恵梨香の幸せ:勤務医の不思議な就職

 出石への行き帰りは五時間ぐらいかかるから、その途中で康太に初婚前の最後の恋人について聞いてみたんだ。でも、あれだけ何でも話してくれる康太が、

「何人かいた恋人の一人だよ。恵梨香だっているだろう」

 いないのが悔しいけど、一般的にそうなのはわかる。でも理恵先生の言葉から、そう素直に受け取れないのよね。

「理恵さんは言い過ぎだよ。そんなにドラマチックな恋が、そうそうあるものか」

 恋は二人にとってはドラマチックだけど、外から見れば付き合ってるとか、別れたとかだけだものね。でも結婚まで考えてそうな相手じゃない。

「ある程度付き合った時点で、結婚を念頭に置くのは不自然じゃないだろ。理恵さん相手でも考えてたぐらいだもの」

 いや康太はかなり真剣に考えてたはず。たしかに上浦家は婿養子を取る必要はあったけど、三人姉妹じゃない。きっと康太は理恵先生を嫁にしても、二人の妹のどちらが婿養子を取る可能性を模索してたはずだよ。

「考えてたと言うか、妄想ぐらいしてたけど、学生じゃ、そこまでだよ」

 前に勤務医ライフを聞いたことがあるけど、医者と言うか勤務医の就職も不思議と言うか、特殊と言うか、恵梨香の理解のレベルを超えるものだった。まずだけど医学生は基本的に就活なんてしないのよね。

 今はだいぶ変わってるらしいけど、康太の頃は卒業して国家試験に合格したら大学医局の所属したんだって。これも卒業校の医局でもイイけど、他の大学医局でもOKだったらしい。入局試験的なものがあるところもあったそうだけど、希望すればフリー・パスのところもあったんだって。

「母校卒業者の方が優遇されるとかなかったの」
「そりゃ、あるけど・・・」

 ここも理解するのが大変過ぎるけど、大学医局には所属するけど大学病院に必ずしも就職するって意味じゃないって、どういう事なんだ。

「恵梨香にわかりやすいように言えば、大学医局は派遣会社みたいなものだよ」

 と言う傍から医者の派遣業は禁止されてるって言うから難解な世界。それでも派遣会社に似ていると言われて少し理解できたと言うか、余計に頭がこんがらがった。恵梨香は勤務医って病院に就職してるって思ってた。

「そうだよ。そうじゃなければお給料が出ないじゃないか」

 そりゃ、そうなんだけど、立派な病院でも、その人事権は病院に無いっていうからワケワカメ。じゃあ、誰が人事権を握っているかと言えば大学医局だって。それこそ院長の人事権まで握っているってなんなのよ。

 康太の説明によると、大学医局によって人事権を握っている病院が違うから、勤務できる病院が違う事になる。有名病院に勤務しようと思えば、有名病院の人事権を握っている大学医局に所属してないと無理なのだそう。

「だから冷や飯覚悟でも他の大学医局を希望するってことなの」
「単純にはそうなる」

 康太はジッツ、ジッツと言ってたけど、これはドイツ語のジッツェンからきたもので、大学医局関連病院、すなわち人事権を握っている病院の事をさすらしい。大学でも伝統校ほど有名病院のジッツを多数持ち、新設校では少ないそう。

 医者は卒業してからも勉強が続くけど、その勉強の場として有名病院に勤務できるかどうかはポイントらしいのよね。ここも単純化すれば、有名病院なら先端医療ができ、先端医療が出来るところに重症患者が集まるぐらいかな。

「軽症ばっかり経験を積んでも技量が上がらないぐらいかな」

 病院によって集まる患者さんの質が違うのは恵梨香でもなんとなくわかるけど、様々なタイプの病院で、様々なタイプの患者さんの診療体験を重ねることが、医者の勉強と考えたら良さそう。

「様々なタイプの病院って簡単に言うけど、どうやって変わるの」
「医局命令さ」

 病院には国立、都道府県立、私立など、様々な設立母体がある。普通に考えれば同業他社かな。恵梨香なら信用金庫でも設立母体が違えば異動なんて絶対無理だけど、

「恵梨香で例えれば、信用金庫、銀行、農協を人事でグルグル回る感じ」

 どうしてそんな事が可能なのか理解できないけど、それが出来るのが勤務医の世界らしい。康太によると医者の忠誠心は大学医局にあって、今勤めてる病院は腰掛けとまで言わないけど、永久就職先とは考えてないらしい。だから派遣会社に例えたんだろうけど、

「退職金とか、年金とかは」
「あれもグチャグチャ」

 異動と言っても、社内とかグループ企業内の異動じゃないから、実際の手続きは勤めてる病院を退職して、次の病院に入職する事になる。そうなれば退職金の積み立て年数はそこでリセットされるのよね。

 年金も厚生年金や、共済年金があるけど、国公立から私立への異動も普通にあるから、国民年金ぐらいしか継続的に支払えないぐらいになるそう。ついでに言えば失業保険も、まずもらえないって。

 さらにがあって、異動しても、もらえる給料がいくらかもわからないのが殆どだって言うのよね。恵梨香でも入職する時に就業規則がどうの、福利厚生がこうの、給与がどうのの説明がバッチリあったけど、医者の場合は入職した日から即仕事だって。

