次回作の紹介

 紹介文は、

 西宮学院大に入学したミサトは、写真を始めたいナオミに誘われ公認写真サークルの見学に行きます。そこで一昨年の写真甲子園で知り合った寺田と偶然出会い三人で喫茶北斗星に。


 三人が談笑中に現れたのがフォトサークル北斗星代表の加茂。熱心に勧誘されてナオミと寺田が乗り気になったのでミサトもお付き合いで入会を決めます。


 フォトサークル北斗星はケイコ、加茂、ヒサヨ、チサト、平田の五人の小さなサークルで喫茶北斗星を根城に活動しています。そんなサークル北斗星の当面の目標は夏休みに行われるツバサ杯。


 ところがここに公認写真サークルの横槍が入ります。公認写真サークルを主宰するのはミサトにも因縁のあの宗像。宗像の姑息な陰謀を加茂たちの巧みな計略で打ち破りミサトはツバサ杯を獲得します。


 ツバサ杯の主宰者は麻吹つばさ。麻吹は副賞の特典と称してミサトをオフィス加納の体験生に叩き込みます。麻吹の狙いはミサトに、写真界最高難度とされる加納アングルと光の写真のテクニックを教え込むこと。


 のたうち回るような苦行の末にマドカにテクニックを叩きこまれたミサトは、ツバサ杯の本当の副賞であるハワイ旅行に。ハワイで麻吹は三大メソド学生世界一決定戦の見学に赴き、そこでロイドたちから一昨年の写真甲子園のリベンジを申し込まれます。種目は三人一組の組み写真による団体戦。


 学生団体戦と言われても麻吹の下にいる学生はミサトだけ。勝負は来年の事だと思っていたミサトでしたが、麻吹は翌日の勝負を提案し呑ませてしまいます。心配するミサトでしたが、翌朝になり競技開始まで1時間を切ったところについに現れた二人にミサトは仰天します。


 この勝負に勝つために、麻吹が去年からどれだけの準備を重ねていたかを聞かされ、勇躍ミサトたちは決戦に臨みます。

 目指せ! 写真甲子園の続編で、スポットを当てたのは優勝メンバーの一人であるミサトです。紹介文はハワイ決戦までですが、もう一つの運命の輪を回させているのが後半部分になります。ここの綾がこの次の作品に絡んでいくのですが、それはその時のお楽しみで。

 舞台にしたのは西宮学院。ミサトは摩耶学園にしていましたから内部進学をさせる案もあったのですが、ツバサ杯のエピソードのためにそうしています。一応のモデルは名前と場所からおわかりのように関西学院です。もっとも関西学院は別に登場させますから完全に架空です。

 それと写真ネタですからシオリが出てくるのですが、相方のアカネは産休・育休設定にしているためマドカに頑張ってもらいました。ここもミサトの指導役がマドカだったので都合が良かったのもあります。あんまり書くとネタバレになるので、これぐらいにさせて頂いて表紙絵です。

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15周年みたいな雑談

 今日で開業17周年、明日でブログ開設15周年です。本業の方はコロナ危機に直面していますが、ボヤいても仕方がないので置いときます。

 15年と言うのは短いようで長いもので、当時はブログが隆盛に向かう時期ぐらいだったと思います。とにかくツイッターもFBも見たことも聞いたことも・・・なかったっけ。なんか微妙な気がするので確認しておきます。

 ツイッターは2006年3月21日に最初のツイートが始まり、2008年4月23日に日本語版が始まったとなっています。FBの方は少々複雑ですが、2004年頃に原型が始まり、日本語版は2008年5月19日からとなっています。

 このブログが始まった2005年頃であれば、アメリカでそういうツールがあるのは知っている人がいたかもしれませんが、私は知らなくても不思議無いのがわかります。

 似ているかどうかは意見があるかもしれませんが、ツイッターやFBより先にSNSとして知ったのにミクシィがあります。これは2004年2月に開始となっています。

 ミクシィをどうやって知ったのかも忘れましたが、とにかく話題になり、それを見ようと思えば入会する必要があり、入会するには会員の招待が必要・・・知人に入会されてる方がいて潜り込みましたが、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いがありました。これも今となっては、

    まだあったんだ
 もう利用しなくって十年ぐらいは軽く経っている気がします。ミクシィはFBにはなれなかったぐらいの理解で良いのでしょうか。蛇足ですがm3もあります。これも厳重な入会審査がありましたが、最後に見たのはいつだろうぐらいです。栄枯盛衰、時の流れは早いものです。


 ブログも15年の内にかなり変わってきています。私が始めたころはインターネット上の日記なんて解説があり、トラックバックという謎めいた機能もありました。内容も様々でしたが、主流は意見表明の場の雰囲気が濃厚にあったと思っています。

