卑弥呼時代の都市と言うか国家として吉野ヶ里を見つけています。当時の人口を考えると堂々たる大国家としても良いはずです。ここには1世紀ごろに築かれた北墳丘墓とされるところがあり、当初は首長の墓として作られたが、卑弥呼時代は祖霊を祀る場になったと推測されています。その規模が、

    南北四十メートル、東西二十七メートルの長方形
 これはこれで大きいのですが、張政が見た卑弥呼の墓と較べると小さい気がします。面積にして1/10程度ですからね。それと個人的に注目したいのは、吉野ヶ里にはどうやら、首長が亡くなる度に巨大古墳を作る習慣がなさそうだという点です。

 邪馬台国をどこに比定するかで話は変わる部分があるのですが、魏の使者が松浦半島から博多方面に進んだのは確実そうで、なおかつ邪馬台国の勢力圏です。吉野ヶ里も地理的に同一文化圏に属すると見て良いかと思います。

 ですが古代北九州に巨大古墳が畿内のように次々と作られた形跡は乏しそうに感じてしまいます。九州での巨大古墳は西都原に代表される宮崎(というか古代日向)じゃないでしょうか。

 久しぶりに卑弥呼や邪馬台国に触れた感想です。どこまで行っても邪馬台国はロマンですねぇ。