 オリエンと言っても病棟がここ、外来がここ、食堂はここ、医局の自分の机がここぐらいの説明がせいぜいで、給与はそれこそ最初の月の給与明細を見て、

「これだけか」

 こんな感じでやっとわかるのも珍しくないとか。それに異動は医局が命令を下すから、それこそどこに飛ばされるかは不明なんだって。なんちゅう不安定な職種かと思ったもの。

 それと給与体系もかなり変わっているとして良いと思う。通常はそれこそ年功序列で段々と上がるのだけど、医師の場合は研修医と常勤医で巨大すぎる段階があるで良さそう。医師って高給取りの代名詞みたいに言われるけど、研修医からスタッフと呼ばれる常勤医に格上げされた瞬間に三倍ぐらいに一遍に上がるんだって。

「そこで上がるけど、そこから先は殆ど上がらないかな」

 公立病院なら院長にまでなっても常勤医の一・五倍ぐらいもあるらしい。恵梨香は何回聞いてもわかりにくいシステムだし、康太も医者になって働き始めてやっとわかったぐらいで良さそう。

「そういうこと。医者がどんな就職システムになってるかなんて、大学じゃ習わないかならね。中に入って、だんだんわかって来る感じかな」

 たしかに。あまりにも一般常識を超え過ぎてるよ。

「たとえば結婚して家庭を持つのなら、スタッフとして常勤医になってからと考えるだろ」

 何年かすれば、そうなるのは目に見えてるからそうするよね。

「でも異動はどうなるか、わかんないだろ」

 異動した瞬間に遠距離恋愛になって、それがいつ解消されるかも不明だよね。次の異動がいつあるかも不明だっていうし、次の異動先で遠距離恋愛が解消されるかも不明だものね。

「そこまでお互い待ち切れなかったから終わっただけだよ」

 康太の説明はわかるけど、どうも本当のことを話していない気がする。状況的に長すぎた春にならざるを得ないのもわかるし、長すぎた春になるとなかなか実を結ばないのもわかる。ましてや、これに遠距離恋愛が絡むとハードルがさらに高くなるのもわかる。

 でもだよ、理恵先生の口ぶりは、そんなハードルさえすべて飛び越しそうな相手にしか思えないのだよ。そうじゃなきゃ、あそこまで言わないはず。その最後の恋人と恵梨香のどこが似ているかはさておきとしてもだ。

 それと奇妙なのは、康太は智子にしろ、由佳にしろ、あれだけ詳細にまだ恋人未満の恵梨香に話してくれてるんだ。どうして最後の恋人のことは避けようとするんだよ。

「まあ話したくない恋もあるってこと。たとえば理恵さんも、あそこで出会って無ければ話してなかったよ」

 言われてみればそうだけど、理恵先生との恋は恵梨香に話すほどの影響力のある恋じゃなかったと言えるじゃない。たしかに恋人同士の時期もあったけど、康太には珍しく終わりのあった恋じゃない。未練タラタラのうちに終わった恋と違うと思う。

 こんな事は気にしなくとも本来は良いのは恵梨香にもわかってる。そりゃ、恵梨香は正真正銘の康太の妻になってるもの。そして妻になった恵梨香に信じられないぐらいの愛情をひたすら注ぎ込んでくれてる。恵梨香の人生は康太に選ばれた瞬間にバラ色に変わってるのよ。

 康太が話したくない過去の恋愛を聞き出したって意味はないはず。恵梨香に取って大事なのは康太と進む未来だもの。なのに恵梨香の第六感は知っておくべきとしてる気がしてならないの。

 嫉妬かな。いや、そんなものはないはず。他の女を愛したり、抱いた過去は恵梨香じゃなくても結婚までして嫉妬なんてするはずないもの。嫉妬するのは、それこそ結婚前。リサリサに康太が心が動いた時なんか我ながら凄かったもの。

 あれとは違う、わかんないけど、それを知ることが康太との愛をもっと深めてくれるものの気がする。うん、今さらだけど、あの最終段階で聖女智子ではなく、あえて恵梨香を選んだ理由もわかるはずだ。あれは知りたい気がする。

恵梨香の幸せ:出石の皿そば

 さて今日の目的地は出石だけど、まずは六甲山トンネルを越えて六甲北有料道路に。これを終点まで走ると神戸三田ICで中国道に入るのよ。そこから吉川JCTを経て舞鶴道に入る。

 春日ICで降りて北近畿豊岡自動車道に乗り遠阪トンネル抜けて山東ICを下りる。そこから国道で和田山を抜けて出石に向かって走っていく。康太のアルトにはナビはないけど道は良く知っているから迷わず行けたよ。

 家から出石までは一三〇キロぐらいで、時間にして二時間半ぐらいだった。康太の運転は無暗に飛ばさないというより、康太に言わせると、

「飛ばしたくても飛ばせない」

 康太のアルトはダッシュ力こそあるみたいだけど、しょせんは軽だから高速巡行能力に劣るんだって。要は飛ばすとウルサクなるぐらい。別に急ぐ旅じゃないから、ノンビリ走らせてた。

 それと康太のドライブの特徴かもしれないけど、こまめに休憩を取るのよね。SAは全制覇みたいな感じ。一般道に入っても道の駅とかあると立ち寄ってみたい人で良いと思う。そこでお土産物とか特産品を見るのもあるだろうけど、たぶん恵梨香の御手洗にも配慮してると思ってる。