 ツイッターやFBが台頭してきた時に、多くのブログの論者が移行し、ブログは滅びるのじゃないかの声もあったのは覚えています。それでも生き残っているのは助かっています。ただブログもかなり変わっています。

 ブログ運営会社の収益源は広告料だと思っていますが、ここが成長してアフェリ重視になっています。私は広告が出るのが好きではないので料金を払って消していますが、ブログの大きなトレンドとしてアフェリ収入を狙うになっているようです。

 これは前に調べて知っていましたが、そういう方向性であっても生き残ってくれないと困るので、これまた時の流れと思っています。


 このブログ自体もかつての隆盛がウソみたいな静かなものになっています。あの頃は楽しかったですが、一方で大変すぎたと思っています。ツイッターでも問題になっているクソリブ問題が当たり前のようにあったからです。当時は荒らしとか粘着と呼んでました。

 ああいうネガコメは心を折りますが、人気が出ると現れる必要悪みたいなものとも考えています。そりゃ、無い方が嬉しいですが、人はそれこそ十人十色で、実世界でもああいうタイプの人間はおられます。ネットで困るのはそういうタイプの人間を実世界より敬遠しにくいぐらいでしょうか。

 あれこれ意見はあるようですが、とりあえずこれぐらい静かなブログになるとネガコメどころか、コメ自体が入らなくなります。それはそれで寂しい半面、心の平和は保てます。何事もトレード・オフなんだろうと考えている次第です。


 現在の小説路線ですが、とりあえず年内は続くだけのストックがあります。夢は印税生活ですが、どれだけ甘くないかを学習させて頂いています。とりあえず老化防止の頭のトレーニングぐらいで楽しませて頂きます。

 そうそう、二十周年まで続くかどうかは、そこまでブログ・サービスが生き残っているのか、さらに私の健康がどうなっているのかのサイバイバル問題になっている気がします。まだ早いとも言えますが、そろそろ同年齢の知人の死亡が話題に出始めているもので。コロナだって罹患すればリスクの高いグループに近づいています。

 そう言えばかつての論客もどうされておられるやら。まだ元気と信じたいですけどね。

藍那古道

 かなり前ですが一の谷の合戦のムックをやった時に三草山から鵯越までのルート考察をしたことがあります。義経軍は残された記録には2/4の夜から2/5未明に夜襲をかけて平家軍を破り、2/7の日の出には一の谷陣地の西の木戸に達しています。

 そうなると2/5の朝は草臥れて寝ているはずです。しかし、この辺は実際の合戦時間がどれほどであったかの問題が付いて回ります。源平合戦当時でなくとも奇襲が完全に成功すれば負けた方は潰走になりますが、実際の戦闘時間は三十分もないかもしれません。

 とにかく夜襲ですから追撃も容易じゃないでしょうから、平家軍が逃げ去ったっらトットと休憩時間になった可能性も十分にあるとも考えられます。ここも、もう少し強引に話を進めて三草山の合戦は2/4中に終わっていたんじゃないかとも考えています。

 そう考えるのは、三草山から一の谷までの距離になります。とにかく三草山から二泊で一の谷に到着しないとならないからです。このうち二泊目ですが、長々とムックした末に2/6は多井畑厄神と私は比定しています。そうじゃないと熊谷・平山の先陣争いが追い越し問題で成立しないからです。

 そうなると2/5はどこになるかですが山田まで義経は来てもらわないといけません。この辺は研究家も苦慮しているところで、三草山から山田まで30キロ以上あるのです。当時の一日の歩行距離の目安は40キロ(≒ 10里)です。これは夜明けから日暮れまで歩いてのものです。

 そうなんです、三草山の出発を昼頃になんかにすると山田まで半分過ぎたぐらいで日が暮れてしまいます。これが9時ぐらいに出発できれば山田に着くのは不可能ではなくなります。

 では山田に何があったかですが、鷲尾氏としか考えられません。鷲尾氏は山田の土豪ぐらいと見てよく、その勢力は山田から藍那、白川から多井畑方面まで一族は広がりはあったと見てよさそうなのです。義経は京都を出る前から鷲尾氏の協力を得ていて、鷲尾氏の館に向かって三草山から直行したと考えています。

 ここで一の谷の隠れた登場人物である多田行綱ですが、山田村郷土史に、

寿永三年二月源平一の谷の合戦の時は、摂津源氏の党多田蔵人行綱義経に属し、先発隊として丹生山田に来り、義経軍の三草より来るものと会し、藍那村相談の辻より鵯越に出で、山田の住人鷲尾三郎経春に高尾より鉄拐山までの山路を案内せしめ一の谷城に拠れる平軍を一掃したり。

