おっさんライダーの独り言

  二輪より四輪が好きなのですが、諸般の事情により二輪というよりスクーターに乗っています。リアケースも付けて実用性は申し分はありませんが、やっぱりツマラン。街乗りするには十分な走行能力はありますが、峠を越えるのが辛すぎます。

 これではわかりにくいと思いますが、春と秋ぐらいスクーターで軽いツーリングしてやろうと思っても、交通事情だけで挫けてしまう点があります。

 小排気量車で走って楽しいのは田舎道で、幹線道路はやはり辛いのが正直なところです。流れにはなんとか乗れますが、無理にでも追い越そうとするクルマはウジャウジャいますし、逆に渋滞はウンザリさせられます。

 田舎道は六甲山の北側にあります。そう、どうやって六甲山を越えるかが大問題になります。一番近いルートは六甲山トンネルですが、これにたどり着くための坂道がスクーターには厳しすぎるところがあります。神戸からなら表六甲を登らなければならないからです。

 何度か走ったことがありますが、そりゃ、もう状態で、あれを走りたくないのが正直な感想です。北側から登ってもこれは同じです。六甲山トンネルを回避するとなると次の選択は新神戸トンネルになります。新神戸トンネルに坂道問題はありませんが、とにかく長いのとクルマの流れが速い。

 だからと言うわけではありませんが、坂道をもう少し余裕を持って登れるバイクへの買い替えを考えた訳です。具体的には六甲山トンネルを越えるのにラクなバイクです。

 バイクは免許と保険、車検の関係で三つに絞られます。単純化すれば125cc、250cc、400ccです。排気量が大きくなるほどパワーも出るのですが、その代わりに大きくなります。当たり前の話なのですが、大きくなるのも問題として発生します。

 家の駐輪場所ですが突っ込んでおいて、方向転換するスタイルです。今のスクーターは175cmですが、この長さで方向転換するのに目いっぱいぐらいになります。そう、これ以上大きくなると方向転換できなくなってしまうのです。

 250ccクラスは2mぐらいになりますが、目分量ではありますが2mは無理です。この時点で250ccクラス以上は除外になります。そんなものを買ったら通勤に使えなくなります。125ccは調べていると2種類に分けれれるようですが、

  1. 10馬力クラス
  2. 15馬力クラス
 レビューと言うかYoutubeを見る限りですが、15馬力クラスはかなり強力のようです。トップスピードはもちろんのこと、課題の坂道もかなり楽々と登りそうです。ただし全長が2mに及びます。そう250ccと変わらない程の大きさなのです。

 10馬力クラスならサイズ的にはクリアしそうですが、馬力的には今のスクーターとどっこい、どっこいと見てよさそうです。馬力とは走行性能も含めてですが、やはり峠道を登るのに四苦八苦しそうとしか思えません。ATとMTで差はあるとは思いますが、六甲山トンネルを越えるには非力すぎる気がしています。

 10馬力クラスの125ccで六甲山を登るYouTubeもありましたから、登れない事はなさそうですが、登るだけなら今のスクーターでも登れますから、あの程度だったら厳しいとしか思えません。昔の様に2stなら話は変わるかもしれませんが、4stではあんなものでしょうね。


 この辺で熱が冷めて来ました。スクーターとバイクの差はとにかく実用性です。バイクはホントに物が載りません。これに比べるとスクーターは、メットケースがあり、リア・ケースも付ければかなりの物が詰め込めます。

 バイクだってケースを付ければ搭載量はそれなりにカバーできますが、雨に弱すぎる部分があります。スクーターだって雨には弱いのですが、スクーターには足の前に壁があり、さらに床があるのは大きなメリットです。

 雨のバイクで何が困るって靴が濡れる事です。下からの跳ね上げと上から垂れてくる分です。それ相応の雨対策をすれば良さそうなものですが、そうなると雨具が増えます。雨具の手入れもバカにならない手間になります。