 康太が朝早く出たがる理由は他にもあって、駐車場も気にしているのは確実にあるのよね。有名観光地になるほどクルマを止めるのに苦労するのはあるもの。なんだかんだで十時前にはクルマは止められたのだけど、

「今日はこれに乗って見たかったんだ」

 恵梨香が連れて行かれたのが人力車。恵梨香も出石には何度か来てるけど人力車は初めて。ちょっと照れ臭かったけど夫婦だからイイよね。人力車の人とも話が弾んだのだけど、康太も恵梨香も出石は何度も来ているのを知って、

「それなら・・・」

 定番コースからちょっと外れたところを中心に回ってくれたみたい。皿そばの店も相談したんだけど、

「あれこれ良く行ってらっしゃいますね」

 地元の人に人気があるところに案内してくれて、そこで下してくれたんだよ。店に入って、

「恵梨香は何枚食べる」
「そりゃ」

 皿そばは五枚が一人前だけど、だいたいで言うなら男なら二十枚ぐらい、女なら十五枚ぐらい食べるのが標準的かな。でもせっかく出石まで来たのだから、

「追加五十枚でお願いします」

 そう、一人当たり三十枚で食べることにした。店によって変わるけど、三十枚食べるとそば通の記念品が出るから、それ目当てもあるし、それぐらい食べてしまうのが出石の皿そば。

 出石の皿そばのルーツは信州そばなんだって。江戸時代にお国替えがあった時に、信州上田藩のそば職人が一緒に付いてきて始まったのがルーツってなってるそう。独特の皿そば形式になったのは幕末の頃だそうで、

「それまでは割子そばだったらしいけど、屋台で出す時に便利な小皿方式になったらしい」

 出石と言えば出石焼きもあるけど、これが白磁なんだよね。真っ白な手塩皿にそばが映えて定着したのかもしれないし、小皿方式だから何枚でも追加注文するスタイルに発展したのかもしれない。

 そばの食べ方は自由だけど、ちょっとだけこだわれば、薬味を最初から全部入れるより、徐々に足していく方が楽しめるって康太は言ってるし、恵梨香もそうしてる。まずそば自体の美味しさを味わって、そこに薬味による味の変化を楽しむぐらいかな。

 とにかく三十枚もあるから、最初はツユだけ、次にネギとか大根おろし、そこに刻み海苔を足して、さらに山芋や卵を加えていく感じ。最後はそば湯だけど、

「恥しいけど、最初にそば湯を知ったのが出石だったんだ」

 信州とか関東ではセットみたいに付いてくるらしけど、関西のそば屋では少ないのよね。どうしてそうなのかは他にも理由があると思うけど、関西では純粋のそば屋が少ないのもあると思ってる。

 関西でメジャーな麺類はウドンで、そばも置いてあるってところが殆どなのよね。茹でる鍋も同じところが多いと思うから、そば湯じゃなくてウドンそば湯になっちゃうからだとも思ってる。

「それと信州であんまり美味しいそばに当たったことがないんだ」

 これは恵梨香もそう。信州と言えばそばだから、旅行でもお昼によく食べたけど、言ったら悪いけど普通のおそば。もちろん信州にも美味しいおそば屋さんはあるはずだけど、観光客がふらっと入るような店では少ない感じがする。

「出石ほどそば屋が密集してるところが無いのと、関西人の舌に合うようにアレンジしてるからかもな」

 そんな話をしながら出石そばを堪能して辰鼓楼までふらふらと探索。目的のそば猪口とそば皿もゲット。もう昼になってて人気店には行列も出来てたよ。後はクルマだから出来る恵梨香のコレクション集め。てなほどじゃないけど地酒集め。

「但馬と言えばやっぱり香住鶴」
「竹泉も外せないでしょう」

 この辺が定番だけど、

「へぇ、八鹿に夫婦杉ってのがあるんだ。二人のお土産にぴったりじゃない」
「出石にも地酒があるんだね」

 楽々鶴って言うのだけそれもゲット。いくら集めても夫婦でドンドン飲んじゃうから貯まらないのがネック。

「日本酒はワインと違って、早く飲む方が美味しいよ」
「日本酒だって古酒があるけど、たしかにね。ワインも安いのはそうだし」

 そこから但馬牛が欲しいって話になって観光案内所で聞いてみた。そしたら出石にもあるって言うから行ってみたら、普通のお肉屋さん。でもちゃんと売ってたから、

「今夜はこれでステーキね」

 帰りに出石のスーパーで付け合わせにするものを買い込んで、コウノトリの郷に寄ってから帰宅。五時には家に着いてたよ。康太のお出かけは朝が早い代わりに帰りも早いのが基本。たしかにそうすれば夜に余裕が出るものね。

 夕食は康太が腕を揮ってくれたし、夜は恵梨香をトロトロになるまで蕩けさせてくれて最高の休日は終わった。こんなに幸せでホントに良いのかな。

恵梨香の幸せ:お出かけのルール

 康太とのお出かけにも注意点があるんだ。それは、

『さっさと出発する』

 康太が起きる時刻は休日でも殆ど変わらないのよね。そこからシャワーを浴びて、朝食を摂って平日なら出勤なんだけど、休日にお出かけとなると同じペースで出発するのが理想みたい。