 とにかく行綱の記録は玉葉ぐらいしかないですから注目しても良いと考えています。行綱が一の谷の合戦に参加していたのは確実ですし、範頼の大手軍に属していないのもまた確実ですから、一の谷の裏手に当たる山田に進出していても不思議無く、義経と合流していても不思議無いぐらいです。

 山田からは藍那古道を経て藍那に。藍那は谷間の村ですが、そこから坂道を登り詰めると相談が辻です。相談が辻は地理的には、右に曲がれば白遍路と呼ばれた塩屋に続く道になり、左に曲がれば鵯越道で高尾山を超えて会下山に通じます。

 2/5に行綱軍と合流した義経は、2/6の夜明けとともに相談が辻を目指し、そこで行綱と別れたと見ています。つまり行綱は鵯越道で高尾山を目指し、義経は白遍路で塩屋を目指したぐらいです。

 白遍路は前に歩いたことがありますが、今回は藍那古道を歩いてみました。藍那と山田を隔てているのは里山で、山道ですがよじ登るような急峻な個所はなさそうでした。つまりは馬を曳いて容易に超えられると思います。

 単なる感想ですが、これで一の谷の義経ルートは全部解明したように思いました。ちょっと満足したかもしれません。

コロナ対策の派手と地味

 1か月ぐらい前ですが旧友と話す機会がありました。とにかくコロナ自粛でウンザリしていましたから、話が弾みました。これでも医者ですからあれこれ聞かれましたが、私とてマスコミ情報とかネット情報ぐらいしか知らないわけで、

    とにかくわからない事が多すぎて答えられない
 せいぜい話が出来たのは抗原検査と抗体検査の違いぐらいです。これとて抗原検査はともかく、抗体検査については本当にコロナの抗体を見ているのか、もし見ていたとしても免疫獲得の証拠になるのか、免疫を獲得しても終生免疫になるのかは、
    1年ぐらい情報を分析しないとわからない
 辛うじて言えそうなのは、他の感染症と同様に高齢者ほど重症化しやすく、若年者、さらに子どもは軽症で終わりやすいぐらいです。その点では年齢的に高齢者にかなり寄っていますから、罹っても軽症で終って欲しいぐらいです。


 この辺はたいした話ではないのですが、ちょうどお隣の府知事が派手なパフォーマンスをやっていた時期でした。これじゃ、批判的過ぎて良くないですね。危機に指導力を見せておられた時期です。それに比べて我がノジギク県知事は頼りないとの話題を振られました。

 そういう批判がマスコミにもSNSにも多かったと思いますから、出てきても不思議ないと思います。危機に際して強いリーダーシップは期待されますし、その役割をお隣の府知事は果たされていましたから、

    それに比べて・・・
 そういう感想を抱いてしまうのは理解できます。ただ、私は少し考え方が違います。まずもってノジギク県は広い上に地域事情が違い過ぎるのがあります。ほぼ、ほぼ大阪平野に位置するタコヤキ府と同じに出来ないのがあります。とにかく県民意識の低い県ですからね。

 それより何より未だに未知の部分が多すぎる感染症です。未知であるが故に断片的な情報から様々な仮説が乱立しています。そうまだどうするのが正解なのかわからない段階なのです。当時の焦点は自粛の解除をどうするかでしたが、あれとて、

    やってみなければわからない
 そりゃ、感染症対策だけを考えれば、そうですね、ワクチンが開発されて広く接種されるぐらいまで延々と自粛をやれば良いでしょうが、そんなことをやっていれば感染拡大を防止できても経済が死にます。経済なんて振りかぶらなくとも、オマンマの食い上げになります。今だってそうなりそうです。

 だから自粛解除が政治的に焦点になっているのですが、正解が見つからない時には試行錯誤、つまりはテストが必要です。正解そうな方法を試してみて結果を確認するしかありません。つまりって程ではありませんが、どこかが先行したテストの結果を受けて動くのが堅実ぐらいでしょうか。

 とにかくテストですから失敗することもあるわけで、失敗なら採用しなけりゃ良いだけです。それぐらいは待つメリットはあるとするのが私の考え方です。ですから待ちに回ったノジギク県知事のやり方をストレートに批判できなかったぐらいです。

 もっとも、政治的には受けないでしょうね。そりゃ、政治的には先頭切って独自基準で成功させたいでしょうから。さらにそういう動きが国を動かした側面の効果もあると思います。でも、こういう時には鶏口よりも牛後もあると思った次第です。

 ちなみに旧友は不満げでした。それもわかります。どちらにしても、下々ではタッチできない話なので、とにもかくにも生き残りたいぐらいでこの話題は終わっています。

言語学的な習得法

 今日もまた、しつこく、

紹介しておきます。見てもらえればそれでOKぐらいですが、これまた、いつものように感想を書いておきます。ただし、今日は内容に触れません。もうちょっと俯瞰的な雑談を少しやります。