 現実問題はもっとありまして、バイクって疲れるのです。スクーターで100kmも走ればホントに疲れます。YouTubeでは125ccで大阪から明石に走り、そこからフェリーに乗って淡路島に渡り、一周して日帰りするなんてありましたが、見てる分には楽しそうですが、実際にやれるかと言えば自信がありません。

 この辺はなんちゃってライダーの上に、正直なところお歳です。体力の低下は如何ともしがたいぐらいです。バイク命じゃないですからね。周囲だって危険だからスクーターはやめろの声も大きいですし。うん、こけたら痛いどころか、命にかかわるのがバイクです。

 それでもモンキー125を買って、四国なり九州に夜行フェリーで渡ってツーリングをするプランを考えるのは楽しかったです。スクーターでも出来ると言われればそれまでですが、それじゃロマンがないじゃありませんか。

 2週間ほど熱中しましたが、儚く消え去る夢となりました。

時をかける少女

 シックス・センスは名作って聞いたことがありましたが、

 なるほどと思った次第で、そういうオチにしたのかです。似た映画でパッセンジャーズもあり、 評価としてはシックス・センスが上で良さそうで、パッセンジャーズは二番煎じの評がありましたが、初見であれば、きっとドンデン返しに感嘆した気がします。


 機会があれば上の2作品は見てみたいのですが、関連がありそうでなさそうな映画を突然思い出しました。原田知世バージョンの時をかける少女です。挿入曲の中でとくに印象的だったのが時の子守唄。恥ずかしながらたまたまYouTubeで拾って題名がわかりました。

 リメイクも行われて有名なストーリーですが、ざっとだけ紹介しておけばタイム・トラベルものです。他のタイム・トラベルものとの大きな違いは、タイム・マシーンによる時間移動ではなく、薬品によるのが特徴の気がします。

 未来から来た少年が、元の時代に戻れなくなり、高校生に化けて時間移動のための薬品を作るのが話の背景です。ヒロインはアクシデントでその薬品を吸い込み、タイム・トラベル能力を身に着けてしまい、それによる混乱が映画のハイライトぐらいでしょうか。

 印象的なシーンが多いので名作とされていますが、未来からの少年はヒロインの幼馴染みの記憶を利用して世界に入り込んでいます。幼馴染みとヒロインは数々のエピソードで本来は魅かれ合ってるはずですが、それを結果として未来からの少年は横取りしてしまう事になります。

 これはヒロインがタイム・トラベル能力を一時的に獲得してしまったのを助けるためとなっていますが、ヒロインは未来の少年に恋してしまうのです。

 やがて時が来て未来の少年は住むべき時代に戻ります。その時に自分がいた記憶をすべて消し去ります。定番の未来が過去に干渉してはならないがあるで良いと思います。

 ところがヒロインは記憶を消されながら、自分が本当に愛する人がいるはずの想いだけ残ってしまいます。未来の少年がこの時代を再訪するのがラスト・シーンです。

 その時には本来は結ばれるはずであった幼馴染みとの関係はまったく進行せず、ヒロインは誰にも恋をしない女性に変わってしまっています。さらに未来の少年に出会っても気づきません。

 これをヒロインが真実の愛を知ってしまったからとしていますが、引いて見ると未来の少年が来たばっかりにヒロインの人生をグシャグシャにしてしまったと見えてしかたありません。そう誰も幸せになっていないとしか思えないのです。

 その辺の余情のたなびき方が名作たるゆえんでしょうが、この歳になると複雑な思いがあれこれ渦巻いてしまいました。

ああ見えてるのかも

 映画のあらすじ紹介のYoutubeにはまってたのですが、2015年のスウェーデン映画です。

 映画自体は感動のストーリーで出来も秀逸のようです。その辺はあらすじ紹介だけではわかりにくいのですが、ハリウッド版のリメイクも予定されてるとかなので、かなりの出来栄えであるのは想像されます。