 もちろん行先とかで変わるけど、ポイントは起きた時からお出かけモードの浮き浮き感を楽しみたいぐらいかな。だから恵梨香も普段より早く起きて身支度するようにしてる。朝食も恵梨香が作る時もあるけど、ファミレスのモーニングを利用したり、コンビニで買ったり、マクドの日もあるの。

 こう書くとどこが注意点かと思われそうだけど、逆は嫌がるなんてなんてものじゃなさそうなんだ。どうも元嫁がそうだったみたいで、なかなか出発できなかったみたい。元嫁は専業主婦だったけど、専業主婦の朝のルチーンを済まないと納得できない人だったで良さそう。

 たいしたルチーンじゃないけど、まず洗濯して、掃除して、洗濯物を干してが済まないと許されない感じかな。さらに言えば朝は弱かったみたい。つまり康太より遅く起きてくるのだけど、その時点で康太は既にイライラして待ってるぐらいで良さそう。

 ようやく元嫁が起きてきても、まず始めるのが洗濯なんだよな。これだって時に二回分を回すんだって。前日の天気の関係もあるし、子どもだって二人いるから仕方がないと思うけど、そうやって待たされているうちに康太の高揚感がドンドン下がる感じだったみたい。

 二回分の洗濯をして、康太や子どもの朝食を作り、部屋を掃除して、子どもの身支度を整えて・・・元嫁がとくに悪いことをしているわけじゃないけど、康太にすればその日の朝にお出かけするのはわかっているから、洗濯ぐらいは前日に済ませておくとか、専業主婦なんだから翌日に回せば良いぐらいに思っていたみたい。

 掃除もそうみたいで、元嫁は綺麗好きは良い事なんだけど、それこそ一日二回ぐらい掃除機を回さないと気が済まなかったみたい。お出かけの日は二回は無理になるから、お出かけ前の掃除は絶対ぐらいかな。

 康太だって綺麗な方が良いだろうけど、別に一日や二日ぐらい掃除をしなくても死ぬわけもないぐらいって考え方。それよりお出かけの日を楽しみたいぐらいなんだよね。これはお出かけ全体のスケジュールの考え方にも違いがあるで良いと思う。元嫁の発想的には、

『別にゆっくり出ても変わらないのに、なにを朝早くから張り切ってるの』

 子ども連れだからクルマの方がなにかと便利だからクルマでのお出かけが殆どだったみたいだけど、康太は、朝は渋滞前に通り抜けて、帰りも渋滞をなるべく避けたいぐらいかな。それだけでなく行楽地の昼食はとにかく混雑するから、十一時ぐらいには店に入ってしまいたいのもあるで良いと思う。

 元嫁は休日だから混むのは当たり前、昼食も並ぶのは当たり前、元嫁だって行列を待つのが好きじゃないだろうけど、朝の掃除や洗濯に比べれば取るに足りない事というか、必然的に我慢するのが当たり前ぐらいだったみたい。

 この辺は休日の過ごし方、楽しみ方のスタンスが元嫁と康太では根本的に違うがあったのは聞いた。元嫁がしたいのはリゾート滞在型の旅行。せわしない日帰り旅行は、

『付き合ってやってる』

 ここもあからさまに言えば好きじゃないってこと。どうせならデパートとかに買い物に出かけたいのに、わざわざそんなところに出かけなくとも良いぐらいが基本姿勢だったで良さそう。

 そう考えると元嫁の行動はわかりやすくて、デパートが開く時間を考えて動いてるし、それをお出かけだからと言って変える気はサラサラなかったぐらいで良いと思う。康太に言わせると、

「命の掃除より優先するものは、この世に存在しない」

 これがほぼ毎回繰り返されたから、ついに康太は口にしたみたい。そしたら元嫁が猛烈に不機嫌になり、その日のお出かけは殆ど口も利かなかったらしい。それどころか一年ぐらいお出かけがなくなり、最終的には家族そろってのお出かけが消滅したって言うからかなりのもの。

 この辺は元嫁が買い換えたクルマを康太がトコトン忌避したのもあったらしいけど、お出かけは元嫁が娘を連れて出る回と、康太が娘を連れて出る回に分かれたんだって。康太は元嫁が選んだクルマを絶対に使わなかったから、やがてお出かけと言えば元嫁が娘を連れてデパートとかに買い物に行くものになり、康太は留守番が定位置になったらしい。

 康太もどうかと思うけど、元嫁も元嫁で。どこかで妥協点を見つければ良さそうなものだけど、どちらも絶対に譲らず決裂してるのよね。

 親権を争わなかったのも、この辺に原因もあって、康太と娘さんは仲こそ悪くなかったけど、二択なら母親以外に考えられなかったぐらいで良さそう。まあ、離婚となれば大概は母親に親権が回るものだけど、

「母親の不倫は?」
「娘にもショックだろうから、可能な限り伏せることにした」

 離婚交渉の詳細も康太はあまり話したがらないけど、明らかに元嫁の有責だから、娘の親権も含めてもっと有利な条件で離婚するのも可能だったで良さそう。康太は離婚こそ決めていたけど、元嫁を追い込んで破滅させる気はなかったぐらいかな。

 だってだよ、持ちマンションと家財道具一式、さらにクルマまですべてを譲り、その代わりに慰謝料とか財産分与、養育費なしだものね。結果として康太は所有していたマンションから、身の回りの品だけで追い出されて離婚が成立してるようなもんだよ。