 ある知人。この知人がムチャクチャ優秀な人物で、東大のどっかを卒業してから医者になりたくなって東大の医学部に入り直し、趣味で韓国語を覚えて、さらに道楽で裁判傍聴をやって、法律知識がプロ並みって超人です。ある種のマルチ人間みたいなものです。

 運動だって・・・それは存じません。運動はともかく、興味が向かうところ敵無しみたいな、私から見れば怪物級の人物で人生楽しいだろうなって羨ましい人ぐらいと思ってください。

 さてその知人ですが、東大に二回も合格するぐらいですから、受験英語は完璧のはずです。もっともあくまでも当時の受験英語ですから、私のように英会話が出来ない可能性がかすかに残りますが、あの勢いならたぶん出来ると思います。

 どこまで行っても羨ましい人物ですが、なんとなんと、どっかの外大に聴講生として通った時期まであったそうなのです。どれだけ勉強が好きやねんは置いときます。私が好きでないと言うか、嫌いなのは高~い、高~い棚の上に置いてカギかけときます。

 かの優秀過ぎる、東大の受験英語さえクリアし、英語のテキストであろうが、ペーパーであろうが余裕で斜め読み出来るほどの人物でさえ、英語習得はやはり受験英語でした。というか、他に習得法はないですし、英語習得の短期的な目的は入試クリアですからそうならざるを得ないでしょう。

 受験英語技術を最高水準で会得した人物でさえ、やはり英文法は難物であったようです。もちろん、私ごときレベルとは理解の度合いが桁が二つは余裕で違いますが、それでも容易ではなかったぐらいです。その知人曰く、

    このYoutubeの説明的なことは言語学をかじって理解できた!
 言語学習と言語学は似ていますが違うはずです。言語学なんかやったことがありませんから、ホントのところはわかりませんが、言語の科学的な構造分析みたいなものぐらいに思っておきます。そういう意味でおもしろがってくれました。


 さてですが、英語を学ぶ時に英文法は付いて回ります。これが難物であるのは経験者多数だと思います。難物過ぎて、受験が終われば二度と触れたくない人も少なくないと思っています。今は変わっている部分はあると思っていますが、当時の私は英文章を見ただけで、

    どこかに罠がある
 こうやって身構えたものです。そう英語とは試験問題であり、そこには常に罠が待ち構ているはずだぐらいです。世の中には試験好きもいますが、そうでない者もいるわけで、深く深くトラウマになって今に至るぐらいです。

 日本人は英語知識があっても英会話を苦手とする理由は、リスニング、発音の壁はもちろんですが、常に間違ってはならないの無意識の重圧があるのも理由の一つぐらいに思っています。それも受験英語のトラウマの気がしています。

 英語が話せるようになるには、実際に話さないと出来ないはあちこちに書かれています。世界的には難解とされる日本語を習得された他言語族の人も、実際に話せるようになるには、ネイティブとの会話無しには無理としています。

 単なる言い訳で、自分の能力と、積極性の無さだけの問題ですが、受験英語で間違ってはならないの意識を叩き込まれると、話すのはやめようと思ってしまう一面はある気がします。


 恨み深き英会話の話はこれぐらいにして、このYoutubeで提唱される英語習得法は果たして有用かどうかです。有用なのは間違いありませんが、真っ白な英語初心者にはどうかです。というのも使われている用語のレベルが高いと言うのが気になります。

 それは英語的ではなく日本語的にです。私はごく素直に受け入れられましたが、中学生レベルでどうだろうかです。ぶっちゃけ、受験英語で呪文のように暗記し、とにかく断片的な知識として詰め込まれていた物の整理には目から鱗クラスです。

 ただのっけからこれでスタートしたらどうなんだろうの疑問です。もちろん革命的に覚えやすくなる可能性もあります。ここでどんな学習法でも無理な人は置いときますが、英語の初歩的な文法をある程度覚えたところで、サクッと再整理に使った方が効果的な気がします。まあ、この辺は受験英語による英語戦死者の恨み積りもあるのは否定しません。つうか、それがすべてです。


 それでも良い時代になっていると思います。言うまでもないですが、私の青春時代にはネットなんてSFにすら出てこない世界です。英語学習にしても、学校、塾、参考書ぐらいしかなく、当然ですが教える人物は、受験英語を勝ち抜いた強者です。そうあの方式でも英語が習得できた成功体験者とできます。

 どれだけ英語学習で苦戦しても、他に選択肢がなかったとして良いでしょう。当時でもあったかもしれませんが、ネット時代前の情報伝達力は極めてプアです。当たり前のようにネットがある時代に住んでいるとわからないと思います。

 従来のメソドで討ち死にしそうになった時に、このYoutubeがあれば活路を開くことが出来たかもしれません。そんなことを思わせてくれる優れモノでした。