 この映画で気になったのは主人公。あらすじ紹介でも、

    頑固ジジイ
 こうしてますし、見ただけでそんな感じがストレートに伝わります。ここから先はわからないところも多いのですが、主人公の年齢や風貌の設定はある程度ステレオ・タイプの気がしています。どういうことかと言えば、特別若く見えるとか、老けて見えるではなく、スウェーデン人ならあんな感じぐらいの設定です。

 ところがですが、年齢設定に衝撃を受けました。なんとなんと59歳。ほとんど変わらないのです。気になってスウェーデン男性の平均寿命を調べたら2016年データで80.6歳、日本が81.1歳ですからほぼ同じとして良いでしょう。

 なのに、なのに59歳で頑固ジジイがステレオ・タイプとはです。当然個人差はありますが、作中の主人公は俳優が老けて見えるタイプだったと言うより、キャスティングがそうだったと見る方が良いとしか思えません。

 ストーリー展開にしても、別に59歳である必然性はなく、69歳でも、70歳代でもさして問題はなかったはずです。おそらく59歳にしたのは、冒頭部分の長年勤めた会社をクビになるシーンに必要であったぐらいとしか思えないのです。

 人種と書くとセンシティブなので怖いのですが、あくまでも私の個人的なイメージとして白人は老けやすいところはあると思っています。理由は二つぐらいで、一つは肌が衰えやすいのと、太りやすい点です。主人公は禿げていますが、これが白人に多い傾向があるかどうかは知見がありませんが、ジジイの強調のためにそういうキャスティングが行われたぐらいはあるかもしれません。

 それでも59歳です。日本でだって余裕でジジイだの声も聞こえそうな気がしますが、個人的にはかなりショッキングでした。というか、そこから導き出される次の話がイヤだったのです。

 老いはいやでも感じていますが、実際に老いてみると、自分が想定しているイメージと、他人から見られる部分にかなりギャップがあるのがわかります。いわゆる、まだまだ若いの勘違いです。あの映画の主人公ほどジジイになっていないはずと思っている自分が既に間違っているのじゃなかろうかです。

 そう。実はあれぐらいのジジイに既に見られてるのじゃないかです。それに気が付いていないだけではないかと。いくら抵抗したって老けるのですが、そうなっていたら悲しいなって自嘲ぐらいです。


 こんなものはボヤキなのですが、旧友と歳の話になった時に、子ども頃の五十代、とくに後半なんて完全に爺さん、婆さんで、学校なら校長先生クラスだったと妙に話が弾みました。その歳になったのですが、あまりの実感の無さに笑ってました。

 当時と今では感覚が違うのでしょうか。それとも当時であっても当人の感覚は今の私が感じているのと同じだったのでしょうか。もちろん個人差でしょうが、旧友が言うには同級生でも話が合わないのが出ているとしていました。

 話が合わないとは、仲が良い悪いと言うより、話している感覚が合わないぐらいです。それが気が若い証拠なのか、まだ幼いのか、こっちの頭が固くなっているのかは・・・とりあえず気は若いはずだとあの場はしましたけどね。

 年年歳歳花相似たり
 歳歳年年人同じからず
 言を寄す全盛の紅顔の子
 応に憐れむべし 半死の白頭翁

 青春は二度と戻らず、ただ晩秋の時を歩くのみのようです。

なまった体

 去年の秋山が終わった後から恒例でもありませんが、ジムが中断してました。言い訳すれば冬はさすがに忙しかったのはあります。ですから春山に向かって体力づくりが必要なのですが、ジムって一度中断すると再開へのエネルギーは多大なものを要します。

 1月に再開する予定が2月にずれ込み、3月もウジウジ先延ばししているうちにコロナ。これもどうなるかと見ていたら緊急事態宣言になり、ジム自体がお休みに。とにかくヒマになったのでジムに行ける環境は出来たもののジムがやっていない状況になってしまいした。