 康太は言ってたけど、元嫁とは結婚はしたものの、最初からどこか他人の感覚があったって言ってた。見合いだし、結婚してから同居したパターンだから、スタートはそうならざるを得ないだろうけど、年数を重ねても関係は深まるどころか、逆に離れて行った感覚だったで良さそう。

 元嫁が悪い人であったとは思わないし、奇人変人とも思わないけど、結果的に言えるのは性格が余程合わなかったぐらいとしか言いようがないんだよね。ここだけど生まれも育ちも違う二人が始めるのが結婚生活であり、夫婦生活だから性格が何から何まで一致するのはありえないと思う。

 どうしたって二人の間に価値観とかの相違が生まれるけど、夫婦になってその差が埋まっていくケースと、溝が深まるだけのケースがあるのはわかる。元嫁と康太の場合はあらゆる相違点が溝になり埋まるどころか深くなったとしか言いようがなさそう。

 そうなってしまった原因の一つが夫婦の会話不足と康太は考えてるで良さそう。元嫁との結婚時代は年数を重ねるほど会話は減り、最後の方は康太が仕事から帰っても、一言も話さない日の方が多かったって言うから驚いた。

 夫婦だから話さなくてもわかってくれてると思うのは、そこまでの積み重ねと信頼関係があってのもので、単に年数を重ねただけではそうはならないと学習したぐらいかな。そのせいか康太は恵梨香にどうして欲しいかを具体的に必ず話すもの。

 もちろん押し付けでなくて提案だよ。恵梨香の意見もキッチリ聞いてくれて、二人で共同生活のルールを決めてるぐらい。だから恵梨香もそうしてるけど、康太は真剣に耳を傾けてくれるし、康太が受け入れられる部分、そうじゃない部分をはっきり言ってくれる。

 ただね笑っちゃうぐらい似てるのよ。そりゃ、合ってない部分もあるけど、合ってる部分の方がはるかに多いのよね。そのうえで、合わない部分は康太は一生懸命に合わせようとしてくれるし、もちろん恵梨香もそう。

 恵梨香は結婚する前に、康太がどんな結婚生活をしたいか、おおよそだけど知ってたつもりだし、康太の望む夫婦をするのに賛成してた。でも実現するには恵梨香だけの努力じゃ無理なのよね。で、実際に結婚してみたら恵梨香以上に康太は努力してくれるし、協力してくれる。

 これが苦痛じゃないのよ。どう言えば良いのかな、合わない部分を二人で探り出して、これを合わせようとする努力が楽しくて仕方ないぐらい。康太に選ばれて結婚できたのは今でも夢のようだけど、結婚してからも康太が夫であるのが夢のようなんだよ。

 だから恵梨香は誰に聞かれても胸を張って言えるよ。この世で最高の相手と結婚したって。それは感動の入籍をした時よりも今の方が何倍も強いもの。夫婦生活ってこんなに楽しいものだと、いつも思ってる。

 でもね、でもね、大事にされすぎてる気がどこかするのよね。大事にされてなんの不満があるかだけど、どうも康太は何かを怖れてる気がしてならいんだよ。夫婦で楽しく暮らすように努力するのは良いことに決まってるけど、何か違う感じ。

 どう言えば良いのかな。まるで恵梨香が数年のうちに消えてなくなってしまうみたいな感じさえあるんだ。よくあるじゃない、余命があるうちに最後の望みを叶えるってやつ。恵梨香は会社の健診でも健康体だけど、まさか康太が、

「ボクも異常なしだし、自覚症状もない。十年ぐらいは余裕でだいじょうぶだと思ってるけど」

恵梨香の幸せ:康太の最後の恋人

 理恵先生が帰ってから、

「康太、あれでサヨナラしてイイの?」

 康太はカクテル・グラスを傾けて、

「ボクには恵梨香がいるからね」

 そりゃ、奥さんの目の前で二人で消えるわけにはいかないだろうけど、なんか、どう言えば良いか、これで良いけど、良くない気もする。だからと言って焼けボックイに火を着けるのもおかしいけど。

「ホントにキスもしなかったの」
「ああ、手をつないだだけ。でもそれで良かったのかもしれない。理恵と深めてもボクとじゃ不毛だったしな」

 突然現れた理恵先生に康太は動揺してる。でも妬かない、妬いてなるものか。だって聞くだけで辛い恋をしてるじゃない。結婚だって親が決めた相手から逃げられないし、逃げないように洗脳教育受けたようなものだもの。

 きっと高校時代もそうだった気がする。いや、大学もそうだったはずなんだ。理恵先生は子どもの頃から親が決めた相手と結婚し、上浦病院を継ぐしか考えられないようになってたはず。

 そんな理恵先生に恋して口説いたのが康太。理恵先生もそれに応えたんだよ。おそらく理恵先生がたった一度だけ自分の意思で選んだ男が康太のはず。理恵先生にとってきっと初恋、いやたった一つの恋の気がする。でもその恋は決して結ばれることが許されない恋だったんだよ。

 再婚から逃げたのも親が敷いたレールにウンザリしたに違いない。でもそれからも理恵先生には自由な結婚は許されなかったと見てよいはず。だから康太を見かけたら、我慢できなかったんだろうな。

 たぶんだけど、恵梨香がいなかったらベッドまで誘ったはず。たとえ一夜の恋でも結ばれたかったはずだよ。そうなって欲しくないし、康太なら断ると信じてるけど、女として気持ちはわかる気がする。人生で一人だけの本当の恋人、心の底から愛した人だもの。

 康太の恋人だった人は誰もが恵梨香が気後れするような美女だけど、誰もが悲しすぎる過去を刻んで引きずってる気がする。元嫁まで含めて、誰も幸せになれず、むしろ不幸になってるとしか思えない。

 それと気になるのが理恵先生の後に康太の恋人になった女。この女とも長かったはず。康太の話を繋ぎ合わせると、理恵先生の後から交際は始まり大学を卒業し、医者になってからも続いてた事になるはずだもの。

 勤務医時代の激務と遠距離恋愛のために徐々に疎遠になり別れ、その次が見合いに登場する元嫁ぐらいになるはずなんだ、この女の話は康太もあまり話したがらないところがある。でも理恵先生の話からすると、かなりどころでないガチガチの関係であったのだけは推測できる。

 たしかに康太の話す勤務医ライフをこなしながら結婚するのは容易じゃなさそうだけど、康太だってそんな生活であるのを知ったのは医者になってからだものね。そう、康太は理恵先生の次の女を結婚相手に真剣に考えていたはず。

 その女を知っているのは康太と理恵先生ぐらいかもしれない。他にもいるだろうけど恵梨香じゃ誰が知ってるかもわからないし、知っている人に聞きに行けないものね。だって理恵先生だって聞きにいけないもの。

 でも理恵先生の話を信じたら、康太が結婚まで考えた女はどこか恵梨香を思わすところがあるのだけはわかる。でも恵梨香のどこだろう。まさか容姿、さすがにそれはないと思う。

 そりゃ、康太の再婚の時に恵梨香は智子や由佳を押しのけて選ばれたけど、これはあくまでも容姿を棚上げして心で康太が選んだ結果と見てる。でもだよ、理恵先生と話したのはあの時だけ。あれだけの会話で恵梨香のすべてを見抜いたとは思えないもの。


 これは容姿と言っても、もっと全体の印象かもしれない。恵梨香の体形はビヤ樽狸だけど、良いように言い換えればポッチャリ型だよね。顔だってそうで、どちらかと言わなくとも狸顔。信楽焼の狸と並べたら、どれが恵梨香かわからないとかの悪口も良く言われたもの。

 これに対し理恵先生はスリムでボイン。これは実際そうだった。スリムでペチャと思ってたら、よく見るとかなりのボインだった。ボインなのは置いといて、顔も面長で目も切れ長、あえて言えば狐顔。

 うん。うん。うん。そう言えば、智子も、由佳も、さらにリサリサだって、体型と顔であえて分類すれば狐顔のスリム・タイプじゃないか。いや智子はちょっと狸顔がある気もするからスリム狸とか。

 ここも細かいことを言い出せばキリがないから狐顔に分類しておく。そうなると康太が本当に好きなタイプは、実はスリム狐ではなくポッチャリ狸で、スリム狐だった理恵先生は、ポッチャリ狸に康太を奪われたとか。

 でもだよ、康太の歴代の恋人はスリムな狐顔だよ。なんだかんだと言いながら、元嫁以外は全員会ってるものね。それとだけど、今だってそうかもしれないけど、スリム狐とポッチャリ狸のどちらが男の人気を集めるかと言えばスリム狐なんだよ。

 狸好きの男もいるけど、どちらかと言わなくても少数派だよ。多数派なら、アイドルがああもそろってスリム狐なのはありえないだろ。ポッチャリ狸の芸能人もいるけど、言うまでもなく少数派だし、ポッチャリ狸のスーパーアイドルなんて見たことないもの。

 逆に言えばポッチャリ狸への競争率が低いんだよね。これは恵梨香がそうだからわかるけど、やっと寄って来た男を逃さず捕まえるのがポッチャリ狸の恋なんだ。とくに康太クラスから声なんてかけられようものなら、全力で捕まえに行く。

 だから康太がポッチャリ狸を好きなら、ゲットは容易だったはず。歴代の恋人が全部ポッチャリ狸になっていても不思議ないじゃない。でも歴代の康太の恋人は恵梨香を除けばスリム狐。

「どうした恵梨香、なにか悩み事か」
「康太は狐が好きなの、狸が好きなの」
「はぁ、なんの話だ。まあ、いっか、どちらかと言えば」

 うんうん、どちらかと言えば、

「狸だろうな」

 やっぱり、そうか。

「どちらも好きだけど、選べと言うのなら、ウドンよりソバだから、キツネうどんより、たぬきソバの方かな」

 ギャフン。食い物の話じゃないって。

「恵梨香はウドンとソバならどっちなんだ」
「そうだね、どちらかと言われればソバかな」
「気が合うね」

 あれ。話がなぜかソバに流れちゃって、

「出石の皿そば食べたことある?」
「あれは美味しいよね」
「明日、食べに行こうよ」

 久しぶりに皿そばは魅力的だよね。出石の名物の皿そばは出石焼きの白い小皿に一人前のそばを五枚に分けて出してくるんだよね。皿そばの店は四十軒以上あるのだけど、それぞれの店が麺とツユを競っているんだ。