 5月に春山をやったのですが、最後の菊水山で大醜態。完全にオーバーヒート状態になり、エスケープを余儀なくされました。体力が落ちているのを痛感させられました。

 さすがに懲りて秋山はしっかり準備をしようと思ったのですが、またもや再開はズルズル先延ばし。重い重い腰を上げたのは8月も末になってからです。

 1年ぶりに行ったジムですが、コロナ対策があれこれと。必要なのはわかりますが、マスク着用なのは参りました。もちろん自分の体力が落ちているのが最大の要因ですが、クロストレーナーは6分で轟沈しました。そりゃ、もう苦しくて、苦しくて。

 そこで戦略変更が必要になりました。付けたい体力は持久力です。去年はクロストレーナーからトレッドミルにしていましたが、マスク着用でのクロストレーナーはキツ過ぎるのでオミットにしようと決断しました。

 あれはマスク無しでもムチャクチャ辛くて、さらにジムの時間が2時間半ぐらいになってますから、カットすれば2時間ぐらいに短縮できます。都合の良い理由が付けられたので、トレッドミル1本にしています。

 ただトレッドミルもマスク着用では苦しすぎます。汗もかきますし、かいた汗がマスクを濡らすと窒息状態になりそうです。これは困ったと思っていたら、

    苦しくなればマスクを外す
 こう書いてあるではありませんか。クロストレーナーと違いトレッドミルは左右にビニール・カーテンがかかり、正面は窓。左右を見るとマスク外してやっているのが見えます。そりゃ、そうなると思った次第です。

 ただ暑い。これも理由はミエミエで、換気のために窓が開いていて、外の熱風が入ってきます。お蔭で歩き終わった後は、これでもかの汗をかき、水シャワーから水風呂に梯子しても火照った体が冷めない、冷めない。ありゃ、熱中症状態だと思います。

 それでも5回ぐらい行けば少しラクになってきました。10回ぐらいで余裕も出て来た感じです。余裕が出ればマスク着用でも出来るようになるかもしれませんが、だいぶ距離がありますね。歳とともに体力が付くスピードは落ちてますし、付く体力の上限も落ちてる気がします。

 それでもハイキングと言っても近所の里山程度ですから、春の醜態を晒さない程度に体力が付けばヨシとします。とにかくもうちょっとラクに登れないと山が辛くて楽しくありませんから。

ミサトの旅:あとがき

 今回のお話は、劇中劇と現実が同時進行する形式に挑戦してみました。発想としては面白かったのですが、書いている方としては、二つの話を考えているようなもので、案外手間がかかりました。

 それと劇中劇は映画を使いましたが、これまた撮影現場なんか見たこともないので、ほとんど想像の産物です。監督役も、最初は黒澤明ぐらいをモデルに書いていたのですが、どうにも使いにくくて、現実にはあり得なさそうな演出を行う気鋭の鬼才ぐらいにさせています。

 ヒロインはミサトですが、話の基本は青春ドラマ風です。青春ドラマの定義なんてあるかどうか存じませんが、個人的には若者が悩み苦しみながらも、ある目標に向かって心を合わせて行くぐらいに考えています。

 リンドウ先輩がわかりやすいですが、ただ甲子園を目指して、仲間たちと励まし合いながら、様々な苦難を乗り越えていくみたいな話です。とにかく仲間が必要ですから、前編にあたるミサトの不思議な冒険で不消化だった、ヒサヨやチサト、平田も活躍してもらいました。

 さらに青春ドラマに恋は必要です。いつもながら綺麗すぎる恋ですが、どうにもドロドロが描くのが重くて、ひたすら思い合う純情な恋にさせてもらっています。そういう恋がしたかった作者の投影だといつも思っています。

 クライマックス・シーンは、かなり工夫を凝らしたつもりです。二重三重の伏線がもたらす必然を狙いましたが、書く方が辻褄を合わせるのに悪戦苦闘ってところです。まあ、映像じゃなく文章ですから、辻褄を合わせきれないところは書かずに誤魔化せるのは、いつもながら助かっています。

 もう少し、大学生活の様子を描写したかったのですが、とにかく通ったのが限りなくカレッジに近いユニバーシティだったもので、サークルさえ存在していませんでした。ですから、あの程度になったのを遺憾とさせて頂きます。