 だから皿そばでも店によって味が違うのよね。ツユもそうだけど、麺だってやや細麺タイプからやや太麺タイプまであり、さらにコシも違う。ハズレって店はまずないけど、やはり店によって差がある感じかな。

「康太、やっぱり近又」
「甚兵衛も美味しいし、輝山の二種類のそばも魅力的だよ」
「恵梨香は左京も良かったな」

 他にも官兵衛とかそば庄、天通とかも出て来たけど、二人で、

「どれだけ行ってるねん」

 これで大笑いして帰ったよ。お出かけは電車を利用することが多いんだよね。理由は向こうで飲めること。でも出石は電車で行くにはちょっと遠すぎるからクルマにした。

「出石焼きのそば猪口買って帰ろうよ」
「ついでに小皿も買おう」

 明日も楽しいデートになりそうだ。狐と狸の話はデートの時に聞いてやろ。

恵梨香の幸せ:理恵先生

 今日は土曜日。晩御飯を食べに行ってから、いつものバーに。このバーはカウンターの他にテーブル席もあるのだけど今日はそこも入ってた。まったり二人で飲んでたのだけど、テーブル席の方から女が一人歩いてきた。御手洗と思ったら、いきなり康太の肩を叩き、

「神保先生ですよね」

 康太は振り返ってしげしげ見てから、

「誰かと思えば上浦先生・・・・・・」

 康太の隣が空いてたからチャッカリ座り、

「ちょっと良いですか」

 康太が紹介してくれたけど大学の同級生だそう。すらっと背が高く、シャキッとした、いかにも女医さんって感じの人で、はっきり言わなくとも美人。今週末は神戸で学会があって来ているそう。恵梨香も紹介されたけど、

「素敵な奥様ですね。へぇ、康太はやっぱりコッチを選んだか」

 ちょっと待った。康太って呼ぶってことはこの二人の関係は、

「上浦先生、その話は」
「上浦先生はやめてよ。昔のように呼んでよ」

 もう間違いない。二人は恋人関係にあったんだ。それにしてもだよ、どうして康太の元恋人って、どいつもこいつも美人ぞろいなんだよ。智子だってそうだし、由佳もそうだし、リサリサだってだよ。

「恵梨香さんって仰るのね。理恵って呼んでね」

 その上だよ、どうして魔女のように若く見えるんだよ。うぅぅぅ、消し去ったはずのコンプレックスがどうしても出てくるのが止められない。康太は、

「結婚は?」
「したけどね」

 理恵先生は大阪の上浦病院の娘。三人姉妹だそうだけど、理恵先生は長女。上浦病院はかなりの規模の病院らしくて、分院もあり、検査センターとか、老健とか、診療所もある大きなグループらしい。

 ちょっと笑ったけど、上浦病院は理恵先生で四代目になるらしいけど、先代も先々代も息子がいなくて婿養子。だからじゃないけど、理恵先生も見合いで婿養子を迎えたみたい。セレブは大変だねぇ。

「息子さんは生まれたの」
「あは、種なし、石女の夫婦で子無しよ」

 上浦病院グループは三女にようやく生まれた息子が継ぐとか継がないかとか。

「旦那さんは」
「別れた。というか追い出されたかな。三年子無しは去れってね」

 それって女がそう言われたのだけど、女系なら逆もあるのか。理恵先生が不妊症ってわかったのは再婚話が出てきて念のために検査したら判明したらしい。

「元旦那への未練は」
「はっきりいうと無い」

 経歴的には見合い相手というか上浦病院グループの後継者に選ばれるぐらいだからエリート医師だったけど、

「口先ばっかり。医師としてのセンスもないし、経営者としても失格。ついでに言えば男としても無能。種なしはともかく、種馬としても話にならないわ」
「おいおい理恵さんのハイソなお嬢様のイメージが壊れちゃうよ」
「立派なバツイチで、旦那とバカバカやった女だよ。とっくにお嬢様じゃなくて、アラフォーの飢えた熟女だよ」

 理恵先生の学生時代は絵に描いたようなお嬢様だったで良さそう。持ち物は上から下までセリーヌで、お買い物は必ずお母様と御一緒だったって。学生にもなって門限があり、これが六時と言うから驚いた。

「ひょっとして不妊症って」
「康太にはバレるか」

 えっ、えっ、えっ、再婚の見合いを断る理由のために、

「恵梨香さん、それぐらいは簡単よ」

 セレブって大変だと思ったけど、見合いで会ってしまえば断るのは余程の理由がないと無理なんだって。そう、本人同士の気持ちなんて無視されるらしい。

「そんな甘い物じゃないよ。見合いの話を親から聞かされた時点で断る余地はゼロ」
「理恵さんはなにしろ上浦の娘、それも長女だものな」

 でも二人は学生時代に恋人では、

「そうだよ。だから康太って呼ぶし、理恵と呼ばれてた。でもな、なんにもなかった。せいぜい手を握ったぐらいかな」

 それって中学生か高校生の恋。

「だから後悔してるのよ。あの時に勇気がなかったねって」

 理恵先生も子どもの時から婿養子を迎えて上浦病院を継ぐって刷り込まれていたみたい。だから康太と付き合っても、あくまでも清い恋以上に進まなかったって。

「康太も良く付き合ってくれたと思うよ。何から何まで制約尽くしだったのに」
「それでも良いって思うぐらい理恵さんが素敵だったんだよ」
「ありがと。そこまで想ってくれて付き合ってくれたのは康太だけだものね」

 理恵先生はロックグラスを掌で回しながら、

「康太、欲しかったんだ。康太も反応してたもの。あの時に・・・・・・」
「理恵さんのイメージが崩れちゃうよ」
「バチイチだよ。もう崩れてるよ」

 康太と理恵先生は講義は常に隣同士で受け、帰り道はバス停まで送って行ってたんだって。

「あのマフラー覚えてる?」
「別れた嫁さんに捨てられた」

 康太の誕生日のプレゼントに理恵先生は長いマフラーを贈って、それを帰り道で二人の首に巻いて帰っていたんだって。その時に理恵先生は凍えるからって手を康太のズボンのポケットに突っ込んだらしい。

「ぐっと手を突っ込んだら、康太のモノに当たったんだ。そしたらムクムクと・・・」
「理恵さん!」
「理恵って呼んでくれたら許してあげる」

 そりゃ、康太は反応するだろう。愛しい女性の指先がほぼパンツ越しに触れてるんだもの。今度やってやろ。でも恵梨香がやったら、そのまま握ってしまいそうだけど。

「あの絵は?」
「今でも部屋にあるよ。康太みたいに捨てられるドジはしてないもの」

 理恵先生が好きになった康太は、理恵先生がルノアールが好きで、その中でもイレーネ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像が欲しいって話をどこかで耳に挟んだらしい。ネットもない時代で大変だったそうだけど、複製の印刷画だったけど原寸大サイズのものを探しだして贈ってるんだ。

「イレーネそっくりだったものな」
「ありがとう。でもイレーネには遠いよ」

 そんなことないよ。今だって十分に面影が残ってるもの。学生時代の理恵先生なら、もっとだったはず。そりゃ、上品で輝くように綺麗だったんだろうな。正真正銘のお嬢様みたいなものだから、服だって、アクセサリーだってバッチリだったろうし。

 それはともく、プレゼントをきっかけに、それまで「上浦さん」から「理恵さん」の関係、言い換えればタダの友だちから、友達以上恋人未満の関係になったぐらいかな。これが「理恵さん」から「理恵」に変わったのは、

「生理学の実習だったかな。カエルの解剖実習みたいなのがあって・・・・・・」

 途中で背骨にゾンデって言ってたけど、細い棒を突っ込むのだそうだけど、その時にカエルが『グェ』って断末魔みたいな悲鳴をあげるんだって。それを見るのに耐えきれなかった理恵先生は、康太を手を握ったそうなんだ。

「あの時に康太がギュッと握り返してくれて嬉しかったんだ。だから思いっきり握り返した。そしたら康太はぐっと抱き寄せてくれてね・・・・・・」
「だから理恵さん!」

 抱き寄せるって教室だろっと思ったけど、理恵先生は後ろ手で握ったんだって。だから抱き寄せるって言うより、引き寄せる近い感じかな。

「ネンネの理恵がメロメロにされちゃった」
「それは言い過ぎだろう」
「あの日から康太って呼んだんだよ」

 そして康太も理恵と呼ぶようになったんだろうな。マフラーのエピソードもこの後になるんだろうけど、そこまで距離が詰まっても、それ以上進めなかったのが上浦の娘である理恵先生に課せられた制約になったのかもしれない。でも大学生にもなって、その次に進めないのはお互いに辛かったろうな。

「理恵さんはお嬢様だったからな」
「悪いと思ってた」

 やはりそれ以上に関係に進めないのは、二人の関係に翳を落としたで良さそう。進んだってダメなものはダメだけど、進まないともっとダメってところかな。それでも二年続いたって言うから大したものかもしれない。

「オネアミスの翼、覚えてる」
「忘れるものか」

 デートで映画を見に行っただけなんだっけど、これがなんと唯一度のデートだって言う物ね。

「どうしてあの時にホテルに連れ込んでくれなかったのよ」
「良く言うよ。キスさえ怖がってたのに」
「まあ、そうだったけど」

 康太はデータの途中でキスを迫ったそうだけど理恵先生は逃げちゃったらしい。ただこのデートは二人の関係を終わらせるものになったで良さそう。どこからかはわからないけど、理恵先生と康太が恋人同士であることを理恵先生の御両親が嗅ぎつけて、康太に直接会いに来たっていうから驚くよ。

「婿養子で上浦病院の後継者になるなら、交際の許可を考えるだったものね」
「まあ、ボクも一人息子だったからさすがにね」

 康太にとっては玉の輿に見えないこともないけど、康太の実家だって開業医だから、無理に玉の輿に乗って婿養子の苦労をしたくないのもわかる気がする。そこから二人の間に隙間風が吹き始めたみたいで良さそう。

「あははは、理恵も捨てられちゃったものね」
「捨てた訳じゃないけど・・・・・・」

 そこに康太の次の恋人が現れたぐらいになるけど、

「それもやめてくれよ」
「じゃあ、理恵って呼んで」
「わかったよ。理恵、やめろ」

 ここまで話したところで理恵先生のお仲間も帰ることになり、

「後は康太に聞かせてもらいなさい。それと恵梨香さん、あなたは康太の好みよ。自信を持っていいわ。どんな相手が他にいても、あなたが選ばれたはずよ。理恵だって敵わなかったんだから」